「ネウロ?」
キィ、と事務所のドアを開けてから、私は、きょろきょろと事務所の中を見渡した。
真正面にある黒皮の社長椅子は空になってて、事務所の中に魔人の姿が見えない。
いつもなら狭いこの事務所の中に入ったとたん、背が高くて存在感のある魔人が嫌でも視界に入る。
三秒間きょろきょろ辺りを見渡しても発見できないところをみると、また勝手にどこかに行っちゃったみたいだ。
人が、こうしてわざわざ授業を終えた瞬間に学校飛び出して、掃除をサボってまで早く来てあげる日にかぎって居ないんだから、嫌になる。私、馬鹿みたい。
壁から生えたあかねちゃんがパソコンのキーボードを叩くのを止めてマジックを握り、壁にあるホワイトボードに向かう。
『おかえりなさい ちょっと待ってて 紅茶いれるね』
「ありがとう、あかねちゃん」
ため息を吐いて、私はソファの後ろからソファの上に向かって鞄を放り投げた。
「……う、ぐ…っ」
うぐ?
今、何か聞き覚えのある声が聞こえたんだけど……
そーっとソファのほうに振り返る。ソファの上では、鳥頭の魔人が丸まって眠っていた。
よく見ると、魔人の上に、私の鞄。…げっ、ネウロ…寝てたんだ!
一瞬の間をおいてから、自分のしたことを後悔する。寝ている魔人を起こしたら、命の覚悟をしなきゃいけない。
私はひやひやしながら、静かに、ゆっくりと、鞄をネウロの上から引きずり下ろした。
だけど、魔人は起きることなく眠り続けてくれた。思わず安堵の息を吐く。
本当に寝てるよね?と不安になって、ソファの背もたれを、よじ登る様に身を乗り出してネウロの顔を見てみた。
その瞬間ごろりと寝返りを打って、ネウロは仰向けになった。すーすーと一定のリズムで呼吸をし、胸を上下させている。
普段から着ているスーツのボタンの半分をはずし、スカーフを外して手に握っている。
ジャケットの裾からベストが顔を出している。じっと私が見ていると、黒い手袋をはめた手がお腹をかきむしる。
「行くぞヤコ…謎は向こう…むにゃ」
寝言、言ってる。夢の中でも私を引っ張りまわしてるんだ。
夢の中で謎に向かって走っている最中なのか、涎を流して笑っている様子を見ると、なんだか無邪気な感じがして、子供っぽくて可愛い。
暴力と暴言さえなければネウロって可愛いのにな、と私は自然と目を細め口元を緩めた。
でも、それじゃ別人になっちゃうよね。
私はイタズラ心が芽生えて、そっとネウロの頭に触れた。くちばしの部分を撫でると、すべすべしていて気持ちがいい。
ネウロも撫でられることを不快に思わないのか、抵抗せず眠り続けている。だけどくすぐったいと思うのか、ちょっと顔をしかめてから寝返りをうって、再び横を向いて丸まった。
すると瞬く間に、鳥頭からいつもの頭に戻っていた。
クスクスと声を殺して笑う。いつも透かした顔しかしないネウロが、子供のような無垢な顔で、涎を流しながら眠っている。
私はちょっと退いた右手を、再びネウロの頭に伸ばす。
白い肌、整った顔立ち、サラリとした髪。どれをとっても人間とまったく違う性質をしているのは一目瞭然。だけど、綺麗。
そっとネウロの頬に手の甲を当ててみた。つるりとした肌の上で、私の手は重力に促されて滑り落ちた。
悔しいくらいに綺麗な肌をしている。ネウロのくせに。
手入れなんてしてないのに、何でこんなにキメが細かいんだろう。
少しムッとしながら、ほほを指でつついてみた。
全然起きないな、とビックリしつつ、だんだん楽しくなってくる。今度はネウロの髪へと伸ばす。サラリとして、指ですいても絡まることはない。
つむじから毛先への、黄から緑のグラデーションが綺麗。髪は思ったより柔らかくて、艶々してる。
髪留めも、触ってみると艶々してて、冷たいことが分かる。
ちょっと撫ぜて、引っ張ってみる。反応なし。
ちょっとちょっと、こんなに無防備でいいの?と心配になるけど、起きられても困る。
いつもだったら、このまま暴力か暴言か、何かしら酷いことをしてくるのに…
だけど、こんな楽しいことができるのは、もうないと思う。
私はネウロの頭から手を離して、ソファの周りをぐるっと回って、ネウロの顔を更にまじまじと見てみた。
私とネウロの距離は三十センチもなくって、魔人の呼吸を肌で感じられた。
