それから二週間と経たずして、山口から、注文していたドレスとハイヒールが手に入ったと、部活の帰り道で直接、告げられた。揉めていたクラスの文化祭の出し物は、男装込みの執事カフェとして案がまとまり、実行のための準備が既に進められはじめていた。もはや皆の前で着る機会も無くなったというのに、僕は山口の前で、山口のためだけに、山口の用意したドレスとハイヒールを身に纏うことが決められていた。
 部活の無い週末の昼間、家族のいない時間帯に合わせて、僕の部屋で、それを実行することになった。約束の日、山口はしっかりと、用意したドレスとハイヒールを片手に僕の部屋へとやってきた。僕がそれを身に着けて山口の前に立つところを目にする、ただ、それだけのために。




 用意されたドレスのファスナーは、何度も袖を通したあのドレスワンピースと同じく、脇から腰に掛けて続いていた。そのつまみを指で挟み、ゆっくりと引き下ろせば、記憶の光景のそれよりも明らかにゆったりとした布地の空間が僕を迎え入れようとしていた。
 高校に入ってから朝の身支度以外で覗き込む機会のなくなった姿見を前にして、かつてのあの時のように、今の自分は下着一枚で部屋の中央に立っていた。手にしている赤いドレスは血のように赤く、昔、初めて手にした日のそれと同じように煌びやかに部屋の照明の光を受け止めていた。新品のドレスは、もちろん山口がネットサイトで購入した僕に合わせたサイズのそれで、間違いなかった。
 僕にドレスとハイヒールを手渡すなり、山口は部屋の外、廊下の方へと出て行った。準備が出来たら声をかけて。そう告げるだけ告げて、扉の向こうへといなくなってしまった。
 部屋の中央、ラグの上に敷いたバスタオルの上に、紙箱から取り出した真っ赤なハイヒールを対で並べる。エナメルらしき素材で出来たハイヒールは、その傷一つない表面の艶やかさで、新品であることを自ら主張していた。パンツ一枚の自分と、並べたハイヒールと手にしたドレスの赤が、鏡の内側に対照的に映りこんでいた。着るしかないのか。鏡の中の自分に問いかける。不安そうな視線が僕を見る。本当に、これを身に着けて山口の前に姿を現すのか、この自分が。
『後悔、しても、知らないから』
 つい数分前にも繰り返した自分の一言に、山口はやわらかい笑みと共に、こう返した。
『多分、いやきっと、絶対、俺は、今日、目にしない方が深く後悔するって、分かってるから』
 相変わらず、頑なに僕を見る意志の強い視線に、それ以上の抗いは不要だった。何を口にしても、投げかけても、山口が気変わりする可能性など、どこにも存在しないのだろうと察しがついた。それでも。
 鏡の中の自分に向け、胸の内で囁く。山口は僕と変わらず友達でいてくれるのだろうか。手にしたドレスの光る布地の手触りに、急かされている気がしてならなかった。もはや、着ても着なくても、もう今までと同じにだなんて戻れはしないんじゃないのか。だったら。
 半ばヤケクソのような境地で、僕はドレスの内側に足を入れた。素肌に滑らせた、持ち上げたドレスの内側、裏地に使われているサテンの冷たさが自らの肌の温度を教えようとしていた。自分は今、震えと不安に苛まれながら、それでも、どこか静かな興奮を抱きはじめている。無意識に覗きかけた鏡の自分から、目を逸らす。今はまだ、せめてこのファスナーを引き上げてヒールの内側に踵を乗せて立つまでは、馬鹿らしい期待に夢を見ていたい。山口から与えられたチャンスに縋ろうとする自分を見つけ、瞬間、せせら笑う。それでも、ドレスを引き上げる手を止めるわけにはいかなかった。
 ドレスとハイヒールの値段について、山口は決して僕に告げようとはしなかった。教えろ、と迫っても、断固として口を閉ざしたままでいた。その事実を噛みしめながら、つまんだファスナーの取っ手を根元から端にまで一息に持ち上げた。少し窮屈でも、ファスナーは確かに僕の肌の上で左右の歯列を噛み合わせ、僕の身体の外側を真っ赤な布地で覆い隠した。ふわり、と息をした自分の身体の動きに合わせ、纏った裾が空気を受けた。膝まで届かないドレスの裾が、足元を見た僕の視界を赤く埋め尽くした。鏡は、見ない。その瞬間、決意をした。
