鏡に映る自分の姿を目にして落胆の息を吐くのは、これで一体、何度目になるだろう。その緩むことのない頬の輪郭に、そっと指を押し当てる。骨ばったシルエットは頭の中に描くそれとは似ても似つかず、ただただ自分がその姿に成り得る未来など、どこにも存在はしないのだと、揺るがない事実を告げてくる。冷ややかな現実は鏡面の手触りに酷似して胸に突き刺さり、触れた僕の指の先から確実に体温を奪っていく。虚像である自分の姿に向かい、ひとり、囁く。
「ニセモノ」
 本物には遠く及ばない自らの姿は、鏡の中から、じっと恨めしそうに僕を見つめてくる。その口元に上辺だけの薄ら笑いを浮かべ、感情の無い視線で僕を見る。いつからこんなに歪になってしまったのか。そのきっかけは、ひどく些末で、しかし、酷くこの胸に強く激しい疼きを与えていった。あの日、あの時、あの瞬間さえ存在しなければ、きっと、いや、確実に、今の自分は、こうはなっていなかった。無意味な『たられば』を繰り返しつづける僕に向かい、鏡の中の自分は、あからさまな冷笑を浮かべていた。







 けーい、と聞きなれた呼び声が遠くからして、山口と二人、ボードゲームに興じていた手を止めた。階段下からであろう母の声に、二人で目を見合わせ、期待に目を輝かせながら、自然と耳を澄ませていく。
「おやつ、用意したから降りておいで」
 待ち構えていたその声に、僕も山口も、その場を片付けることもせず、そのまま立ち上がって部屋を出た。駆け下りた階段の先、キッチンへ戻ろうとする背が振り返って声をかける。
「手、洗ってからね」
 釘を刺してきた視線の先、続く洗面所に方向転換をし、山口と二人、揃って順番に手を洗う。何が出てくるんだろう、と淡い期待を抱きながら濡れた手を拭き、目くばせを繰り返しながら二人でリビングのローテーブルへと向かう。見れば二人分のお茶と一緒に、小皿に乗った、大きなシュークリームが用意されていた。歩いて数分の近所にある、お菓子屋のクッキーシューだと分かり、自然と口の端が緩んでいく。山口と一緒にこれを食べるのは初めてかもしれない。すごくサクサクで美味しいシュー生地の食感を思い出しながら、山口の反応を想像していく。
「わっ、美味しそう」
 いつもの場所に腰かけた自分の斜向かい、ローテーブルの対角線に腰を下ろした山口が、皿に乗ったクッキーシューを前に、目を輝かせる。いただきます、と両手を合わせれば、キッチンの方から母の、どうぞ、という声が返ってきた。
 舌なめずりをして手に取ったシュークリームを天地、反対に引っくりかえす。この店のクッキーシューはクリームが大量に入っていて、うっかりそのまま口にすると、決まってクリームがあふれ出てしまう。ガブリ、とかじりつく前に、隣の山口にもそうするよう、声をかける。
「こうすれば、クリームが、」
 言いかけて、視界に飛び込んできた山口の姿に、目を見開いた。ひと足さきにかじりついた山口が、予想通り、天地そのままの姿勢のシュークリームから大量のクリームを手の中にこぼしてしまっていた。遅かった、と思いつつ、慌ててテーブル脇のティッシュボックスから数枚引き抜いたペーパーを、急いで山口の手元へと差し出す。
「はい、これ」
 差し出した先、シュークリームを手にした山口は、僕の方を見ることなく、明後日の方向を向いたまま、ぼんやりとした顔つきで動きを止めていた。僕が差し出したペーパーなんて見向きもしないその視線は、とある一点に向けられたまま。一体、何に見とれているのか、渋々、その山口の視線をたどって、ようやくリビングのテレビ画面に行きついた。
 ジャン、と派手な音と光と共に、画面いっぱいに真っ赤なドレスの裾が大きく翻った。わずかに覗き見えた白い二本の足が、蹴り上げた足先に履いた真っ赤なハイヒールの踵を画面の端に映りこませていく。その鮮やかさに、気づけば僕も目を奪われていた。テレビ画面には続けて、カメラが画角を引いてドレスを身に纏った人物の正体を映りこませていた。最近テレビでよく見かける二十歳くらいの女性アイドルが、コンサート会場らしいステージの上で、まばゆいスポットライトを浴びながらマイクを片手にポーズをとる。流れている音楽のリズムに合わせて身体を揺らし、その動きに合わせて、ひらりひらりと赤いドレスの裾が揺れていく。
「こういうのが好きなの?」
 いまだテレビ画面に釘付けになっている山口に向かい、何の気なしに声をかけていた。いまだにテレビ画面に釘付けになっていた山口はハッとした様子で僕を見て、そして、慌てた様子で、
「ちが、そうじゃなくて、なんとなく、ツッキーに似てる、って」
 え、と聞き返す代わりに、視線をテレビ画面に戻した。画面に映る女性アイドルは、すらりとした長身に淡い色の巻き毛を腰のあたりまで伸ばし、ふわりふわりと揺らしながらマイクに向かって歌い続けている。白い肌に華奢な背格好、足元の赤いハイヒールが、その細い足に対し、どこか重そうにも感じられるほどの見た目をした女の人。これが、僕に、似ている?
