俺は三ヵ月前、晃に結婚の話を持ち出した。晃は断らず、静かに頷いてくれた。
プロポーズの言葉は、「サボテンの花が咲いたら結婚しよう」だった。
四日前、無事にサボテンには蕾がついた。
窓際のサボテンは、もうすぐ開花するところだった。
だけど、俺は昨日サボテンを枯らしてしまった。
一昨日、俺は結婚指輪を用意しようと出かけていた。宝石店で無事購入したものの、帰りには通り雨が降った。俺は雨宿りをしてから家に帰ろうとしていた。
でも、三十分経って、やっと重大なことを思い出した。俺は慌てて家に向かって走り始めた。
だが帰ってきた時には既に遅かった。窓際にあったサボテンは、びしょ濡れになっていた。
昨日は一日中何とかしようと試みたものの、サボテンは枯れてしまった。
真っ赤な蕾は、しおれて開くことはなかった。
すっと、目を開く。誰もいないホームの中、アナウンスが聞こえてきた。電車は十五分後に来るそうだ。
掴んできたケータイは充電を忘れていたせいで電池が切れそうな上、財布には電車賃がギリギリ往復あるだけ。
十五分という、動くに動けない微妙な待ち時間を潰す行為が、今の俺には何一つない。
ため息を吐いて空を仰ぐ。ポケットに手を突っ込むと、カサと紙の箱に指が触れた。
首を丸めてコンクリートの足元を見つめる。
晃が出て行く寸前、俺は言い訳なんてしなかった。できなかった。することは反則だと思った。
約束は約束だったのだ。俺も晃も、言い訳を言ったところで今までの俺たちを否定するだけだと分かりきっていた。
あの約束さえ曖昧にしてしまったなら、俺たちが今まで共有した記憶は全て崩れ、美しさも何もかもなくなって、ただの泥のフィルムに変わってしまうのだった。
だから、俺も晃も、何も言えなかった。取り消せなかった。
俺は十分分かってた。晃が何であんな風に怒ったのか。
歯を食いしばって涙を浮かべ、顔を赤らめて、静かに告げたその意味が、分かってた。
晃が俺に告げた言葉は、俺が求めていたものと違ってた。だから尚更返す言葉を見つけるのは困難だった。
「いっそ殺せ」
晃の声は、まだ耳に残っている。こびりついている。
今俺は、俺が今まで強がっている晃しか見てなかったんだと、痛いくらいに感じている。
最後の言葉だって、強がっていた。最初の言葉だって強がりからだった。告白の時だって、強がっていたんだ。本当は俺のことを覚えていたんだ。
強がって、強がって、自分を守っていた。そう、今思えば晃はサボテンのような存在だった。
棘を常に出し、一般的には近寄りがたいイメージを出す。でもじっくり育て、ちゃんと待って側にいれば、鮮やかな美しい花を見せてくれる。
そんな晃だったから、俺の告白を承諾したんだ。俺がサボテンの棘も、何もかも、好きだと告げたから。サボテンが好きだと、告げたから。
きっと自分をサボテンに見立てて俺の言葉に耳を傾けてくれたんだと思う。
あたってなくてもいい。でもきっとあたっている。そんな気がするんだ。
指先で触れていた煙草の箱を手に取り、ポケットから出して掲げる。
すると、カタと音がした。
思わず俺は煙草の箱を覗き込んだ。
奥の方に、一本。
一本だけ残っている。
指を突っ込んで、引き出す。右手の人差し指と中指で挟み、親指を添える。晃の持ち方だ。
そっと咥える。
左手でポケットを探ってライターを取り出す。
火付け石を回し、火をつけた。口先に熱が広がる。
浅く煙を吸い込む。のどに引っかかる感じがする。
煙草の味は苦く、やはり形容しがたいものだ。でも、俺の知っている味よりも、ずいぶんと苦く感じた。
さて、これからどうしようか。
電車が来るまであと十分だ。
俺は、再び空を仰いだ。煙の向こうで、青い空がくすんで見える。
サボテンをもう一度手にしようか、それとも決別するか。
未練がましいとは俺自身思うが、こればっかりは決めがたい。約束は、もう時効だ。
口にしていた煙草を離し、深く息を吐く。
「………苦い」
俺の呟きは、誰の耳に届くこともなく、朝の空気に吸い込まれていった。