バタン、と鈍い音がした。
晃(ひかる)は出て行ってしまった。

ベッドに横たわっている体で寝返りを打つ。
うっすらと目を開けると、昨日までと同じように玄関も窓も閉めきられていた。
ただ違うのは、窓際にあったサボテンの居場所。
広げようとした蕾がくたびれた状態でサボテンは砕けた鉢と共に床の上に転がっていた。
根はむき出し、土は散乱、鉢は粉々。根も葉も色あせている。

全て、俺にとっては予測のついていた風景。

枕元の目覚まし時計がカチカチと針を震わす。
じっとりとした部屋の空気が、嬉しくもない梅雨の近づきを俺にちらつかせている。
目を動かし、手を伸ばし、時計で時刻を確認すると、もうすぐ日の出の時刻になることが分かった。
俺はもう一度目を閉じ、彼女の姿を描いてみた。
晃が俺に向けた最後の言葉は、さようならでもゴメンでもクソ野郎でもなかった。
ただ一言、いっそ殺せと、口にした。
そして、勢い良くサボテンの鉢を叩き割ってみせた。
サボテンは、今もフローリングの上であられもない姿でいる。
拾い上げるのはいつだって良い。枯れる心配なんてものは要らない。
何故ならサボテンは俺が枯らしてしまった。
それと同時に俺は晃も失ってしまっていた。
全ては、晃との約束だった。


俺が晃と出会ったのは何時だっただろう。随分前のような気もするし、つい最近だったような気さえする。
確かなのは、俺と晃が出会ったのが学校だったことだけだ。
その年俺は男なのに運悪く園芸委員ってヤツになった。
その時の相方が晃だった。初めはそれだけ。
晃は、クラスの中で目立つ存在だった。俺は逆に目立たない地味な存在で、その時まで晃とは目を合わせることさえなかった。
園芸委員の主な仕事は、花の水遣りと教室に花を飾ることの二つで、俺以外の委員は大抵サボっていた。
俺はサボっているヤツのことを気にしなかったし、その分担当の先生と仲良くなったりして、それなりに委員の活動を楽しんでいた節があった。
でも俺の次に仕事を熱心にやっていたヤツが一人だけいて、それが紛れもなく晃だったことが、俺は今でも意外に思う。
晃は、誰にも見られないように毎朝早く来ては教室の花の世話をしていた。
実際、誰も晃の花の世話をする姿を見た者はいなかった。

ただ、俺だけを除いて。


ある夏の日、俺は教室に忘れ物を取りに行った。特に暑い日だった。
教室の扉を開けた瞬間、振り返った晃と目が合った。晃の手には、教室の中でも一番存在感のなかったサボテンの鉢が握られていた。
「何してるんだよ?」
俺が問うと、晃はサボテンを教卓の上に置いた。
「直射日光から離しただけだ」
「何言ってるんだよ?日光が当たらなかったら、サボテンなんだから枯れるに決まってるだろ?」
「サボテンはキツい光で変色する。それを防いだ」
晃は長い黒髪をひるがえして、教室から去った。
俺は遠ざかっていく晃の足音を聞きながら、廊下を長い間見つめていた。遠くで煩く喚き合っているはずのセミの声も、頭の中まで響いてこなかった。
俺の中で晃の印象が、ガラリと変わったのを覚えている。
それから半年間、今度は俺が誰にも悟られないように誰よりも早く教室に来て、晃を待つようになった。
晃のお気に入りはサボテンだと判るのに時間はかからなかった。


次に晃と話したのは、高校に入ってからだった。
晃は、ますますクラスから浮く存在として認識されていた。
だけど、晃はクラスの中で一番の美人だった。いつだって注目されていた。あらぬ噂さえ流れるほど学校内の関心を集めていた。
だが俺は晃がどうしてこうも集団の中で浮いているのか分からなかった。
その頃から俺は晃を気にするようになった。会話のない再会と共に、サボテンのことを思い出し、本などで調べるようになった。
その反面、晃は俺のことを忘れてしまったようだった。
特に接点のない時期が、だらだらと続いた。


俺と晃が二度目に会話したのは、植物園だった。
遠足で行った植物園で、俺は真っ先にサボテンが展示されている温室へ向かった。
何かを期待して、行ったんだ。
温室の中ではポツンと立っている晃の後姿があった。
その時の俺は、嬉しさで手が震えた。この辺はもう良く覚えていないけど、確かこう言った覚えがある。

「やっぱ、サボテン、好きなんだ」

慌てて晃が振り返る。俺が微笑む。
「誰?いきなり何だよ?」
黒い髪がしなやかに流れてから、晃の睨む顔がこっちに向けられた。革靴のつま先が、コツンと床を蹴る。
俺は、ゆっくりと晃に近づく。
「サボテンって、ちゃんと育てて時期が来れば、綺麗な花が咲くんだよ。俺、サボテン好きなんだけど、結構皆サボテンって聞くと緑のイメージしか浮かべないらしくて悲しいんだ。赤や白や黄色の花が咲くなんて皆知らないんだ。俺はその限られた時間しか姿を現してはくれないサボテンの可憐な花は、もちろん好きだ。白や灰や茶の色を持つ棘も、強い生命力も、全部好きなんだ。なかなか花をつけないサボテンも、好きだ。だけど皆は、サボテンには花が似合わないと嫌う」
俺の言葉に、晃は首をかしげた。
「質問には答えろよ」
「でも皆、月下美人って聞くと綺麗な花のイメージを浮かべるから不思議なんだ。あれもサボテンの一つなのに」
「何が言いたい?」
晃の顔を見て、俺は口を開く。


「俺と付き合ってくれないか?」
その時の晃の顔は、俺は一生忘れないと思う。この先ずっと時代が変わっても。


「お前…馬鹿か?」
「サボテン馬鹿かな」
「大体、名前しか知らねぇのに…」
「俺は、君がサボテンが好きだってことを知ってる。そして今君は、俺がサボテンが好きだってことを知った。それだけじゃ不服?」
晃は眉間にしわを寄せたあと、顔を歪ませて大声で笑い出した。
しばらく腹を押さえながら笑い続けた後、目に浮かんだ笑い涙を拭って、唇をキュッと結びなおした。
「別に構わねぇ。だけど…」
すると晃は俺の腕を掴んで、植物園の売店まで俺を引っ張って歩いた。そして並んでいた鉢植えの小さなサボテンを指差した。
「このサボテンを、枯らしたら別れる。それが条件だ」
それが最初で最後の、俺と晃の約束だった。


日の差し始めた部屋の中で、俺は静かにベッドの上に起き上がった。
湿度の高い部屋の中で、湿った土の匂いが充満している。
立ち上がり、カーテンを開く。足元には、砕けた鉢と可愛そうなサボテン。
数秒見つめた後、しゃがみこんで土を掻き集める。土は、じっとりと湿って俺の手の体温を奪っていく。
何故こうも失ってしまった瞬間に、人は強い後悔を抱くのだろう。失ってしまったものを浮かべながら、そのものに対する執着心を滲ませてしまうのだろう。
晃の姿を思い出しただけで、今までの出来事全てがとめどなく溢れては、俺自身に降りかかってくる。



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