「どこが、」
 そう尋ねようとして再び山口の顔を見た時、気づけばハッと息を飲んでいた。画面を見つめる山口の瞳は熱に浮かされたように、ぼんやりと輪郭を滲ませ、その頬を赤く染めながら画面に映るアイドルを、うっとりと見つめていた。その瞳と表情は、これまで長く友達として一番近くで見てきたはずの自分ですら、一度として目にしたことのない、異色な何かを纏っていた。その熱に覆われた山口の横顔を前にして、その日、その瞬間の自分は、大きな揺らぎを胸の内に抱いていた。知り尽くしているはずの友達の、今まで知りもしなかった一部分に、どこか、いけないものを目にしてしまった、そんな気持ちさえも湧きおこっていた。
 三度目に画面に目を向ける頃には、もうテレビ画面は別の映像を映し出していた。お昼の情報番組は、アイドルのコンサートが都内で開催され成功を収めた話題を終えて、今はもう、すでに東京駅構内の人気の手土産ランキングに話を進めていた。する、と指先から、手にしていたペーパーを引き抜かれる感触で、我に返った。
「ありがとう」
 お礼を口にしながら、その指先と口のあたりを拭きとる山口の顔は、もうすでに、いつものそれに戻りきっていた。先ほどの表情が嘘のような見慣れた顔つきに、僕は憑き物が落ちたみたいに軽い身震いを繰り返していた。強くまばたきをくり返す度に、視界の端に、焼きついた山口の顔が浮かんでは消えていく。まぶたの裏にこびりついたそれを記憶の中で反芻しながら、騒がしくなる心臓の音に動揺が隠せなかった。





 その日の晩、二度と忘れもしない夢を見た。夢の中の自分は、大きなステージの上、強い光を浴びながら、ひとり、その場に立っていた。目の前の客席には、たった一人、見覚えのあるソバカスをステージからの漏れた光で照らしながらこちらを見つめている山口の姿が、そこにあった。
 カツン、と足を振り上げて下ろせば、固いステージに反響して高らかな音が会場全体に響き渡った。視界に映る真っ赤な色に、顔を緩めながら自らの身体に目線を落とす。見れば、自分の身体は、見覚えのあるアイドルの衣装、真っ赤なドレスを纏っている。その裾は僕の腰の動きに合わせ、右に、左に、かすかに揺れる。その動きに心満たされながら足を動かせば、真っ赤なハイヒールが足の先でステージ照明を反射させながら、ピカピカと光るように輝いていた。カツン、と小気味の良い音が耳に届く。胸を張り、見栄を切れば、客席に立つ山口と、視線が交わる。その山口の顔に浮かんだ熱の色に、胸の内から、じわりと喜びの感情が広がっていく。
 そう、その表情が見たかったんだ、と。
 ぞくぞくする感覚が足の先、ヒールの根元から神経を伝って頭の先、思考の端まで駆け抜けていく、そんな気がした。見つめた先の山口は、僕の姿を前にして、例のあの顔を、あの視線を僕一人だけに注ぎ続けていた。
 その日、目覚めた瞬間に強い困惑が自らを襲った。股間に感じる濡れた冷たさに、ゾッと心の臓までも冷えていくように感じられた。僕はその時、初めて夢精をしていた。そのきっかけが山口の夢であることに加え、生まれて初めて味わう気持ちの良さに、頭と心が追いついてこなかった。夢の中で味わった感情、その感覚に、自分自身が戸惑いを覚えていた。
 僕は、あの山口の眼と表情を、自分自身に向けて欲しいと、心のどこかで思ってしまっているのだ。
 自覚してしまってから、それは重力加速度的に強さを増していった。何気ない日常が続く中で、友達として山口と接し、関わる間も、あの時の山口の顔つきが頭の端をチラついて離れていこうとしなかった。
