職場の上司の命令を受け、県外にある下請け先の会社へ急遽、出張しなければならなくなった。そう山口から聞かされたのは、今から三週間ほど前のこと。期間はおよそ一週間、山口本人もかなり渋ったというのだが、断る権限はない、との上からの圧力に結局、根負けをし、引き受けることになってしまったという。
 二年前に行ったスキー旅行で使った以来、クローゼットの奥の方に仕舞いこんでいたスーツケースを慌てて引っ張り出したのが出発の一週間前、着替えから何からすべての荷物を詰め込んだスーツケースを手に玄関に立った山口を見送ったのが、早くも五日前の早朝の出来事となっていた。それなのに、うっかり仕事から帰って玄関のドアを開けながら「ただいま」と口から出してしまい、返事が来ないことにようやく、誰もいない部屋の空虚さを味わった。それは山口が出かけてから二日目の夜のことで、前日にも犯した愚行を繰り返してしまった自分のどうしようもなさに、ほとほと、呆れかえってしまった。その事実を、出来ればこのまま誰にも知られずに済ませたいと心から願ったのだが、ふと冷静になって、そもそも知られるわけもないのだと、気付いたのは今朝のことだった。この部屋には、今、自分一人だけなのだから。山口が帰ってくる予定の日まで、まだあと二日も残っている。


 仕事の帰り道で調達してきたコンビニ袋の山を、ひとまずダイニングテーブルの上に並べ置く。形の異なる食料品で膨れたビニル袋はバランスを崩し、ガサリと乾いた音を立てつつ、動きを止めた。その影響を受けたのか、ビニルの向こうに置かれていた一輪挿しの花瓶がわずかに揺れ、そこに入れられたままの赤色の花が、もたげていた首をほんの少し右へと傾けた。その花は、最後に山口が挿していった、最も新しい一本だった。
 山口を見送った朝、その花は血のように鮮やかな赤色をしていた。みずみずしく張りのある花弁に覆われた花は生命力にあふれ、朝の光に向かって胸を張っていたように記憶しているのに、今はもう、その面影はどこにもない。花びらは味気なくぼんやりとした印象にまで色褪せてしまい、あんなに立派に大きな花を支えていた茎は、ちからなく項垂れて疲れ切ってしまったように見える。そう、まるで仕事をやり終えてきた、今の自分のように。
 一緒に暮らすようになって二年。いつ山口がこの一輪挿しをダイニングテーブルに置くようになったのか、具体的な日付は思い出せないが、長くてもここ半年のうちに山口が自主的に、季節に合った花を選んで、ここに挿すようになった。初めは気になって、目に映る花の種類が変わる度にその名を尋ねていたのだが、いつからかそれもしなくなっていた。
 山口は毎朝目が覚めると、決まって真っ先にこの花瓶の水を変え、花の具合を確かめては、次に仕事帰りで花屋に寄れる日をカレンダーで確認していた。その様子に、自分は、一日くらい花のない日があったって構わない、と告げたこともあるのだが、結局その通りになった日は一度としてこなかった。山口は何かの目的があって花を飾るようになったのかもしれなかったが、その目的とやらをこちらが読み取ったこともなければ、山口が説明することもなかった。
 山口が一週間も留守にする、と知った時、正直この一輪挿しの花の存在が頭の片隅に過ぎった。毎朝決まって水を変えているだけだ、と出かける直前に教えられたものの、実際、今目の前に置かれている花は予想よりはるかに早い速度で、くたびれていってしまっていた。何が違うのか。脱ぎ捨てたジャケットとネクタイを傍らの椅子の背にかけ、ダイニングの椅子に深く腰掛けた。目線の先にあるうつむいた花の背に声をかけるような気持ちに合わせ、ため息をつく。山口と自分の、何が違うというのか。
 仕事の疲れで強張った肩や背を丸め、肘をつき、頭を抱える。背中に触れる空気の静けさに嫌気を味わいながら、舌打ちをひとつ。たかが一週間だというのに、どうして自分はこんな状態になっているのか。目の前に並んだビニル袋の中身を思い出しては、さらにため息をひとつ。今まで感じることのなかった部屋の空間の広さが、まるで自分を後ろから指さしてきているような気がしてならない。自分一人分の食事をつくるのがこんなに面倒なことだと思い出したのは、何年ぶりのことだろう。少なくとも、それは二年以上前に違いなく、そして、山口と家を行き来するようになってからのことだと思われた。
