女性は私の反応を受け取って、静かに手を放した。そして、唇を薄く引き延ばして微笑んだ。
「やっぱり、貴方には患者さんの心の声が聞こえていたんですね。騙すようなことをしてすみませんでした」
何が何だか、どうなっているのか状況を把握できない。女性の声が、笑顔が遠く感じられた。この女性は…私に何をしたんだ?
「…ちゃ、ちゃんと説明してください」
女性は優しそうな表情を浮かべた。先ほど目の前にいた女性とは正反対の印象をもつ人物が、目の前の椅子に座って私を見ている。
「私は、こういう者です」
女性はスーツの胸ポケットから黒い皮の名詞入れを出し、一枚の名刺を私に差し出した。
名詞には『カウンセラー・河井倖』と印刷されていた。
「カウンセラーの方が…どうして精神科を…訪れるんですか?」
「すみません、肩書き、病状や名前など、全て先ほど申し上げたのは偽りです。私は貴方にお会いしたくて来たんです」
「どうして私に?…どうして私が患者の心の声を聞こえると知ったんですか?」
「最初に申し上げましたように、私はこの病院のことを雑誌の特集で拝見しました。そして貴方のことも」
女性は足元においていた鞄の中から、二つ折りにされた雑誌を取り出した。ぱらぱらと白くて細い指がページをめくる。女性は特集のページを広げて、私に見せた。
雑誌にはページをまたいで『患者の気持ちを汲み取る奇跡の医者』という言葉が大きく印刷されていた。
目がチカチカするような文字の配色の中に埋もれるように、私の写真が組み込まれている。
「この特集を読み終えて、もしやと思ったのです」
「それだけで、ですか…?」
「いいえ。この雑誌で貴方のことを知ったから、というだけではありません。私の診ている患者にも、貴方と同じように他人の心の声が聞こえる人が何人もいるんです。その人たちと貴方は良く似ています」
「何人も、いるんですか?私と同じように、人の声が聞こえてしまう人が…」
「えぇ、その人たちは全員元精神科医やカウンセラーの経歴を持っていました。また心の声は職場についてから、一定期間を持って聞こえ始めたといいます。最初は砂嵐のような耳鳴りだったものが、診察の回数を増やすたびにハッキリと聞こえるようになり、患者以外の人間の声も求めてもいないのに聞こえてしまってコントロールできなくなってしまう」
私は何度もうなずいてしまった。そんな私を見て、女性は同情するように微笑んだ。
「全部、当てはまりますね?」
「はい」
「良かった。もしも私の思い違いだったならば、大変なことになっていました」
ホッと胸を撫で下ろす仕草を女性は見せた。
「何故わざわざ、あんな芝居を?」
女性は、暖かい息を吐き出す。
「病状が悪化するうちにと思い、居ても立ってもいられなかったのです」
「病状…?私は病気なんですか?」
女性は笑顔を整えた。
「はい、精神科医あるいはカウンセラー特有の精神病です」
私は頭の中が真っ白になった。
「そ、そんな症状…初めて、聞きました…」
「まだまだ認知度が低いのは仕方ありません。しかし患者数は年々増えています。初めてこの症状を発見したのは、紛れもなく私です」
女性は手にしていた雑誌を鞄に戻した。
「この症状は精神科医またはカウンセラーだけに表れるんですよ」
「どうしてですか?」
「カウンセラーや精神科医は、現場で日々培われていく経験によって、患者の病状や心理状況を常に汲み取って行動しています。そのなかで、なんらかのストレスが生み出されると錯覚を起こすのです」
「錯覚?」
「はい。患者の姿、様子、表情から患者の心理状況を汲み取るプロセスが簡略化され、患者の心の声となって感じ取れるようになってしまうのです。
ですから、貴方はテレパシーのような心の声を患者から受け取って耳にしていたのではなく、患者の様子を分析して自らに投げかけていたのですよ。
だから、さっき貴方は私が表情も様子もメッセージも示さなかったのに対して困惑し、私の心理状況を汲み取ることが出来なかった。
つまり心の声が聞こえず、医者としての本能が困惑したのです。
貴方が冷静に演技を続けていたなら、私は数日通院した後に諦めるつもりでした。でも上手くいってよかった」
私は体中から力が抜けた。どっと疲れを感じ、椅子に体重を預けた。
「私は…どうしたら良いんでしょうか…心の声は聞こえなくなるんですか?」
「貴方はどうしたいのですか?このまま心の声を聞き続けたいですか?」
「私は…」
時計の長針が、またカチリと音を立てた。
私は唾を飲み込んだ。力が消えるという突然の希望の光に戸惑いは隠せなかった。
「このまま聞こえなくなるのは困ります。でも、聞こえることに嫌気が差すときもあるんです。私はこの力を失いたいとは思わないんですが…その…本当は、心の声を聞く力をコントロールしたいんです。聞きたくなかったら聞こえないように、なりたいんです」
私の言葉を聞いた女性は、優しく微笑んだ。
「簡単なことです、眼と耳を閉じてしまってください。相手の様子を貴方が感じ取らなければ、貴方は心の声を聞き取ることはありません」
「そんな簡単なことで、良いんですか…?」
「はい、その心の声を二度と聞きたくないと感じたら、私の元にカウンセリングにいらっしゃってください。いつでも、よろしいですから」
さらっと告げた女性の声に、私は声を上げて笑い出したくなった。口の端が思わず上がり、はは…と息を吐き出した。
「聞きたくなくなる時は、きっと私に一生来ないですよ」
女性は嬉しそうに笑って立ち上がった。
「では、失礼いたしました」
日常に戻ろうとする女性の背中を見つめ、私の肩が大きく震えだし、とうとう笑い声が漏れた。
大きな声を上げて笑う私の声は、きっと女性にも聞こえただろう。
それは私も人間という弱い生物の一人なのだと、痛感したことによる笑いだった。