 夢は何度も、同じシーンをくり返し僕に味わせた。その度、くり返してしまう夢精に、僕はとうとう、その場面の再現を求めるようになっていった。この夢を終わらせるには、くり返し見ないようにするには、僕がその姿になって山口に見せなければならない。いつしか囚われるようになった考えは、僕の思考を覆いつくして離してはくれなくなった。何より手に入れなければならないのは、あの真っ赤なドレスとハイヒール。百貨店の婦人用ドレスの売り場を遠巻きに眺め、なかなか、その一歩を踏み出せずに諦める日を何度かくり返しては、適当な口実を探し続けていた。母へのプレゼントだとか、好きな相手に贈るためだとか、いくら作り話の必然性を整えようとしても、ひとつとして上手くはいかなかった。何より、それを淀みなく口から発する未来を自分は一度として想像できなかった。ひと月が経ち、ふた月が経っても、僕は赤いドレスもハイヒールも、どちらも手に入れられないままでいた。
 そんな日々が続く中で、僕が諦めかけた頃になって、運命はまた歪な方向へ僕自身を引きずり込もうとしていった。




「あら、こんなところにあったのね」
 季節の変わり目を前に、クローゼットの衣替えを始めた母を手伝っていると、不意に喜びに満ちた驚きの声が響いてきた。言われるままに洋服の収納ケースを運んでいた手を止め、何事かと振り返れば、母の手には見慣れない不織布のカバーケースがかけられていた。首と思われる部分から飛び出したハンガーフックを手にかけ、嬉しそうな顔つきで母がそのジッパーを少し引き開ける。
「懐かしい、よく着てたっけ」
 見ればカバーケースから覗き見えるのは深紅のワンピースで、映えるような色に自分の眼は一瞬で惹きつけられていた。僕の視線に気づいたのか、はにかんだ母がケースのジッパーを全て開き、その中身を僕に広げて見せてくる。
「昔、友達の結婚式とかで、よく着てたのよ」
 ふふふ、と笑いながら広げた母の手元には、首のあたりが大きく開けた真っ赤なドレスワンピースが風を受けていた。肩にかかる布から裾にいたるまで、ひらひらと多くの布がフリルとして何枚も重ねられて層を成している。その有り様に、ひと目で、似ている、と思った。凝視する僕を前に、母は別の心配をしたのか、照れくさい様子で口早に、こう告げた。
「着てた、って言っても若い頃、二十代とかそれくらい前の話よ、もう何年も着ていないし……そうね、もうこれを着る機会も二度と来ないわねぇ」
 ふと、名残惜しそうにドレスワンピースを見やった母は、しばらく逡巡する様子を見せながら軽く唸り声を漏らし、最後には諦めた様子で再びそれをケースの内側に丁寧にしまい込んでいた。処分しようか迷った結果、どうやらクローゼットの奥に仕舞いこんで、そのまま眠らせておくことに決めたらしかった。
 クローゼットの隅、最も奥まった場所に吊るされたケースと共に、母が揃いの赤いハイヒールの入った箱を仕舞いこむのを目にして、自分は強い衝動を抑え込まずにはいられなかった。衣替えの手伝いを断らずにいて良かった、そう、生まれて初めて思えた瞬間でもあった。
 それから間もなくして、母が夕方、隣近所の家に回覧板を渡しに出かけた、そのわずかな時間を狙って、自分は行動に移していた。昼間、母と二人で作業したクローゼットの扉を開き、こっそりと、その奥に仕舞いこまれたそれらを引っ張り出すなり、すぐさま自分の部屋へと引き込んでいた。自分の部屋のクローゼットの扉を開け、パッと見ただけでは見つけられないであろう奥の方へと、不織布のケースと靴の入った紙箱を大事に、慎重に、仕舞いこんでいく。衣替えを終えたばかりの今ならば、しばらく母が、この扉を勝手に開けることは、多分、きっと、無い。その確信を元に扉を閉めると、まぶたの裏に、昼間目にした真っ赤なドレスとハイヒールの有り様が、鮮明に蘇ってきていた。これを身に纏う未来が、自分には、ある。その期待と喜びに、自分の心臓は大きく高鳴り続け、一向に収まる気配を見せはしなかった。