 下を向いたまま、並べたハイヒールの前に足を置いた。右足、左足。足踏みをするように持ち上げた足の先を、順番にハイヒールの内側に収めていく。親指の付け根が窮屈ではあったが、沈めた踵を受け止めるくらいには余裕のある赤いハイヒールの中で指を広げると、体重を乗せた踵から足首の腱に向かって、バレーボールでは普段使わない部位の筋肉と筋が微かに締まり、キュッと軋んでいく、そんな感覚がした。自然と伸びた背筋が、視界の端に姿見の自分の気配を映りこませていた。鏡に背を向けるため、九十度、その場で足を置きなおす。と、コンコン、と部屋のドアを申し訳なさそうにノックする山口の声がした。
「開けても、良い?」
 どう返事をしようか迷っているうちに、扉の向こうから再び山口の声がした。
「……もう、開けるよ?」
「待って」
 ドアの向こうで、山口が慌てて口を閉ざす気配がした。
「開けても良いけど、お願いだから、その……、目、閉じたまま、開けてきて」
 数十秒の沈黙の後、おそるおそる、様子をうかがうように、ゆっくりと部屋のドアが内側へと押され、少しずつその隙間を広げていく。振り返った先、ドアの向こうに立つ山口は、僕の言葉の通りに固く、その両目を強く閉じたままでいた。手探りでドアを押し開けた山口は、そのまま足先で探るように、ゆっくりと部屋の中へと入って、そして、やはり目を閉じたまま、後ろ手にそのドアを閉めて立った。足を止めた山口が、暗がりで探すように顔をあちこちに向けながら、口を開く。
「ツッキー、そこにいる?」
 閉じた瞼をこちらに向けた山口の表情は、まるでクリスマスのプレゼントを待ち構える子どものように無邪気に見えた。この山口の顔が、もしかしたら目を開くと同時に歪められるのかもしれない。そんな想像が脳裏を過ぎっては、返事をする意思を削いでいく。今すぐ脱いでしまいたい気持ちに襲われながらも、そうすることも出来ない自分に、山口の声が投げかけられてくる。
「心配しなくても、きっと、大丈夫だよ」
 その声の柔らかさに、ドキリとして振り返る。微笑みを浮かべる山口の唇が、ゆっくりと動いていく。
「もう、開けるね」
 告げられてハッとした瞬間には、もう遅かった。開かれた瞼の向こうから現れた山口の二つの目が、僕の姿をとらえていた。
「ぅ、わぁ……」
 瞬きを繰り返しながら目を見開いた山口の顔に、興奮に似た熱が広がるのが分かった。落胆ではないその色に、今まで幾度となく掻き消し続けてきた『もしも』が色濃く、自分の中に湧きおこってくるのを感じていた。
「よく、見せて」
 一歩、僕の正面に回り込んできた山口が、じっと僕の顔から足先に至るまで、その視線を走らせていく。対面した山口の顔には喜びの感情と、明らかな好奇心が明らかに広がり続けていた。あふれ出た好意的な熱量に気圧されるようにして、一歩、自然と腰が引けていく。
「気持ち、悪く、ないの……?」
 後ずさりしかけた僕を逃さんと前のめりになった山口が、僕の顔を下から覗き込む。ヒールで持ち上がった目線の高さは、普段の山口との間にある距離感よりも、わずかに遠く離されていた。
「気持ち悪くなんかないよ、むしろ、すっごい似合っててビックリしてるよ」
「似合って……る?」
 うん、と目の前で大きく山口の頭が縦に振られて、すぐに僕の目を再び覗き込んで見上げてくる。
「すっごい、ツッキー、俺が想像した通り、いや、もっと、想像以上に、すっごく、すっごく、似合ってる」
 キラキラとした目を向ける山口の瞳の中で、シルエットとなった自分が映り込んでいた。そのぼんやりとした輪郭に、夢の中のそれを思い出しては、今の山口の目にそう映っているのではないかと、つい、想像してしまう自分がいた。
「やっぱりツッキーは肌が白くてスベスベしてるから、赤が似合うね」
