教壇に立った学級委員長が教室の中を一望して、仕切り直しのように、声を上げた。
「はい、じゃあ、やりたいこと、意見、ある人、挙手!」
 チョークを手にした副委員長が、大きな黒板の上の方に、カツカツと音を立てながら文字を書き連ねていく。
『文化祭の出し物について』
 各自、席に座ったままのクラスメイトが息を吐く。その息の温度は多岐にわたり、やる気に満ちて熱を発する女子のものもあれば、反対に、適当に誰かが進めてくれればそれで良いと言わんばかりの無気力な男子のそれもあった。教室の中に詰め込まれたクラスメイトの反応が様々であるのに同じくして、個人のやる気に温度差が発生している事実は、誰に聞かずとも明確だった。
「はーい、やっぱり、美味しいもの、売りたいでーす」
 クラスの中心人物である女子の楽し気な声に合わせ、副委員長の動かすチョークの擦れる音が教室内に響いていく。担任が不在の教室の中、思い思いの意見が遠慮なく発せられていく。クレープ、お化け屋敷、喫茶店、チョコバナナ、マジックショー……、黒板に並んだ文字列を眺め、軽い欠伸をひとつ漏らす。何になっても構いはしないが、面倒な役が回ってくることだけは絶対に避けておきたい。たったそれだけの感情で周囲の情報に目を配らせる。高校の文化祭など、やりたい人間が好きなようにやってくれれば済むだけのイベントでしかない。文化部の人間は所属している部の展示で手一杯であろうし、練習の多い運動部にとっては手間と時間を奪われることだけは避けたいと思うのが当然だろう。その証拠に、教室内で嬉々として前のめりになって話し合いに参加しているクラスメイトは、大会まで時間と余裕のある一部の運動部と、クラスの思い出作りに積極的な一部の人間に限られている。
 横目に、少し離れた位置にある山口の席へと視線を飛ばしてみる。右斜め後ろに座っている山口は僕とは違い、黒板に並んだ意見の文字列を前にして、どこか真剣に考えている、そんな素振りを見せていた。山口が考えたところで、クラスの女子は好きに自分たちの意見を押し通すだけのことなのに、何をそんなに真剣になる必要があるのだろう。
「せっかくだから、あんまり他のクラスと被らない、変わった内容のものが良いと思います」
 具体性に欠ける意見を口にした女子のひとりに向かい、司会進行の委員長が、たとえば何、と声をかける。ううん、と首をひねって悩む仕草を見せた女子の隣から、ふざけた男子の声が飛び込んでくる。
「メイド喫茶とか?」
 えー、と不満を漏らす女子に混ざって、そんなのありきたり、と口にした女子が、意を決した様子で次に手を上げた。はい、と委員長に指名され、妙にはりきった表情で意見を述べた。
「男装カフェなんか、どう? ほら、このクラス、亜里沙とか上島さんとか、背が高くてイケメンな女子が多いから、そういうのも悪くないんじゃない?」
 おお、と女子の間から歓声が上がる。名前を出された渡邊亜里沙と上島琴音が、照れくさそうに目を見合わせながら、どうもどうも、と会釈をする。陸上部のエースと演劇部の主力が目玉とあれば、ある程度の集客は約束されたと言えるだろう。その確信を抱いた女子たちの熱い反応に、教室内に男子から発せられる諦めの空気が静かに広がっていく。この意見が確定案として通ってしまうのは、きっと時間の問題だろう。カフェとなれば、市販の小包装の菓子を持ち寄り、適当にジュースとお茶とコーヒーを用意して提供すれば良し、となるに違いない。この先の展開に想像を巡らせながら、食品調達の買い出し班くらいに紛れ込めば良さそうか、と結論を見出していく。手間も時間も奪われない役割分担となると、そのあたりが妥当なところだろう。
「だったら、男女入れ替わり、男装女装カフェ、って、いっそした方が、面白くなるんじゃない?」
 唐突に、誰かの声が教室の中で飛び込んできた。特にクラスの中で発言力のある女子の一声に、教室の空気は一変していた。いいね、と盛り上がる女子に対し、男子は軒並み、誰が被害者になるのかと顔をしかめている。