 その晩は興奮のあまり、うまく寝付くことが出来なかった。そのせいか、久しぶりに夢を見ていた。いつもと変わらない、あの山口とステージを挟んで対峙する夢。ただ、それまでと明確に異なっているのは、自分が身に纏っているドレスとハイヒールは、あの日、あの瞬間、山口と並んで目にしたテレビ画面に映ったアイドル衣装のそれではなく、昼間目にして、ようやく手に入れた、あの赤いドレスとハイヒールへと、すり替えられていた。赤いドレスとハイヒールを身に着けた僕を眺め、山口は例の、あの表情を浮かべていた。目が合って、その視線が僕へと注がれている事実に、夢の中の自分は強い興奮と共に、得も言われぬ充足感に満たされ、信じられないほどの幸福感に包み込まれていた。
 朝、汚れた下着を自らの手で洗っている間、頭の中は、とあるひとつの議題でいっぱいになっていた。いつ、それを着てみるのか。家族に絶対に見られない、家に誰もいないタイミングで実行に移すしか手段は無いように思えた。ただ、それがいつになるのか、その時の自分には見当もつかないでいた。





「今夜、PTAの集まりで夕方からお母さん、ちょっと出かけてくるから、その間、ひとりで留守番、お願いね」
 朝食を並べ終えた母がそう告げるのを耳にして、ハッと息をのむ自分がいた。頭の中には、クローゼットに仕舞いこんだままのドレスとハイヒールが思い起こされていた。
「出かけるって、何時まで?」
 ドキドキしながら冷静を装って聞き返した僕に、母は何の疑問を持たずに会話を続けていた。
「そうねぇ、お兄ちゃんより先には帰ってくると思うけど、七時くらいかしら? 出かける前に夕ご飯の用意はしておくから、もし待ちきれなかったら先に食べ始めていても構わないから」
 ね、と語り掛ける母の声を頭の中で繰り返しながら、自分の頭は想像の中の時計の針をグルグルと巻き進めていた。学校から帰ってきてから、少なくとも一時間くらいの間だけ、今夜、確実に、僕は家で、たった一人きりになる。その結論に、自然と口元が緩んでいく。それを悟られないよう、必死に下を向きながら朝食を口にし、そのまま朝の支度を進めていった。
 今夜、ようやく、あれを身に纏うことが出来る。期待に膨らむ胸は、騒がしさを増していた。その日、学校の授業は半分くらいしか頭に入っては来なかった。山口に誘われた帰り道も断りを告げ、早々に家へと引き返していった。帰り着いた家の玄関には鍵がかけられ、中に誰一人、家族の姿は見つけられなかった。
 空っぽの家の中、大急ぎで自分の部屋に向かって階段を上った。背負っていたランドセルを放り投げ、クローゼットの奥のそれを両方、手に取った。閉じていたジッパーを開き、中から現れた真っ赤なドレスを興奮しながら外へと引き出す。鳴り響く心臓の音に急かされるみたいにして、部屋の中でひとり、パンツ一枚になるまで素早く服を脱ぎ捨てた。
 首元の大きく開けたドレスの腋、腰まで続く長いファスナーの取っ手を見つけ出し、指でつまむ。スライドさせて広がった胴の部分に足を入れ、胸まで引き上げる。長らく仕舞いこまれていたせいか、お香みたいな薬の匂いが、ふわりと鼻先をついた。ぎこちない手つきでファスナーを閉め、紙箱の蓋を持ち上げて、中から出てきた真っ赤なハイヒールをカーペットの上に丁寧に並べて置く。そっと、その中に自分のつま先を、右足、左足、と順に、ゆっくりと、置くように入れていく。ドキドキする胸を手で押さえながら、壁際にある大きな姿見に視線を向けた。
 あれ、と戸惑う自分がいた。鏡に対し平行になっていた身体を、ゆっくりと回転させて、鏡の正面と相対するように立ってみる。
「……なんで」