 向けられた視線の熱さに、夢の中で何度も目にした山口の視線が思い起こされる。まだ、それには至るほどではないにしても、その熱っぽさは、どこか、よく似ているように思えて仕方なかった。
 山口の目が、僕を見ている。目の前の事実を改めて頭の中で捉えなおすと、じわり、と腰のあたりに湿った熱が籠っていくのを感じていた。身体の中を巡る血液が温度を上げ、心臓の鼓動を速めていく、その感覚に、首のあたりがゾクリとした。
「ツッキー、すごく、かっこいい」
 目を細めて見つめてくる山口の、その、熱に浮かされたような口ぶりに、思わず息を飲んだ自分がいた。自らの右手に山口の手が近づいて、重ねられていく。触れた指先の温度、山口の手の熱さにつられるようにして、こちらも気づけば、湿った息を宙に吐いていた。
「ねぇ、もっと、近くで見せて」
 引き寄せられた手の動きに身をすくめ、反射で後ろに重心が逸れていく。気づけば床の上、毛足の長いラグの上に尻もちをつき、後ろ手に、床の上に手を突いていた。大きく開いた膝の内側、短いスカートの裾が翻り、腰のあたりまで捲れ上がっていく。見上げた先、目の前に立つ山口の視線が僕のスカートの中へと注がれる。見るな、と叫びかけた僕の視界いっぱいに、山口の顔が近づく。僕の顔を見下ろし、ラグの上に膝をつき、僕との距離を縮めて前進してきた山口の吐息が、視線が、すぐ目の前に近づいてくる。その目に、目を覗き込まれた瞬間、あ、と思考が止まった。
 その目が、視線が、表情が、ずっと、見たかった。
 胸の内で息を吐いた途端に、抵抗の術は失っていた。目の前の山口の顔がさらに近づき、薄く開いた自分の唇の上に、熱っぽい山口の唇が押し当てられ、息を吸われた。ぞくぞく、と背中を熱い感覚が走っていた。自然と喜びで目は細められ、ぼぅっとする頭と、ひどく鈍った思考の中で、熱にまみれた息を吐いていた。これまで何度も思い浮かべた刺激の欲が、頭の中を覆いつくしていた。
 知らぬ間に重ねられていた山口の手を取って、自分の手と共に導いていた。スカートの内側、張り詰めた自身の上、パンツの布越しに山口の指が触れると、想像していた時よりもはるかに強い興奮が身体の奥から湧いて出てきた。山口の指は素直に僕の手によって僕の性器に下着越しに触れ、その有り様を知っても、まだ僕の唇に重ねた自らの唇を離そうとはしなかった。むしろその手が僕の手の中から離れ、意思をもって僕の下着に指をかけた瞬間、強く唇を吸われていた。
 頭の奥の方が甘い痺れで満たされていく。全身に細かい震えが伝わって、呼吸が上手く出来なくなっていく。電気が走るかのようなムズ痒さの中、必死になって息を吸う。山口の臭いが、鼻の奥、眉間のあたりに濃く広がっていく。
 ずらされた下着の中から飛び出た先端を指先でなぞられた。ざらりとした皮膚の感覚と体温が刺激となって、腰元から背筋を伝ってゾワゾワと得体のしれない熱っぽさが血液に乗って神経を這っていった。思わず、アッ、と声が出た、すぐ後で、ぞくぞくっと強い衝撃が身体の内側を駆け巡って、気づいた時には、もう僕は、自分のその熱の塊を山口の手の上へと全て吐き出してしまっていた。一気に頭の中で広がって弾けた気持ちの良さに、息を吐く。強い満足感が全身を包み、自然と口元は緩められていった。これで良い、と囁く自分が心のどこか片隅に、いた。
 夢のような感覚に肌を震わせていると、覆いかぶさっていた山口が、目の前でハッと息を飲んで、我に返っていくのを感じていた。
「ごめ、……俺、」
 汚れた手を拭うこともせず、一瞬だけ目で確かめて、信じられないような顔で僕から距離をとった山口が、今度は床の上に尻もちをついて後ずさった。興奮の名残で上気した山口の頬の赤さを目にして、さっきまで目にしていた、求めていた『それ』が遠ざかってしまっている事実に、どこか寂しさが胸の内に募っていく。と同時に、熱で浮ついた視線は、揺らぐ思考につられて辺りをさまよい、山口の腰元、着ているズボンの股間に張り出すそれを見つけた途端に、僕は夢中でそれに吸い寄せられるように、音もなく身体ごと顔を山口の方へと近づけていった。僕を見る山口の視線は驚きが半分、期待が半分といった調子で、拒絶の色が一切見つけられない目の動きに導かれるようにして、僕はその場所に手で触れていた。