「北村とか、案外、悪くないかも!」
 クラスで最も背の低い、女子から時折「かわいい」ともてはやされている男子の名前が発せられ、それに乗じて、順に色の白い文化部の男子や、線の細い男子の名前が二、三人連なって持ち上げられる。最も早く名を上げられた北村は慣れた様子で、近くの席の女子に対して適当に調子を合わせて話に乗っている。ああこれは、もう確定だろう。そう息を吐いた、その瞬間、
「月島とかも、意外とイケそうじゃない?」
 まさか、と思いながら振り返った先、隣の席の女子と目が合った。
「ほら、色も白いし、手足長いし、」
 弾んだ声で、こちらをおだてるような口ぶりの言い方に、思わず、イラっとした自分がいた。自分の部屋の姿見に映る自身と対面した時の失意と落胆の感情が反転して、静かな怒りとなって込み上げてくるのが分かった。
 何も、知らない、くせに。
「ちゃんとメイクすれば、肌も綺麗だし、イケるって、絶対!」
 しかめた顔で文句を告げようとした矢先を遮るように、さらに言葉で畳みかけられた。言いくるめようとするその口調に心の内側で苛立ちが募っていく。鏡に映る自らの唇に塗りたくった口紅の色を思い返し、逸らすためか、逃げるためか、自然と右に移った視線の先で、斜め後ろの席の山口のことを無意識に見やっていた。
「演劇部の衣装でドレスとかあったよね、あれとか良さそうじゃない?」
 盛り上がる女子のざわめきの中から、今まさに思いついたと言わんばかりの無責任な声が飛び交う。視線の先の山口は、心配そうに僕の顔を見返していた。
「あ、あれね、分かる。月島、あの赤のドレスとか、絶対、似合うよね! 着て欲しい!」
 ガタッ、と机と椅子の揺れて床にぶつかる音がした。その音の出元は、紛れもない自分だった。何かを叫びたい気持ちはあれど、息を吸い込むばかりで、震える身体は怒りに満ちて、上手く声にならなかった。
 急に立ち上がった自分を、教室の誰もが見ている気がした。クラス中の視線を集めている事実に、他でもない自分が耐え切れない、そう思った瞬間、怒りに満ちた鼓膜の奥の方で、授業の終わりを告げるチャイムが微かに鳴り響いていた。
「お、話し合い、済んだか?」
 カラリと開けた教室の扉の向こう、廊下の方から教室内へと姿を現したのは、席を外していたクラス担任だった。いくつか候補が書かれた黒板の文字列を眺め、教室の中で唯一、立ち上がっていた自分が座るのを目にして、何か察した様子で委員長に視線を送った。
「企画書の提出は明後日までだから、また明日、昼休みにこの話の続きをします」
 バトンを受けた委員長は、クラス全員と担任に説明するように声を発した。およそ状況を把握したらしい担任は、やれやれ、と言いたげな顔つきで口を開いていた。
「クラス企画の参加は強制じゃないから、そこのところ、よろしくな。じゃあ、帰りのHR、始めるぞ」






「俺は、悪くないんじゃないかな、って思ったんだけど」
 部活を終えた帰り道の途中で、不意に、山口が、そんな声を漏らしていた。それまでの話とは全く関係のない、明らかに脈絡のない話の切り出し方に、わざと気づいていないふりをして、聞き返していた。
「何が?」
 山口の触れたい話題が何であるのか、半分は察しがついていた。それでも、こちらから決めつけて無視をするのは危険なような気がして、苦し紛れと分かりつつも、曖昧に聞き返すことしか、今の自分には出来そうになかった。HRでの話し合いの空気と、その場で思い出してしまった鏡の中の自分の情けない姿を振り返るだけで、身体の奥の方から込み上げてくる怒りで全身が震えそうになってくる。
 平静さを保とうと呼吸を意識してみるのだが、頭の中にこびりついた、女子から投げかけられた言葉の無責任さに、喉の奥から顎にかけて、制御できない強張りが広がっていく。鏡の中の情けない、あの自分の姿を他人に晒すのだと思うと、想像するだけで身体に緊張が走っていく。