 鏡に映る、真っ赤な布に包まれた自分が、鏡の中から僕に向かって、問いかけていた。対峙した自分は、ドレスを着ているのではなく、ドレスに着られている状態で、ひとり、僕の部屋の真ん中で立ちつくしていた。ドレスの片方の肩ひもは肩の上から完全に浮いて落ちてしまっているし、大きく開いた胸元は完全に布が余って、僕の貧相な白い胸元を隠すわけでもなく、大きくたわんで、ただそこにぶら下がっているばかり。ふくらみの無い平らな胸とドレスの布の間に広がる隙間の暗がりに目を落とし、信じられない気持ちで、もう一度、目の前の鏡を覗き見た。鏡の中にいたのは、不格好な様を見せつけてくる僕の姿、たったそれだけだった。
「こんなはずじゃ、」
 夢の中で見ていた自分の姿とは似ても似つかない有り様に、それ以上の言葉が続かなかった。腰元の布は余り過ぎて右に傾いて大きくシワをつくっているし、裾から続く二本の脚は、履いたヒールの不安定さのせいか、格好悪く広がって真っすぐ立ててすらもいない。白さばかりが目立つ自分の足に対し、真っ赤なハイヒールは、あまりにも痛々しく、まるで血の滲んだ臓器のように生々しく見えて仕方がなかった。身じろぎするように、鏡から一歩、後ろに足をずらす。逃げるみたいに遠ざかった自分の足、ハイヒールの踵が浮いて、かぱ、と音を立てて戻っていく。大きいのだ。そう気づいた時、暗く沈んでいた自分の顔に、一縷の光が差し込むのが分かった。
 そうと分かれば、今の自分が対面している違和感の正体が、自分の未熟さであることは明確だった。子どもが、サイズの合わない服を無理やり着ようとしている。その事実に、自分は深い納得を抱いていた。化粧もしていない頬を緩め、そうか、と息を吐く。まだ、このドレスもハイヒールも、自分には大きすぎるだけなのだ、と。
 記憶の中のアイドルの姿と、夢の中で見ていた自分の姿、そのどちらにも遠く及ばない、鏡の中の幼い自分。僕を見つめる自分に向かい、僕は、そっと言い聞かせるように胸のうちで囁いた。まだ、山口に見せる時じゃない。もう少し時間が経って、自分がもう少し大人に近づいた時になれば、きっと、このドレスもハイヒールも、僕に似合うようになってくる。
 納得の上で脱ぎ終えたドレスとハイヒールを、僕はもう一度、クローゼットの奥の方へと元通りに仕舞いこんだ。まだ子どもの自分には早いだけなんだと、何度も、何度も、頭の中で繰り返し、言い聞かせていた。
 このドレスとハイヒールが似合う自分になったなら、きっと、山口は、あの顔を僕に対して向けてくれるはずに違いない。そう思って、祈るような気持ちでクローゼットの扉を閉めた。





 それからしばらくの間、僕は家族がいないタイミングを見つけては、定期的にそのドレスを引っ張り出しては身に纏ってみた。五年生が過ぎ、六年生になっても、春が夏になって、秋が訪れても、まだ赤いドレスとハイヒールは自分の身体に対し、わずかに大きいままだった。
 身長が伸び、ハイヒールを履く脚が慣れて真っすぐに立てるようになっても、いまだに僕は、まだ早い、と自らに言い聞かせ続けていた。中学に上がって、ドラッグストアで苦労して買ってきた口紅を試しに唇の上に塗ってみたところで、鏡の中に映る自分は、まだ、どこか子ども染みた見た目のままでいた。
 何年もかけて何回も上げ下げをくり返したドレスのファスナーは、次第にくたびれはじめていた。真っ赤でツヤツヤしていたはずのハイヒールも表面に細かなしわが出来るようになり、僕の足には少し窮屈に思えてきた。そんな頃にはもう、僕はあの夢を見て朝を迎えたとしても、絶対に下着を汚すことはなくなっていた。その事実に、何か物足りなさを感じ始めていた。
 中学二年の夏になって、ようやく真っ赤なドレスとハイヒールは僕の身体にぴったり合うようになっていた。もうそろそろ山口に見せても良いかもしれない。いや、もう少しだけ時間をかけた方が良いのかもしれない。相反する二つの気持ちに葛藤を覚えはじめた頃、どこからか、山口に彼女が出来た、という噂が僕の耳へと飛び込んできていた。