やっぱり寝てるなぁ、疲れてるのかなぁ、と首をかしげていると、魔人はもう一回寝返りをうって背中を向けた。
普段は見えない、白いうなじが目の前にある。私は、ニヤッと笑ってネウロのうなじを右手の人差し指で、すっと撫ぜてみた。
にゅっとネウロの右手が伸びてきて、うなじをかきむしった。だけど、目を覚ます気配ゼロ。
私は声をかみ殺して、必死に唇を結んで、肩で笑う。楽しい。
広い背中が私の目の前にある。いつも見上げてばっかのネウロの首元が、目と鼻の先にある。なんだか変な感じ。
本当の本当に、すぐ起きないかどうかを確かめるために、私はネウロのわき腹をくすぐってみた。反応なし。
私は目を丸くしつつ、無防備なネウロを目の前にして、なんとなくソファの余ったスペースに横になってみた。
ソファの上だから狭い。そんなの分かってる。
おでこをネウロの背中に押し当てて、息を思いっきり吸い込む。魔人のにおいがする。
私、一体何してるんだろう、と自分に問いかけ、目を閉じる。
じっとしていたら答えなんてどうでも良くなってきて、気づいたら心臓がドキドキしてて、できれば、このままこうしていたいと思ってる自分に気づいた。
すっとネウロの腰に腕を回す。ぴったりと隙間のないように、私の体をネウロの背中にくっつけた。
目を閉じて、浅く呼吸を繰り返す。一定のリズムで聞こえる魔人の呼吸。
私の大騒ぎしている心臓とは違うテンポで聞こえてくる、魔人の鼓動。私とは違う魔人のにおい。
私とは違って引き締まっている、筋肉質の体。
全部、今、ちゃんと分かる。全部私と違うこと。全部、違うからこそ、愛しさを感じてること。
目の前に広がる魔人の背中は、広い。だけど腰はビックリするほど細い。
ネウロの消化器官とかって、私たち人間と一緒なのかなぁと疑問に思う。ネウロは、ネウロ自身が謎だらけ。
人間じゃない魔人で、人間を理解できずにいる、人間の生み出す謎が大好きな、ドS魔人。
私が知ってるのはそれだけ。だから私はこの魔人のことを、もっともっと知りたいと思うのかもしれない。
だから一緒に居たいと、こうしていたいと願うのかもしれない。
その代わりに、ネウロは私の心臓が今こうして大騒ぎしてる理由とか、今私がこんなことをしてる理由なんて分かろうとしないだろう。分かるわけもないだろう。ずっと私がこうしたいと思っていたいだなんて。
でも、分からないのは、仕方ないかもしれないって思ってる。だってここにいるのは、私が今寄り添っているのは、私たちと違う、れっきとした魔人なんだから。
心臓の音が、うるさい。思考が止まりそうになる。胸が熱くなる。魔人の体温は、心地が良すぎる。
ぎゅっと回した両腕に力を込める。
するとその両手を何かがつかんで、私を引き剥がし、ソファの上に仰向けに落とした。
思わず閉じた目を恐る恐るそーっと開けると、目の前にネウロの顔があった。
「……!」
冷や汗をかきながら何かを言おうとするけど、動揺して言葉にならない。
ネウロは私に影を落とし、安い蛍光灯の光を遮断する。
私の両耳の脇に肘をつき、私の両足をまたぐ様にしてソファに膝をつけている。
「…お、起きてたの?い、いつから…?」
「貴様が我輩の頬をつついていた頃だ」
なんにもなかったかのように、しれっと魔人は応えた。
「じゃ、じゃあ、寝たふりしてたんだ…やっぱり」
なかなか起きないから、変だと思ったんだ。やっぱり起きてたんだ、最初から。
…ってことは…私のしたこと、全部………!
かあっと顔が熱くなる。深い後悔が私の心を襲う。
「我輩を湯たんぽ代わりにするなど奴隷の分際で…」
ギリギリギリッとほっぺをつねられ、いたいいたいと叫びながら、私は必死にネウロの下からすり抜けた。
ひりひりする頬を撫でながら安堵の息を吐く。でも第二波は無く、何処と無く拍子抜けした。
てっきり何かひどいことをしてくるだろうと思っていたのに、何も無かったかのように立ち上がって社長椅子の方に座りなおしただけだった。
あれ、もしかしてネウロ…あんまり怒ってないのかな? それって…そんなに嫌じゃ無かったってこと?
…そんなわけないか。




私は欠伸を一つして、落ちるようにソファに腰を下ろした。