ホームの中へ電車がやってくる。
無機質な声のアナウンスが誰もいない始発電車を迎え入れる。
楓はすっかり短くなった煙草を足で踏み潰し、静かに拾い上げ手にしていた箱の中へと戻した。
静かな朝の光景のどこかで鳴り響く踏切の音が聞こえてくる。警告している。
減速した車体の扉はゆっくりと開き、楓を迎える。早朝だというのに車内は煌々と蛍光灯が灯されている。
上着パーカーのポケットに煙草の箱を収め、足を踏み出した。
かすかに揺れた車体の中で、楓は窓の外を見つめる。乗車している人間は彼一人だというのに、決して座ろうとはしない。
窓の向こうではまぶしい朝が広がっている。

発射の時刻が迫り、車掌が笛をならした。
つんざくようなけたたましさを含むその音に我に帰るようにハッと目を見開き、扉が閉まる寸前のところで車外へと出る。
楓の背後で轟音と共に風を切って電車は走りだす。楓はその去っていく姿をぼんやりと見送った。
再び静かになったホームから空へ目を向けると真っ青な空が広がっていた。
口内にわずかに残る煙草の香りが楓を急き立て、走り出させる。ホームを過ぎ、切符を現金に戻し、駅を去り、タクシーを捕まえる。
すぐさま乗り込み、声を荒立てて行き先を告げる。
滑るように走り出したタクシーの中、うなだれるような体勢で座りながら、ポケットの中の煙草の箱を両手で握り締めていた。





着きましたよ、と運転手に声をかけられた楓は運賃を支払い、急ぎ足でタクシーから降りた。
目の前には楓と晃が高校の旅行の際に立ち寄った植物園があった。
その門は硬く閉ざされている。開園まではまだ時間が足りない。
しかし、門前に立ち尽くす人物があった。その姿を捉え、楓はゆっくりと微笑んだ。
「晃」
しなやかな黒髪をなびかせ、晃は振り返った。
一瞬身体を強張らせて、それからしっかりと楓の姿を瞳の中に写す。
「何で…いんだよ」
棘を含むその声に、ゆっくりと唇を薄める。
「サボテンを新しく買おうかと思って」
笑みを浮かべながら、一歩、二歩と晃に近づく。
「何のために?彼女に振られた自分を慰めるために?」
「晃こそ、どうして此処にいるんだ?まだ植物園開いてないよ?」
「何となく。…悪いか?」
ふい、とそっぽを向いた晃の様子に、楓は目を細めた。
「泣きたかったから来たんじゃなくて?」
楓からそらした目には、じわりと涙が滲んでいた。
見抜かれているように思えて、ハッと胸をつかれる。なかなか次の言葉が出せず、舌は震えていた。
「晃はさ、泣くときはいつもサボテンと一緒だった。サボテンがない部屋でいくら泣きたくなっても、我慢しちゃってさ。俺の部屋に泣きに来た日もあったっけ。自分の家にもサボテンがあるはずなのに、わざわざ俺の部屋に来たんだよな」
涙を拭い、キッと楓を睨む。楓は怯むことなく歩み寄っていく。