「彼女? そんなのいないよ」
 問いただした先の当の本人である山口は、矢継ぎ早に否定の言葉を口にした。僕の質問に対し、焦りながらも、ただの噂を真に受けている僕を信じられない、と軽くあしらうような、そんな笑い方をしながら。
「たまたま、この前、駅で同じ委員会の子と一緒になって、それを目にした誰かが勝手に噂して流した、ってだけだよ」
 必死に説明を重ねる山口の様子に、これはむしろ逆に怪しいのでは、という考えが自分の中に芽生えていた。いくら山口に否定されたところで、疑いの気持ちが晴れない自分が、どこか嫌で我慢ならなかった。こんなに近くで、誰より長く付き合っているはずなのに、噂の出どころも、その理由も、真偽ですら判断がつけられない自分自身に、正直、ガッカリしている自分がいた。
 もしも山口に恋人が出来たとしたら、山口はあの表情を、その相手に見せることがあるんだろうか。
 噂を耳にして三日後の夜、鏡に映る自分を前に、ふと、そんなことを考えていた。ぴったりになったドレスを纏った身体を見つめ、そのシルエットを視線でなぞっていく。ドレスのサイズは初めて着た、あの日に比べて、はるかに自分の身体に相応しい具合になりきっていた。けれど、その見た目は脱ぎ着をくり返したおかげで、どことなくすり減ってくたびれているようにも見える。ヒールの踵には細かい傷がいくつもついて、無理に押し込んだ指先はギシギシと骨から音が響いてきそうなくらい窮屈になっている。
 サイズの問題が解決した今、改めて鏡の中の自分を見つめれば、そこには不格好な自分が男の姿として映り込んでいた。小学生だった頃の自分と比べ、はるかに肩幅は広くなり、指も手足も関節から骨ばって、触らずとも硬く締まっているのが見てとれる。夢の中で繰り返される姿とは似ても似つかない現実の自分に、胸の奥の方が、スッと静かに冷えていく。こんな自分を山口が見たら、どう思うのだろうか。在りもしない想像が頭の中で繰り広げられていく。あの日のあの顔が見たいと告げたところで、山口は素直に僕にあの表情を向けてくれるというのだろうか。こんな恰好をした僕を前にして。
 夢の光景を思い出そうとすると、身体の奥の方から、ぞわ、と熱っぽい何かが込み上げてくる気配がした。近頃では、夢の中ですら感じなくなっていたそれが久しぶりに踵の先、足先を伝って神経を上り、頭の頂点、つむじにまで広がっていく感覚が、確かに、した。山口のあの熱っぽい視線と表情に見つめられている場面を頭の中で思い浮かべてみる。と、同時に、身体の内側がザワザワと波打ちはじめ、足の付け根のあたり、腰の奥の方がむずむずと重たく熱っぽくなってくる。まさか、と思いながら、鏡の中に映る自分の腰元、足の付け根のドレスの布が内側から押されて張り出している在り様を前に、生唾を飲んでいた。目覚めても吐き出すことのなくなった熱が滞って自分の身体の中で渦を巻いている、そんなイメージが頭の中に広がっていた。
 気づけばドレスのスカートの中へと手を這わせていた。汚さないよう、その裾をたくし上げ、落ちてこないように裾の端を持ち上げて口に咥えていた。鏡に映った自分の下着を持ち上げる性器の形を目にしながら、窮屈になった布の端に指をかける。赤いドレスとハイヒールには相応しくない、そのグレーの布地を腰から引きずり下ろしていけば、ずるり、と張り詰めた陰茎が空気に触れた。これは、この恰好のせいじゃない。頭の中をよぎる山口の顔つきに、熱い息が込み上げて、口から漏れて出る。今、この状態で、目の前に立つ山口が、僕のこれに手を伸ばしてきたとしたら。