「男女入れ替わりカフェ……だっけ? ツッキーが参加したら、すごく盛り上がるんじゃないかな、って」
 そんな自分の状況を知りもしない山口の、間延びした声が投げかけられてくる。小さな舌打ちを一つして睨み返せば、少し戸惑った様子の山口が僕の顔を見た。何でそんなに機嫌が悪いのかと、小首を傾げたそうな顔つきが、さらに苛立ちを募らせていく。
「俺は、三枝さんの言ってることに賛成だったけどな、」
 三枝、と山口が口にしたのは、あの瞬間、僕のことを隣の席から丸め込もうとした女子の名前だった。
「は?」
 牽制のつもりで吐いた声も、山口には届ききってはいないようだった。
「ツッキー、手足も指も細くてスラっとして綺麗だし、肌も俺なんかに比べれば全然白いから、綺麗なドレスを着たら映えるんじゃないかなぁ、って、思った、んだけど、ほら、渡邊さんも言ってたけど、赤のドレスとか、」
「そんなの、絶対、死んでも着ないから、着たら死ぬから、」
 飲み込むつもりの声が口から飛び出して、驚きの表情を浮かべたのは山口だけではなかった。自分から飛び出てきた拒絶の声に、山口は一瞬、何かを考える様子で口を閉ざした後で、取り繕うように必死になって言葉を続けていった。
「そんな、『死ぬ』なんて、大げさな、……文化祭のお遊びみたいな、冗談で、」
「冗談?」
 ギリッと噛んだ奥歯から、苦い何かが滲み出てきそうだった。いくら飲み込もうとしても込み上げてくるものが、喉のあたりからボロボロと零れ落ちていく。
「あんなのが、冗談? どこが、人のことを馬鹿にして、」
「別に、馬鹿にしてるわけじゃなくて、皆、本当にツッキーのこと、向いている、と思って」
「勝手な想像で? 人の気持ちも構わずに?」
 ここまで鋭い言葉の発し方が自分に出来たのかと思えるほど鋭利な声が、山口に向けて突き出されていく。その鋭さに戸惑う様子はあれど、一向に怯む気配のない山口の視線が、僕の目を見てこようとする。やめろ、見るな。山口は、知らなくて、良い。あんな情けない自分の姿など、知られたくなんかない。
「人を着せ替え人形にして、クラスの出し物として晒すのが、そんなに面白いことかよ」
 一度決壊した言葉は、留まることを知らずに零れ落ちて次から次へと続いていく。自分でも何を言っているのか半分手応えのないまま、つるつると自動生成されているかのような単語の連なりが声となって吐き出されていく。
「こんな背の高い男に赤いドレスを着せて、似合うだろうなんて、考えるヤツの気が知れない、正気じゃない、どう考えても、笑いものにされるのがオチで、そんな拷問みたいなことを、あんな軽々しい思い付きで提案してくるなんて、どいつもこいつも、」
「でも俺、ちょっと、見てみたい」
「頭がおかし……、……、は?」
 目が合った山口が、驚いたようすで、とっさに目を逸らしたのが分かった。じり、と足を止めたつま先を見下ろし、気まずそうに身じろぎしながら、それでも困ったように、声を漏らした。
「俺、正直、見てみたい、って、思った……いや、実は、今も、思ってる」
 鏡に映る格好悪い自分の姿と、夢に見た自分と、あの日から定期的に思い返しては描いている山口の熱っぽいあの表情とが、一瞬で頭の中を駆け巡った。と同時に、鏡の前で感じる、強い絶望感と、想像の中の山口に拒絶される場面の苦しみが身体の中を覆いつくしていく。今、山口は、何て言った?
「ツッキーが赤いドレスを着たところ、俺、一回だけでいいから、見てみたい」
 こちらの頭の中を見透かしたかのように念押しの一言を、山口が繰り返す。その視線は申し訳なさそうに揺れながらも、こちらの反応を窺い見るように、チラチラと向けられていて、その期待に満ちた視線の有り様に、身体の中に淡い『もしも』が蘇ってくるのを感じていた。見たい? あれを?