 湿った臭いを滲ませる下着とズボンを引きずり下ろせば、内側から固くなり始めた山口の性器が目と鼻の先に姿を現した。見慣れない色と形に変容した山口の陰茎に指を這わせ、その輪郭を確かめるように軽く握りしめる。ぶるっと山口の足先が震えた気配がして、むわりと濃い粘膜の臭いが鼻の奥をついた。吸い込んだ息を吐けば、僕の湿った空気を受け止めた山口の身体が、大きく震える。見えない何かに促されるように、這わせた指に力を込め、指の隙間から臭いの元に頬ずりするように唇を寄せていく。その湿った表面に唇を押し当てれば、耐え切れないといった顔で目を強く閉じた山口が、大きく身震いをして息を吐いた。瞬間、手の中で震えた山口のペニスは先端から、白く濁った熱い液体を、僕の手の上、頬の上に向けて、勢いよく吐き出し始めていた。
「は……っ、ぅ……、ぁ……」
 ビクビクと、何度も大きく震えながら精を吐き出す山口のペニスは、先端から滴り落ちた精液を根元にまで垂らして、僕の部屋の照明から注がれる白い光を強く反射させていた。はあ、と震えた山口の口から漏れた息は熱く湿って、その目元は興奮で赤く染まっていた。
 見たことのない色が、まだあった。そう思ってぼんやりしている僕の目の前で、山口はハッと我に返るなり、すぐに青ざめた顔になって僕の目を見つめてきた。しまった、と書いてある顔のまま辺りを見渡した山口の目が、少し離れた位置にあるティッシュボックスを見つけ出し、その汚れた手で数枚引き抜くなり、僕の目の前へと差し出してきた。
「ごめ、ん……っ、その、」
 山口の顔を見つめたままの自分の視界が、急にじわりと滲んで、全てが淡く溶けていく。熱くなった目から零れ落ちた物が頬の上を伝って、次から次へと続くうちに、ようやく、今、自分が涙を流しているのだと気づかされた。心配した様子の山口の顔が、一層の焦りに満たされて僕を見る。床の上で力なく座り込んだ自分は、そんな山口から目を逸らすように顔を伏せ、ゆっくりと、大きく首を横に振った。
「違、……違うから、これは……っ、」
 自分でも信じられないほど溢れ続ける涙を拭うというよりも押し込めるように、強く手の甲を当てる。ぐしょりと濡れた頬の感触に自分でも、何故こんなに涙が出るのかと動揺していると、近づいてきた気配の山口が、心配するような口調で、
「ごめん、ツッキー、あの、泣か、泣かないで……」
 おろおろした山口の声の響きに滲む気遣い気配に、涙は止まるどころか、さらに勢いを増して溢れようとし続けた。しゃくりあげている自分の状態に、信じられない気持ちが胸の内側を覆っていく。きっと今、自分はひどい顔をしているのだろう。これ以上、山口の心配を煽るのもいけない気がして身体を捻り、顔を逸らす。と、ずっと背を向けていた姿見と、そこに映りこむ自分の姿が視界の端に入り込んできていた。鏡の中の自分の姿を目にして、高まっていた熱と興奮が一気に醒めていくのを感じていた。
 とっさに、脱ごうと身をよじってファスナーのつまみに手をかけた。慌てて引っ張ったソレは三センチと動く前に、合わせの部分で布を噛んでしまったらしく、途中で動きを止めてしまった。その苛立ちに舌打ちをひとつ。
「ツッキー、どうしたの、」
 心配する様子で顔を覗きこんできた山口が尋ねてくる。
「返す」
「え?」
「やっぱり、こんなの自分には全然、似合ってない、相応しくない、だから、」
「返さなくて良い!」
 脇のファスナーのつまみを無理に動かそうとする自分の腕に、山口の腕が伸びてくる。制止しようと掴んできた山口の手の熱さに、募っていた苛立ちがさらに増していく。涙は止まるどころか勢いを増し、自分の姿もファスナーすらも全てが思い通りにならない現実に、顔をしかめる。
