「あーもう嫌っ!」
バンッ、とテーブルを叩いたら、目の前で揺れていたあかねちゃんがビクッとして動きを止めた。どさどさっと山積みにしていた教科書の山が崩れてテーブルから落っこちた。
うるせぇな、という迷惑そうな目線が右の方から投げかけられているのが、ひしひしと伝わってくる。いわずもがな、魔人の目線に違いない。
「もう課題嫌だ……こんな量、出来るわけ無いよ!」
「自業自得という言葉さえ知らないのか豆腐」
「だって夏休みだよ?休みなんだから遊んで過ごしたって良いはずなのに、こんなに課題があったら遊べないよ!遊ぶなって遠まわしに命令してるよ!」
「でもヤコちゃん、今まで教科書さえ一切開かなかったでしょ?」
「確かに今日まで何もやらなかったのは私が悪いけど……でもこんなの理不尽すぎる!暑いから学校を休みにするって言う夏休みなのに、家で勉強なんてやるわけ無いよ。…もう課題なんてなくなれば良いのに…」
「ほぅ、足が生えて何処かへ行けば満足なんだな?」
視界の端っこで魔人がニヤリと笑ったのが嫌でも目に映った。
「ちょ、ちょっと待ってよ、ただの冗談だってば!」
す、と手を振り上げた魔人をなんとか制止した。
チ、と舌打ちをした魔人は、つまんなさそうに元の姿勢に戻った。
「課題を無くせば済むって話じゃないってのは分かってるんだよ。私成績良い方じゃないし。提出しなかったらどうなるか…」
「じゃあ文句言わずにやらなきゃ間に合わないよ?」
グサリ、と胸に来る現実を伝える言葉をあかねちゃんがホワイトボードに記した。
「うん。そうなんだけど…でも」
窓の向こうからは強い日差し。セミの声。
「こんな状態じゃ、集中しようにも出来ないよ。…なんてったって暑いんだし」
チラ、と事務所の天井を見たら、天井にはクーラーらしき機械が取り付けられていることに気づいた。
しかし、その送風口はピッタリと閉ざされている。
「ねぇあかねちゃん、あれって、クーラーだよね?」
「うん、そうみたい。稼動してるところを見たことが無いけど」
「ねえ、スイッチって何処にあると思う?」
「スイッチって言うよりリモコンじゃないかな?」
「そっか…」
リモコンなんて私は一度も見たことが無い。ということは、なんとなくその在り処が分かる。
もちろん、この事務所を牛耳っている、そう、魔人が持っている以外に無い。
「ねぇネウロ、何でクーラーつけないの?」
「我輩は寒いくらいだ。魔界の温度に比べれば、これくらい肌寒いくらいだぞ」
にまにま、と意地悪く笑った魔人の顔に、くそぅと苦々しく思う。
事実、魔人はこの暑さの中で長袖長ズボンのかっちりとしたスーツを着続けているにもかかわらず、汗一つ浮かべてさえいない。
その代わりに私はじっとりと、顔だろうが腕だろうが汗でベタベタしている。
仕方ないか、とため息を吐いたら、あかねちゃんが氷を沢山浮かべた麦茶のグラスを差し出してくれた。
「地道に、ひとつずつ頑張ろう」
グラスの下に置かれていたコースターには、マジックでそう書かれていた。
じーん、と胸打たれながら、うん、と返事をした。
「頑張れば終わるよ」とホワイトボードの励ましの言葉を目にして麦茶を喉に流す。冷たい。生き返るようだ。ふぅ、と息を吐く。
「本当に、夏休みってあっという間に終わっちゃう。課題は終わんないのに」
最後のぼやきにしよう、と心に決めたら、魔人が上から見下すように笑った。
「どんなことにも終わりがある、そうだろうアカネ?」
「楽しい時間ほどすぐ終わっちゃう」
「ホント、そう思うよ」
口にしたら、なんだか寂しくなった。
終わりはいつか来る。楽しいことにはすぐに来る。
この事務所で過ごさなくなる日が、いつか来るのかな。魔人が私の前からいなくなる日も来るのかな。
まだまだ先のようで、明日かもしれないこの空間の終わりが、ふと頭をよぎった。
それがいつなのかは、終わりのその日になってみなきゃ分からない。
考えるのはやめにした。考えても無駄だと思った。
いつか来る、それだけ分かってればいいや。
気を落ち着かせたら目の前のグラスの氷が溶けて、カランと音を立てた。
窓の向こうのセミの声も、気づけば先ほどよりも大人しくなっている。
窓元に下げられた風鈴がチリンと涼しげに鳴いて、雨の匂いを乗せた風が入り込んできた。


「夏が終わっちゃうね」


しみじみと思わずつぶやいたら、窓の向こうでヒグラシが夏を惜しむように声を上げた。