「何が言いたい?」
「だから俺、晃が泣いてるんじゃないかって思って……きっと晃は此処にいるだろうなって思ったんだ。サボテンに会いに来るんだろうとね」
「別に泣いてない。……来るんじゃねぇよ」
「でも晃が家に来たその日、俺、確かこう言ったんだよな。俺がサボテンの代わりになるよって。・・・もし晃が植物園に行ったとしても、きっとまだ閉まってるだろうから、困ってるんじゃないかと思って」
ぎり、と晃は強く奥歯をかんだ。
「そんなこと、もう忘れた。約束を守れないで、へらへら笑って来たやつなんて知るか。言ったはず…枯らしたら別れる、って」
「あぁ、だから俺たち、別れたんだ」
「だったら…っ、」
「でも、その後他人になる、なんてとこまで約束なんかしてない」
「ふざけんな!」
「ふざけてなんかないさ、俺は最初から真面目だよ。告白した時も、初めて手を繋いだ時も、プロポーズした時だって、大真面目だった。今も真剣に話をしてる。…晃、あの約束はもう、終わったんだ」
「嘘だ。そんな都合のいい話があるか」
晃の目は再び潤みだす。
「晃は俺のこと嫌い?」
優しく投げかけられる楓の微笑みに、胸の奥が熱く揺らぎ始める。
「大嫌いだ。いつも人が真剣なときに限ってへらへら笑ってるその顔とか、いくら傷つけてもふわふわした話し方しか出来ないその口とか、馬鹿みたいに律儀な性格とか、大きくてブ厚い温かい手とか・・・・・・明日のためにとか言って都合の良いように考える頭も、どんなに嫌なことがあっても忘れて流すとこも・・・図体ばかりでかくて、でも中身は女々しくて、大声なんか出したこと無くて、サボテン馬鹿で、毎日ガキみたいにサボテンの棘に触っては笑って世話をして……」

ぽろぽろと晃の目から大粒の涙が零れ落ちる。
「こっちが泣いてても笑ってるだけで、いつも笑ってるだけで理由なんて聞かなくて、ただ隣にいるだけだった。楓がそんなだから、いつの間にか弱くなった。女になんか戻ってやらないって決めたくせに、単純なことで泣くようになって、カレンダーに書き込む記念日が増えて、写真が増えて、楓の好きなものと嫌いなものを知って馬鹿みたいに覚えて、それで、それで……泣きたいときに楓の顔が浮かぶようになった」
涙がこれ以上こぼれるのを食い止めるように歯を食いしばり、瞼を閉じる。
「こんなに弱くなかった。私はこんなに弱くはなかった。楓のせいだ。楓が馬鹿だから…だから…」
けれど、ぼろぼろと次から次へ新たな滴が頬を伝い落ちる。
胸が詰まって言葉にならず、唇を噛む。
楓はそっと歩み寄り、晃の頭を軽くぽんと叩いた。
そしてそのまま載せた手を、左、右、また左へと動かす。晃の長い髪の頭頂部だけ、くしゃくしゃになる。
「泣いて良いから、堪える必要なんてないよ。俺以外、見てないから」
楓の声に反応するように、涙のすじが増えた。
「自分が決めた約束、のくせに、いざとなって飛び出したら、自分の肌に楓の匂いが染み付いてて、あのベッドに戻りたくなって…・・・背中にいつもあった体温が無くて、背中が寒くてたまらなかった。いつも寝るとき耳にしていた楓の寝息が聞けなくなる。へらへら笑う顔が見られなくなる…ふわふわした低い声も、私の頭を撫でる手も、肩を引き寄せる腕も、広い背中も、優しいキスも………。全部なくなるなんて、考えたくなかった。いっそ、殺して欲しかった。せめて楓に会う前に戻りたいと思った。でも、戻れない。楓と過ごした時間があるから。だから…」
雨だれのようにとめどなくこぼれ、頬やあごを伝い、足元へと落ちていく。熱い息を吐く晃を、楓は相槌をするだけで静かに見つめていた。

「殺して」

ピタリ、と晃の頭を撫でていた手を止めた。
「嫌だ。その代わり」
くしゃ、と髪を軽く掴む。
「一緒に帰ろう」
晃の顔がくしゃくしゃ、と歪む。
「馬鹿……」
そして顔を楓の胸へと押し付けた。











数ヵ月後の楓の部屋には、サボテンの姿が戻っていた。
それだけでなく、サボテンは二つに増えていた。
今では赤く色づいた花を咲かせ、窓際を彩っている。
その花はサボテンの棘を隠すほどの数となり、美しい姿を見せてくれている。
そして、花だけでなく果実の卵さえ見え隠れし始めていた。

棘だらけの冴えないサボテンは、真っ赤な花と共に美しくみずみずしい果実を実らせ、今日も二人を窓際から見守っている。