「返さなくて良いから、ツッキーにあげた、俺からのプレゼントだから」
 目を合わせようと顔を近づけてきた山口の目が、僕を見る。何故か泣きそうな顔をした山口が、僕を見て言った。
「これは、もう、ツッキーのものだから。……ね、」
 じっと見つめられる視線の熱に、今の自分の姿を思い出し、不意に沸き起こってきた、いたたまれなさで胸がいっぱいになっていく。恥ずかしさに顔をしかめ、山口の前に手をかざす。
「いいから、見るな、もう、見ないで、……っ、」
 ぼろり、と目の縁から込み上げた涙が粒となって落ちた瞬間、唐突に、上から何かに覆いかぶされていた。暗い視界で目を開けば、滲んだ視界で目の前いっぱいに、近づいた山口の胸元が広がっていた。山口の身体は頭を抱える姿勢で、僕の身体を抱きしめていた。そう、それはまるで、鏡に写る僕の姿から僕の視線を遮るだけにとどまらず、ありとあらゆるこの世の全ての何かから僕を隠して守っているかのように。
 押し付けられた山口の身体、胸のあたりが膨らんで、吸った息をゆっくり吐いていく。
「大丈夫、ツッキー、すごく似合ってる、」
「嘘だ」
「嘘じゃない。綺麗だし、可愛いし、カッコイイ。少なくとも、俺の目には、そう、見えてる」
 だから、と山口は、言い聞かせる時のそれに似た声で、こう続けた。
「だから、また、俺の目の前で、着てるところ、もっと、見せて欲しいな」
 ドキリ、と胸のあたりを突かれた気がした。イエスともノーとも返す勇気が出ず、気づけば、
「一回で、後悔、しなかったのかよ……」
 山口の作った暗がりから、そんな負け惜しみに似た言葉を世界に向けて吐き出すくらいしか、出来ずにいた。フッと息を吐いて表情を緩めた気配を出した山口の、やわらかい声が続く。
「うん。実際に目にしたら、もっと見ていたい、って、思うようになった。ただ、出来るなら、俺以外の人の前では、見せないでいて、ほしいかな」
「それは……変だから?」
「ううん、違う」
 首を振った気配の山口が、照れくさそうに、小さな声で囁いた。
「ツッキーのこと、ひとりじめ、したくなった……から、」
「……ヘンタイ」
 騒がしくなった心臓の音を無視するように吐き捨てた言葉も、山口には無意味なもののようだった。
「うん、そうかも。……でも、俺、こんなツッキーのこと、ひとりじめ出来るなら、ヘンタイで、いいよ」
「これまで、僕が数えきれないくらい何度も、女装してる自分が山口に見られてるとこを想像しながら射精してた、って聞いた、としても?」
 うん、と変わらない調子の、山口の声がした。解けるように離れていった山口の身体の向こうから、遮られていた部屋の灯りが視界に戻されてきていた。少し恥ずかしそうにうつむいた山口が、小さく囁く。
「俺こそ、ごめん。……その、いきなり、ちゅーして、」
「いまさら、それ?」
 予想外の謝罪に、つい、笑みが零れた。照れくさそうに笑った山口の視線が、ふっ、と僕の着ているドレスに移る。
「ねぇ、ツッキー、立って」
 先に立ち上がった山口の手が、目線の高さで差し出される。何をさせるつもりか分からないまま、うながされるままに、その手を取った。その場に立ち上がれば、隣に立った山口が、僕の視線を目の前の鏡にへと差し向けようとした。え、と戸惑いで視線を逸らせば、引き留めるように僕の肩に手を乗せた山口の手が、鏡の前で僕の身体を抱き寄せて言った。
「ほら、やっぱり、すごく良い」
 視線を逸らしたままの僕を振り向かせようとする調子の山口の声が、した。抗うように首を振れば、背伸びをした山口の手が、僕の頭を前に向かせようと力を込めていた。
「ツッキー、見て」
 恐る恐る、じりじりとにじり寄るように視線を動かし、目の端だけで、その内側を覗いていく。赤いシルエットに覆われた自分と、隣に立つ山口の姿が、そこには映りこんでいた。
「ちゃんと、自分を、見て」
 鏡に写る僕を目にする山口の、誇らしげな顔が目に留まった。泣きそうに顔を歪める自分と、目が合う。