 緩慢な動作でやっと顔を上げ、視線の先に壁掛けされているカレンダーの日付を目で追った。赤い印がつけられた日付からちょうど七日、翌週の同じ曜日の日まで伸びた矢印が憎らしく見える。その終点が明後日の日付に書かれているのを何度も目で確かめたが、その事実が変わることなどありえなかった。妙な期待を抱いている自分に苦笑を浮かべ、仕方なく立ち上がることにした。その時。
 ドアノブの向こうで、金属の差し込まれる音がした。とっさに振り向き、立ち上がっていた。あんなに煩わしかった体の重さが嘘のように筋肉が滑らかに動き出し、玄関の前に一歩、出た。ガチャリと鍵の回る音、そして金属の引き抜かれる音に続けてノブがゆっくりと回り、そして、細く、中を伺うようにドアがゆっくりと開かれた。
「あ」
 扉の向こうからこちらを覗き込んでいたのは、紛れもない山口の顔だった。バチ、と音を立てるように目が合った瞬間、自分は無意識にさっきまで睨みつけていたカレンダーを振り返っていた。
「我慢できずに、帰ってきたんだ」
 山口の方へ自然と向いた左耳に、へへ、と照れくさそうな声が真っすぐに投げかけられた。カレンダーに焦点を合わせることなく山口へと視線を戻せば、すぐ目の前で情けなく笑う山口の姿に、思わず奥歯を噛みしめた。
「何で、仕事は」
 噛みつくような言葉に焦りを抱いたのか、山口が空気を大きく吸いながら必死に弁明をした。
「出張は、やることは全部、全部だよ、予定してたことは全部やってきた、だから、早く切り上げて、それで」
 睨みつけているこちらの目から涙がこぼれ落ちるのを目にして、山口の言葉はそこで一度途切れた。これでもかと緩めていた顔が一瞬で真剣なものに代わり、靴も脱がずに一歩、こちらへ体を寄せ、そしてそのまま背中へと腕を回される。強く抱きしめられ、体重をかけられ、腰が自然と反らされていく。
「ごめん、やっぱりもっと早く、一分一秒でも早く帰れるように頑張ればよかった……!」
 耳元で叫ばれ、そんなつもりじゃない、と否定するつもりだったが、山口は聞く耳を持たなかった。
「俺だって一日でも早く帰りたかった、もう俺、ツッキーと一緒じゃなきゃ、全然夜も寝られなくて、ホント困ったんだよ」
 それはこっちも同じだ、と胸の内だけで反論すしたが、口に出す勇気は持ち合わせていなかった。
「だけど、仕事だから仕方なくて、でもやっぱり心配なのはどうしようもなくて」
 それも一緒だ、と唇からこぼれそうになった時、山口が、「あ」と声を上げた。
「何?」
「ううん、あの花もやっぱり元気なくしちゃったんだな、って思って」
 身体を離した山口が指を差した先には、一輪挿しの花が相変わらず首をもたげて息を潜めていた。そのシルエットに顔をしかめ、自分のせいだと不備を謝ろうとしたが、山口はにこやかに笑って、自然とこちらの手を引いた。
「そうだ、せっかくだから、今から新しい花を買いに行かない?」
 そのあっけらかんとした物言いに、謝罪の言葉はいつしか飲み込んでしまっていた。その代わりに頭に浮かんだ、こんな夜遅くでもやっている花屋があるのか、という問いを投げかけてみれば、山口はニヤニヤと笑って人差し指を口元に立てた。
「俺のとっておき、こんな時間でもやってる店がひとつだけあるんだ」
 だからこれから教えてあげる。そう言わんばかりの仕草に、何故かムッとした。が、たまには山口に華を持たせてやるのも悪くないかもしれない、と思えた。山口本人が我慢の限界を迎えたからと語っていたとしても、自分のために、仕事を早く切り上げて帰ってきてくれたことに変わりはないのだ。今夜くらい良い気持ちにさせてやっても、道理に合わなくはないはずだった。
 いいよ、と返事をするついでに、この際だから山口に聞けずにいたあの疑問に、答えを出してもらうことに決めた。
「どうしてお前は、ここに花を飾ることに決めたの」
 急に尋ねられてドキリとしたのか、あからさまに目を泳がせた山口は、僕の顔を見てしばらく唸り声を漏らしたのち、とうとう観念したように渋々と答えた。
「んー……だってね、そうするとね、ツッキーが、すごく優しい目をするから」
 だから、それが見たくて、続けてるだけなんだよ。そう結んだ山口は、照れ隠しのためにわざとらしく大げさに笑い捨てて、そして、思い出したかのように玄関に戻って口を開いた。
「ただいま、ツッキー」
 だからこちらも仕方なく、いつも通りの日常を思い出し、目を細めてこちらを見る山口に微笑み返した。
「おかえり、山口」
 そして、いってきますのそれなのか、おかえりなさいのそれなのか曖昧なキスを、どちらからとも言えない動作で交わしたのだった。

→後日談