「先生」
気付くと、看護婦が右腕でカーテンを捲り上げながら私に声をかけていた。どうやら随分ボーっとしていたようだ。
「最後の患者さんの診察、お願いします」
「あ、あぁ、分かりました。どうぞ」
すると看護婦は溜め息を零しながら、一歩下がった。
看護婦が上げているカーテンを潜って現れたのは、きっちりとスーツを着こんだ神経質そうな若い女性だった。
全体的に色素が薄く、肩に掛かる髪は細くて赤茶色だ。細く赤く縁取られた眼鏡の奥では、女性らしい垂れ目が私の目をまじまじと見ている。
「どうぞ、座ってください」
私が椅子を指し示して促すと女性は静かに会釈をして、私の向かいに置かれた小さな椅子に、ゆっくりと腰掛けた。
女性は姿勢を治すと、すっと私に目線を合わせた。
「こんにちは。ここに来るのは初めての方ですよね?」
「えぇ、雑誌の特集を見て…来てみたんです。先生は他の精神科医とは違う、と聞きました」
女性の表情は、一切変わらない。落ち着いているとも、かしこまっているとも思えない。
やりにくい相手だなと思いつつ話を合わせる。
「お恥ずかしい話です。大袈裟に書かれているだけなんですよ」
「いえ、私の遠い親戚も先生のお力で治ったと聞きます。ですから私も先生のお力で治して欲しいと思いまして…実は私……表情が作れないんです」
なるほど、と私は心の中で納得した。この女性は表情を変えなかったのではなく、生み出せずにいたのだ。
感情表現が出来ない患者の場合、表情から病状を読み取ることは出来ない。つまりは心の声に頼る治療しかできないということだ。
「それはいつの頃からですか?」
色素の薄い瞳が、私の目線を掴む。
「今の会社に勤め始めて二年目の冬からです。もう、半年以上になります」
私はうなずいて見せた。うなずく間に眼を閉じる。そろそろ心の声が聞こえても良いはずだ。しかし一向に心の声は耳に届かない。
違和感を覚え、私は目を開けて再び女性に目線を向けた。女性は先ほどと同じように姿勢良く座ったまま私に目線を合わせた。
「その頃、引越しなど日常での大きな出来事がありましたか?」
女性は何度か瞬きを繰り返した。
「いいえ、特にはありませんでした」
私の心の中に、微かなざわめきを感じ取った。心の声が聞こえない。
「発覚したきっかけを教えていただいてもよろしいですか?」
「はい、教えてくれたのは同じ会社に勤める友人でした。私は、いつものように過ごしていたつもりでしたが、その日突然私の顔から表情がなくなったんです。私がいくら頑張って笑おうとしても、泣こうとしても、怒ろうとしても、顔の筋肉は思い通りに動いてくれないんです。会社の上司からは愛敬くらい振けと毎日皮肉を言われ、友人たちは徐々に私に話しかけてくれなくなりました。私、もう嫌なんです」
「なるほど、コミュニケーションが上手く出来なくなってしまったんですね」
私は首を振りながら落ち着いた口調で言葉を発した。しかし、内心では心の声が一切聞こえないことに焦って困惑していた。
どうして心の声が全く聞こえないのだろう?おかしい。こんなことは初めてだ。どうしてだ?
私の頭の中は疑問の言葉で埋め尽くされる。
「先生、私はどうしたら良いんでしょうか?」
「落ち着いてください。質問を変えましょうか。最近気になっているものや出来事、あるいは突然嫌悪感を覚えたものや出来事はありますか?」
心臓が私自身を責め立てる。落ち着けば心の声は聞こえるはずだ、となだめる。焦ってしまったらカウンセリングは失敗する。
「そうですね…あまりありませんね。ただ自分の表情が作れなくなってから、人の表情や顔色を見るのが上手くなってしまって………先生?お顔の色が悪いですが…大丈夫ですか?」
呼びかけられ、ドキリとする。
「いえ、大丈夫ですよ。最近疲れが溜まっているのか、よく顔色が悪いといわれます」
必死になって笑顔を作る。だが、まだ焦りは消えない。やはり心の声は聞こえてこない。
「先生?私…また笑えるようになるんでしょうか?不安で、不安で…」
「大丈夫ですよ。じっくりと時間をかけて、粘り強く頑張りましょう」
女性は私の白衣の肩の部分の両側を手で掴んだ。表情は以前変わらないまま。しかし私の体を掴む手と吐き出す息は震えていた。
「私、早く日常を取り戻したいんです。一分一秒でも早く治りたいんです。何で私が表情を失ったのか、知りたくてたまらないんです。先生なら治せますよね?」
冷や汗が、私の体からにじみ出た。
「………」
私は瞬時に断言できなかった。
「先生、どうして断言してくれないんですか?私の気持ちは分かってくれないんですか?」
女性の手に、更に力が込められる。
「私の心の声が聞こえないからですか?」
私は言葉を失った。長い沈黙が訪れた。
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