「何、言ってるの、そもそも演劇部の部室にある衣装で、着られるわけないでしょ、サイズとか、」
 いや、見せるわけにはいかない。己の理性が囁いた。山口はきっと、あの教室の中に満ちていた熱気にあてられて、妙な好奇心に囚われているだけなのだ。本気じゃない、ただの興味本位というやつに決まっている。
「サイズが合えば、着てみる気、ある、ってこと?」
「そうじゃなくて、こんなガタイの人間がそもそも着るなんて想定されて作られてない、って意味で」
「俺、ツッキーには絶対に似合うって信じてるよ?」
 強い語気で言い切った山口の口ぶりに、今度は自分が驚きの表情を浮かべていた。何も、知らないくせに。
「何を、根拠に、」
「根拠も何も、何回想像しても、絶対、ツッキーに赤いドレスが似合うと俺は思う。もしかしたら、クラスの他の人も、同じことを考えていて、見たら皆、あまりの良さに見惚れたりするかも、」
「そんなの、有り得ない」
「ツッキーだって想像して言ってるだけだよね、だったら、やってみないと、」
「やってみた結果から、こっちは言ってるんだよ!」
 え、と目の前の山口の表情が驚きの色に染まった瞬間、しまった、と一気に自分の頭から血の気が引いていくのを感じていた。もう後戻りは出来ない、とすぐに状況を察していた。山口は今、絶対に、確実に、僕の言葉をそのまま、聞き取った。
「急ぎの用事思い出したから……、じゃ、」
 山口の顔を決して見ないようにしながら、首にかけていたヘッドホンを両耳に当てた。音楽を再生する手間も惜しんで、無音のまま大きく足を前に出して歩き出す。横目にチラチラ見やっても、山口は僕のことを走ってまで追いかけてはこなかった。
 やってしまった。ぐるぐると頭の中で後悔の気持ちが渦を巻いた。山口に気づかれた。大なり小なり、変なところで察しの良い山口のことだから、今の自分の不機嫌さと言葉の意味を結び付けて、ある程度のことは想像がついてしまっているに違いない。いくらあの日のことを山口本人が忘れてしまっている、としても。
 自らへの嫌悪感から、舌打ちをくり返す。諦めが悪いのがいけないのだ。あれだけ何度も絶望と落胆をくり返しておきながら、淡い『もしも』を捨てきれずに、壊れて着られなくなってしまっても尚、未練がましくそれらを仕舞いこんでは捨てずにいるのが、諸悪の根源なのだ。
 足早に帰り着いた自宅の玄関に飛び込むなり、すぐに向かった自室のクローゼットの扉を開け、その奥から不織布のカバーケースと靴の箱を両腕に抱えて持ち出した。こんなものがあるから、いけない。両腕に抱え込んだまま自室を出るなり、一階へと続く階段を駆け下り、さっき脱ぎ捨てたばかりのスニーカーに足を入れ、玄関から外へ飛び出した。駅でも公園でも、どこでもいい、自分とは関係のない場所にあるゴミ捨て場にでも放り出して捨ててさえしまえば、それで済む。終わりになる、もう、終わりにする。
 強い決意と共に唇の端を噛んで、全速力で玄関先の門を抜けようとした、その瞬間、道を行く人影と、危うくぶつかりそうになった。ハッとして身を退けば、
「ツッキー、どこ、行くの……?」
 今一番顔を合わせたくない山口が、そこにいた。目が合うなり、お互いに息を飲み、思わず自分は抱えていたケースの中身と靴箱の中を知られたくない気持ちで、必死に胸の前で腕を合わせ、手の内にあるそれを見られないように隠そうとした。
「何で、ここに、」
 山口の姿は、さっき別れを告げて振り切った瞬間のまま変わっておらず、その状態から、先に帰ってしまった僕のことを心配して、後から追いかけて家の前まで様子を見に来たのだろうと、察しがついた。こちらの姿を、じっと見やった山口の視線が、山口の頭の中を如実に語りつくしていた。どうして今ごろ家を出るのか、抱えている物は何なのか。