「ツッキー、すごく、すごく、カッコイイよ」
 嘘だ、と叫びたい気持ちは喉元まで近づいているというのに、目の前で嬉しそうに笑っている山口の顔を前にすると、何故か声には出せなかった。
 僕のドレスの腰元に手を移動させ、抱き寄せるように身体をぴったりとくっつけて立とうとする山口は、さらに熱に浮かされたような顔で、目を細めて言った。
「世界の、他の、誰かが別のことを思ったとしても、俺の目には、ちゃんと、すごくカッコイイ、ツッキーの姿が目に映ってる」
 自慢げに告げる山口の声と表情に、心の中の何かが揺れて滲んでいく、そんな感覚がしていた。震える身体を抑えながら、真っすぐに自分の身体を見た。山口に抱き寄せられながら立つ自分の姿は、やはり滑稽で、でも、紛れもない、自分自身だった。
「そう見えているのは、お前、ただひとり、だけ、なんじゃないの……?」
 震える声で投げかけた問いに、山口はハッと、鏡の中ではなく隣に立つ僕の顔を、直接振り向いて見上げてきていた。少し困ったような、それでいて、どこか笑っているように見える顔つきで、山口の唇は言葉を告げた。
「もし、そうだとしても、俺には、そう見える、って事実に、変わりはないから」
 まるで、それ以外の全てが些末であると言い切るかのような口調に、反論の余地は残されてはいなかった。
「山口が、ここまでバカだとは、思ってなかった」
 不意にこぼした一言に、山口は驚いた様子で濁った声を短く発した。触れていた腰元から手を離し、うつむきながら僕の言葉の真意を推測しようとしている有様に、薄く笑みが漏れる。鏡の前に立つ自分の姿は、いつしか背筋が伸びてリラックスした、真っすぐなものへ変わっていた。改めて鏡越しに目にした山口の用意してくれたドレスとハイヒールは、自分の身体にぴったりと合っていた。
 諦めに似た感情で自分の姿を鏡越しに見やる自分の横で、視線を上げた山口が同じく、鏡の中の自分たちと相対するように顔を向けるのが見てとれた。涙の余韻で湿った僕の顔を鏡越しに見つめた山口の顔には、あの、求めていた熱の予感が滲み出かけていた。
「ずっと、夢に見てた」
 ふわっと自分の身体の内側に戻ってくる熱の存在を感じ取り、口元を緩める。事実は、事実でしかない。断言した山口の声の強さを思い返しながら、頭の中で白旗を振る。ずっと願っていたことも、今もその気持ちが変わっていないことも、事実でしかない。
 隣で不思議そうに僕を横目に見ている山口に、顔を向ける。ここはさりげなく、なるべくわざとらしくなりすぎないように、と気を配りながら。
「さっきの、『ごめん』のこと、だけど、」
 まだ小首を傾げたままでいる山口は、しばらく考えを巡らせ、一分ほど目を泳がせた後で、もしや、という顔で、こちらを見てきた。分かるまで待っていたとはいえ、分かったなら口にする必要はないはずだ。その証拠に、目を合わせた山口の顔は、どこかほんのり赤らんできている。きっとさっきの唇の、お互いの熱っぽさを思い出しているのだろう。
「このドレスを着てみせるのも合わせて、また、『してくれる』なら、許してあげても良い、けど」
 口にしながら、照れる気持ちが募ってきたせいで、終わりの方は上手く言葉にならなかった。それでも、隣に立つ山口には充分に伝わっていたようで、こちらが唇を閉じ合わせた途端に、目の前にあった山口の顔が視界いっぱいに近づけられて、背伸びして伸ばされた両腕に抱きかかえられた後頭部に山口の手が重なった瞬間、唇の上に熱い山口の唇が強く押し当てられていた。重ねられた熱の存在に、僕は、そっと目を閉じた。目の前にいる山口と熱の感触だけに意識を集中させ、それ以外の世界の全てを遮ってしまうかのように。







 その日を境に、二度と僕が、あの夢を見ることはなくなっていた。もう見る必要はなくなったのだと、結論は出ていた。当然の結果として、驚くこともなかった。なぜならもう、今となっては夢ではなく現実で充分に叶う光景となっていたのだから。