「次の方、どうぞ」
看護婦の声から数秒経ってカーテンが捲られた。現れたのは少しシワの寄った紺のスーツを着こんでいる若い男だった。いかにも気が弱そうなタイプに見える。
二十代後半であろう男は私の目の前にある椅子に静かに座った。微かに椅子の軋む音が耳に届く。
「こんにちは、ここに来るのは初めてですよね?」
私はくるりと回転椅子に乗せた上体を患者に向けて、微笑む。
あぁ藁をも掴む気持ちなんだ。助けて欲しいから来たんだよ。
「実は、最近全く眠れないんです。眠ろうとしてベッドに入ると、必ず胸騒ぎがして…」
「いつから胸騒ぎを覚えるようになったか教えてもらっても良いですか?」
男は眼を泳がせながら、考えている。
確か、あの夢を見た日から、だから…
「ちょうど一ヶ月前、ぐらいからだと思います」
「その頃、何か変わったことなどありましたか?引っ越しや、大きな出来事など」
男は戸惑う表情を見せた。
「…夢を、見ました」
「詳しく教えてもらっても良いでしょうか?」
「内容は、初めは曖昧で、天災だったり火事だったり、上司に怒られたり・・・嫌なことばかり続く夢だったとしか思えないものが…毎晩、同じその夢を見るうちに詳しく描写されるようになって…」
もう見たくないんだ。
「なるほど、その夢を見始めて、体調や仕事に支障は出ましたか?」
そりゃ出るに決まってる。そんなこと聞かないでくれよ。
「えぇ…頭痛が酷くなったので頭痛薬を飲んでいたら、今度は胃がやられて仕事が手につかなくなって困っているんです」
薬に頼らない生活に戻りたいんだ。
「分かりました。仕事に復帰できるようにしたい、と。ならば、少し様子を見ることにしましょう。いっそお休みをとられる事をお勧めします。何か、趣味など暇つぶしになるようなことはありますか?」
薬がなくて治るのか?仕事はどうせ行ける状態じゃないが…この医者、本当に医者か?
「え…それで、ちゃんと治るんですか?」
「えぇ。まずは無理に眠ろうとしなくなることが第一です。嫌なことを自分に押し付けることほどストレスになるものは無いんですよ。ですから一週間ほど好きなことをしてみたらどうですか?仕事や眠りより優先したいものに、とことん時間を費やしてみてください」
そりゃそうだろうけど…。
「ジョギングなどで体を動かしてみるのも良いですし、読書などでゆったりとした時間を過ごすのも良いでしょう。私だったら、ゆっくりジグソーパズルをやりたいですねぇ」
パズルか…確か俺もどこかにやりかけのパズルが家の中にあるなぁ。
「わかりました」
「お大事に」
男は二、三度頭を下げるとカーテンの向こうに戻っていった。
私は浅く息を吐くと左肘をついてメモを書き始めた。この患者はまだ素直なタイプだったな、と男の姿を思い浮かべながらボールペンを走らせる。
壁に掛かっている時計に眼をやると十五分ほど針が動いていた。
四年前のあの日から診察の時間は少しずつ短くなり、患者の量は年々増えて今や三倍になった。
全ては患者の心の声のおかげだった。初めはごく限られた人のものしか聞こえなかったが時間を追うごとに範囲が広がり、更に声はハッキリと聞こえるようになった。
今となっては他の音と区別がつかないほど私の耳には鮮明に届く。
そう、私には患者の思っていることが、そのまま声となって聞こえてくる。
この能力は私が生まれた時から備わっていたものではない。
聞こえはじめたのは四年前、三十の春の日のことだった。
まだ私が大きな病院に勤めていた頃の話。確かその頃の私は精神科医という肩書きにすっかり慣れ、新米とは呼ばれなくなっていた。
その頃の患者の一人に、その当時から珍しくない不登校になってしまった小学二年生の女の子がいた。
その女の子の名前が「奈乃香」だったことはまだ覚えている。
母親に連れられて私の目の前に初めて現れた時、奈乃香はずっと下を向いて椅子に座り込んでいた。
「こんにちは、はじめまして」
私が声をかけても奈乃香は何も反応を見せてくれなかった。私は真っ黒なショートカットの丸い頭を見つめ、困ってしまった覚えがある。
すると母親が奈乃香の頭をなでて、奈乃香の症状についてこと細かく説明した。
母親の話をまとめると、奈乃香は四月に今の小学校に転入し友達を作ってうまくやっていたそうだ。
だが、ある朝学校へ行くために目覚めた奈乃香は、突然洗面所で洗顔している最中吐き気を催し嘔吐したという。
母親は風邪をひいたのだろうと思って学校を休ませた。しかし翌日も、翌々日も奈乃香は回復しなかった。
熱は一向になく一週間が経つ頃母親が不審がり、ある病院に奈乃香を連れて行った。しかしその病院に通い始めても病状はよくなることはなかった。母親は病院を転々として私の勤める病院に来たということだった。
私は母親の話を聞き終え仕事用の笑顔に切り替えた。
「それでは奈乃香ちゃんと話がしたいので、お母さんにはちょっと席をはずしていただいても良いですか?」
すると母親は戸惑った表情を見せたものの看護婦に連れられて、ゆっくりと診察室から姿を消した。
診察室には私と奈乃香だけが残された。
「奈乃香ちゃんの思っていること、全部先生に話してもらっても良いかな?」
奈乃香は少し困っているようだったが、静かに話し始めてくれた。
「学校に、行きたい……だから、病気治したい」
その時、砂嵐に似た耳鳴りのようなものが聞こえ始めた。ザザ…と鼓膜を震わせる。
「学校に行けるようになったら、奈乃香ちゃんは何がしたい?」
ザザ…ザ…いき…な…ザザ…
もう一度、しかし更に大きく耳鳴りがした。
「皆と遊びたい」
…あそ…た……ザ、ザ…
「どんな遊びが好きなの?」
ザザザ、ザ、嫌…
耳鳴りが、うるさい。
「皆でドッヂボールがしたい」
嫌…本当はドッヂボールなんか大嫌い!
砂嵐の雑音の中、奈乃香の声がした。
「奈乃香ちゃんは、ドッヂボールが好きなの?」
奈乃香の顔が少し上げられた。
…好き、だけど…
奈乃香の声が耳に届く。しかしずっと見ていた、その薄くて可愛らしい唇はピクリとも動いていない。私は自分の眼を疑った。
「だけど?」
つい返してしまった。
奈乃香は瞬時に私の顔を見た。
今、先生…奈乃香の気持ち分かったの?
声が聞こえる。でもやはり奈乃香の顔は驚き強張ったままだ。砂嵐は一切聞こえない。
「ドッヂボールは好き、だけどボールは…嫌い。皆が…奈乃香にぶつけるから」
「皆?」
奈乃香は、かぶりを振った。
「達也君とか透君とか…皆、奈乃香にぶつけるの。痛くて、痛くて、泣いてたら、もっとぶつけられるの」
だから学校には行きたくない。
「奈乃香ちゃんは、学校に行きたくないんだね」
小さな肩は、震えながら縮こまった。
「先生、奈乃香が学校に行きたくないって思ってること、お母さんには内緒にして。お母さん、奈乃香が学校に行けなくなってからお仕事お休みしてるの。それに溜め息ばっかりで…奈乃香のせいなの。奈乃香が学校に行けなくなっちゃったから、お母さん…」
小さな子供の母親への思いやりに、私は胸を痛めた。こんな小さな子供にとって、世界の大部分は母親が占めているのだろう。
「わかった、約束するよ」
奈乃香はホッとした表情を見せた。
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