「俺、ツッキーを怒らせるようなこと、言った、かな……ごめん、」
 心配している素振りを見せながら一歩、近づいてこようとする山口に、自分は、自分でもよく分からない恐れに似た感情を抱いていた。何も説明したくない、そう叫びたい気持ちは喉の手前、舌の根元まで突き上げてきているというのに、上手く、言葉にならない。緊張と興奮で震える身体を必死に抑え、この状況を打破するには、と頭の中で必死に考えを巡らせる。
「ごめん、その……」
 申し訳なさそうに口を動かしながらも、こちらの手の内側を見ようとする山口の視線に、少しずつ心臓のあたりが締め上げられてくるような、そんな感覚がしてならなかった。とにかく、逃げたい。その気持ちから、一歩、山口の腋をすり抜けるようにして、走り出そうとした。瞬間、
「待って!」
 すり抜ける一瞬を逃さなかった山口の手が伸びて、二の腕のあたりをつかまれた。途端、バランスを崩した身体が引き寄せられ、胸の前で合わせていた両腕の姿勢が大きく崩れた、結果、抱えていた全てが解け落ち、僕と山口の間の足元のコンクリートの舗装された歩道の上へと、中身を見せるように転がり落ちていった。あっ、と思った瞬間には、全てが手遅れだった。古くなった不織布のケースは中のハンガーの先端によって引っかかって破れ、その裾を大きく翻し、中身のドレスの赤を歩道の上に分かりやすく広げ、抱きかかえて潰れかけていた靴の紙箱は、足元に落ちた衝撃によって大きくひしゃげると共に、その中身のヒールの壊れた赤いハイヒールだったものをコンクリートの上へと転がしていた。
 足元に転げた、くすんだ赤いドレスとハイヒールを前に、自分は、これこそが夢であって欲しい、と強く願ってやまなかった。何を言っても、何をどう誤魔化しても、山口には無駄だと、既に脳が訴えを起こしていた。
「これ、……ツッキーの……?」
 足元のそれらを見下ろした山口の顔は伏せられて、細かい表情の意図は読み取れない。困惑しているのか、軽蔑しているのか、それとも。
 山口の問いに肯定も否定も出来ないまま、僕は返事の仕方を探して、ただその場に立ち尽くしていた。嫌な温度の汗が背中を伝い、手のひらはビッショリと濡れているのが触らずとも分かった。
「気持ち、悪いでしょ……、」
 漏れ出たのは、そんな言葉と、乾いた引き笑いだけだった。ハッとした様子で顔を上げた山口の視線が、僕の目を射抜いた。
「そんなこと、」
「あるよ、これ着てる僕が、どれだけ惨めで気持ちが悪い存在か、お前は、これっぽっちも知らないから、だから、あんな無責任で適当なことが言ってしまえるんだ、人の気も知らないで、皆の前でどうとか、こうとか、」
「知らないよ!」
 噛みつくような視線と言葉の圧で、山口がこちらの声を遮るように大きな声を発した。その強さに一瞬負けてしまった自分の事実にイラっとしながら、負けじと反論をしようと口を開きかければ、
「だって、俺、知らないから! 見たことないから! 知るわけないよ! そんな風に言うなら、俺の前でちゃんと一度、着たところを見せてよ!」
 畳みかけるように言葉を投げつけられ、最後の一言に、ぐっと眉間にシワが寄った。
「……は?」
「俺、やっぱり見たい、……ツッキーが、赤いドレスを着ている、ところを、」
「……本気?」
 売り言葉に買い言葉ではないのか。ひくつく口元を必死に堪えながら、信じられない状況に大声で笑ってしまいそうになる自分の顔面の筋肉の在り方に、心の底から薄ら笑いが漏れ出ていた。あれを、山口に、見せる?