 ぞくり、と身体に大きな震えが起きた。軽く指を添わせていた性器は、またたく間にその熱を外に向かって吐き出していた。鏡に映る自分は、ひどく熱っぽい顔をしていた。まるで想像の中で描いていた山口の表情のように。たくしあげたスカートの裾の華やかなラインとは噛み合わない、萎びた性器に手を添えた自分の姿は、ひどく滑稽に見えた。手元からカーペットの上、ましてやその鏡の上にすら白い飛沫を飛ばした男は、誰が目にしても似合わないと答えるであろう真っ赤なドレスを身に纏ったまま、ひとり、薄暗い部屋の真ん中で、ただただ、その場に立ち尽くしていた。その表情は美しさとは程遠く、あまりにも自分の求めている姿とは繋がらない真逆の状態に、絶望を感じずにはいられなかった。身体の中で渦を巻き淀んでいた熱を吐き出した行為による快楽の名残に、湿った息を宙に吐く。ようやく訪れた脱力に、目を伏せ、両手を下ろす。たくし上げていたスカートの裾を手のひらで押さえつけながら、強く目を閉じる。
 僕は、山口が見惚れるような姿には、きっとこの先、一生、なることはない。
 理想からかけ離れていく自分の姿を見ていられなくなった自分は、ひとつの確信を得ていた。滲んだ涙が粒となって、まぶたの端から頬の上へと伝い落ちていく感覚に、初めて落胆の息を吐いていた。






 それでも、僕はドレスとハイヒールを手放すことが出来ないまま、しばらく日常をやり過ごしていた。中学三年になって高校受験の日を迎えた後でも、その受験した烏野高校からの合格通知を受け取った後でさえも、変わらず、落胆の感情が薄れて忘れかけた頃になると、決まって、それらをクローゼットの奥から引っ張り出してきていた。ぼんやりと夢を見るかのような動作で、自分でも理屈の分からない静かな衝動に促されるがまま、自分の部屋の姿見の前で、その真っ赤なドレスとハイヒールに身を包んでは、決まって、その鏡に映る自分の姿を前に、深い絶望に顔を歪めていった。慌てて脱ぎ捨てたドレスとハイヒールを無下にすることも出来ず、結局は、降参したかのように項垂れながら、元あったクローゼットの場所へと深く、それを奥の方へ仕舞いこんでいった。
 夢は、相変わらず僕に同じ光景を見せ続けていた。そのくせ、その感触は鈍くなるばかりで、僕の肉体的な満足感は常に欠乏しつづけていた。あの身体の中を駆け抜ける、履いたヒールの先から頭の上までを満たす痺れのような充足感がどこにも見つからないことに、強い焦燥を噛みしめるようになっていた。
 結果として、僕は自慰の最中、決まって山口のその手が、その視線が、あの表情が僕を見つめて求めてくるシチュエーションを想像するようになっていた。いつからか、そうしないと射精に至らない自分の事実に気づいてしまっては、もはや疑うことも出来なくなっていた。僕は、あの恰好をした自分に山口が近づいて触れてきてくれることを、心のどこかで求めているのだ、と。
 その反面、心のどこかでは諦めの感情も強く抱いていた。こんな自分が着飾ったところで、絶対に山口は自分にあの顔を見せてはくれないだろう、と。僕の痴態を前に、驚く表情を見せるか、嫌悪の表情すら向けてくるか、もしかしたら二度と顔を合わせてくれなくなるかもしれない。あらゆる想像を巡らせては、淡い『もしも』を掻き消す作業だけは、いつもどこかで繰り返し続けていた。
 見られたい自分と、見せたくない自分。心の中で混ぜこぜになる感情に、いつも自分は蓋をするしか術が残っていなかった。
 高校になって間もなく、ドレスもハイヒールも僕の身体には小さく成り果て、ドレスのファスナーは壊れて上がらなくなり、真っ赤なヒールは根元から外れて履けなくなってしまった。それでもなお、それらは変わらず、僕の部屋のクローゼットの奥で、仕舞いこまれたままになっていた。




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