「そんなの、絶対、……無理、だから」
 想像しただけで、身体の奥がゾクリと震えた。逃げ腰の自分に対し、山口の視線は強気のままでいた。どうして、と問いかけてくる視線の圧に、完全に自分は怯み、次の言葉をうまく吐き出せないでいた。そんな僕を不思議そうに見つめていた山口は、不意に足元のドレスの前で膝をつき、ケースの中から半分飛び出した赤いドレスワンピースに手を伸ばしていた。かつては赤く眩しいほど鮮やかだった深紅のワンピースは、暗い夜の闇に沈むように澱んだ色をしていた。
 山口の手が、指が、そのワンピースの布地を拾い上げ、手元で広げながら、その布地を手にした両手を、僕の方へと近づけてくる。僕の顔とワンピースを交互に見やっては、ほんの少しだけ、その口元を緩め、こう言った。
「うん、似合うよ、ツッキーは、きっと、似合う」
「やめろよ」
 とっさに伸ばした右手で、その布地を引きずり下ろした。山口のしていることが何か分かった瞬間、今しがた山口が僕に向けて発した声の、あまりの柔らかさに、心臓の奥がズキリと痛んだ。
「壊れてるし、これはもう、自分には小さすぎて着れないから、」
「だから『無理』?」
 言い訳めいた言葉を発した僕を諫めるように、山口の声が続いていく。
「じゃあ、着られるサイズを用意出来たら、ツッキーは着てくれる?」
「何で、そう……なるんだよ……」
 全く諦める気配のない山口の押しの強さに、明確に負けを感じている自分がいた。それでも、首を縦に振るわけにはいかない、と心の中でもう一人の自分が見苦しく言い訳を探し続けていた。
「用意って、どうやって、」
「そんなの、俺が用意するに決まってるよ、だって、俺が着て欲しい、って今、お願いしているんだから、ね、」
 くしゃくしゃに丸めたワンピースを片手に、山口の手が僕の手を拘束するように握りしめてくる。その手の、指の力の強さに、さらに語気を奪われていく。
「そういう物の値段なんか知らないくせに、そう簡単に買える値段じゃ、」
「大丈夫、お金のことはなんとかする、だから、」
「あまりの気持ち悪さに幻滅して気分が悪くなっても知らないから、絶対、後悔して、嫌になっても……知らないから、責任、」
「とらなくていい、俺のせいにしていいから、俺の目の前で、皆の前で見せるより先に、」
 山口の発した『皆』という単語に、ゾッと背筋が冷たくなる感覚が走っていった。
「そんなの、最初から、お前に対してしか、見せるつもりなんてそもそも無いから! お前に、……っ、」
 声にしてから、深く後悔をした。最も知られたくなかった部分まで晒してしまった事実に、頭の先、指の先から急速に血の気が引き、血圧が急に下がっていく感覚が全身を覆っていった。ああ、自分は大馬鹿者だ。そう悟った瞬間、目の前で僕の顔を見ていた山口の目と口元が、ニヤッと歪められていくのが分かった。その瞬間まで山口が驚きで目を丸くしていたのに対し、今まさに対面している目の前の山口が、僕の一言を噛み砕いて飲み込んだ上で、嬉しそうに目を細め、笑ったのだと、零コンマ一秒遅れてから、ようやく自分が思い至っていた。嬉しそうにしているのだ、目の前の幼馴染の男は。
「じゃあ、やっぱり、俺の前で一回、着て見せてよ、ツッキー、お願い」
 切実に、誠実に、お願いの体を成して提案してきた山口の態度に、もはや自分が難癖をつける道筋は一縷として残されてはいなかった。罠にかかった、と思う自分が頭の隅にいた。けれど、数十秒前の山口の声が頭の中でリフレインしていた。山口のせいにしていい、と、目の前の男は言ってのけた、その瞬間から変わらない顔つきで、揺るがない目で僕を真っすぐに見つめ続けている。考えなど変わっていない、全て自分の責任で構わないのだ、と。懇願する視線に、たじろぐ自分がいた。こうなった時の山口ほど、タチの悪いものはない。この男は一度こうと決めたら、誰よりも何よりも揺るぎはしないのだ、昔から、何においても。
「分かった、一回だけ、……その一回で分からせてやるから……絶対、後悔することになるって、先に言っておくから」
 負け惜しみに似た言葉を告げた自分の目の前で、山口は、いつもの、嬉しい時に見せる、その満面の笑みを惜しみなく作り上げていた。




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