チク、チク、チク。ぐさり。

「あたっ」
思わず声が出た。針の刺さった跡から、ぷつりと赤い液体が滲み出てきた。これで4度目だ。
私は溜め息を吐いてソファーから立ち上がる。
たしか救急箱は棚の上に置いてあったハズだ。膝の上にあった作りかけの黒い衣装をテーブルの上に移す。
たたっと棚に駆け寄って、目一杯背伸びをして、やっと救急箱に手が届いた。
左腕で抱えるようにして右手でフタを持ち上げる。オレンジ色の箱の中身に右手をつっこんで掻きまわす。
だけどガラスのビンがカチャカチャ音を立てるだけで、絆創膏は姿を現してはくれなかった。
ちぇ、と唇を尖らせて救急箱を元あった場所へと戻した。
じんじんする指先をもう一度見ると、更に血が滲んで丸い玉を肌の上に作っていた。舌を出して僅かに舐めると、鉄くささと塩辛さが口の中に広がった。

「何を騒いでいるのだ虫ケラめ」

指をくわえたまま振り向くと、どかっと偉そうに社長椅子に座っている魔人の姿が目に映りこんだ。
「あんたには関係ないわよ。見て分からないの?」
私は口から指を離してネウロに向かってキッと睨みつけた。
「明日は10月31日、ハロウィンでしょ。仮装のために衣装作ってるの」
魔人はキョトンとした顔つきになった。そんな魔人を放って私は、もう一度針を手にした。
あとは、左胸のカボチャの飾りボタンを縫いつけるだけ。1ヵ月頑張って作った甲斐があった。ようやく指を刺す痛みから解放される…。
私は鼻歌混じりにボタンをつけ終えた。
「何を唸っているのだ?」
「うるっさいなぁ、唸ってるんじゃなくて鼻歌歌ってるだけだって!」
出来た衣装を広げると、真っ黒なワンピースにちゃんとなっていた。叶絵がデザインしてくれた魔女の衣装だ。
服はもちろん、帽子と靴も手作りにした。だから完成までに一ヶ月も掛かってしまった。
「いーでしょー♪私、ハロウィン大好きなんだー。“トリック・オア・トリート!”の一言でお菓子が沢山もらえるし…」
「ほぅ、TRICK OR TREAT…イタズラかお菓子か…ふむ、つまりは菓子のために脅すということか?」
「そんな脅しとかっ…大袈裟なものじゃないって!ただの決まり文句!真面目に直訳しないでよ」
私は思わず吹き出して咳き込みながら叫んだ。魔人は、ひょうひょうとした表情でいる。
「もしかして…ネウロ、ハロウィン知らないの…?」
魔人の反応はナシ。私は軽い溜め息を吐いた。
「子供が仮装して近所の家を回るの。家のドアをノックして家の人が出てきたら、“お菓子をくれなきゃイタズラするぞ”って言って、さぁどうする?って聞く時の決まり文句なの。TRICK OR TREAT!ってね」
魔人はフフンと笑ってみせた。
「ならば、いかにも菓子を持っていないやつを見つけ出せばイタズラしても良いということだな?」
そして静かに、私に歩み寄ってきた。嫌な予感がする。
魔人は私の目の前に立ち、私が手にしていた黒い魔女帽子を奪い取ると、満面の笑みを浮かべた。
「Trick or Treat?」
「へ?」
「菓子かイタズラか選ばせてやろう、と言っているのだ」
「そりゃお菓子に決まって…」
しまった、と思った。今日に限って、いつも鞄の中に常備しているキャンディを切らしてしまったんだった。
「あ…私…今……」
「菓子を持ってないのだな?」
「いや、あるよ!あるけど!」
キラキラ目を輝かせている魔人を見て、思わず嘘をつく。コイツのイタズラなんかイタズラどころじゃないに決まってる!
すると、ずずいっと皮の手袋をはめた手が目の前に突き出された。
「ならばその菓子をくれるのだろう?それとも、いたずらか?」
「……!!」
私は必死になって、ぐるぐると頭を回転させて言い訳を考える。でも何も思いつかない。だって物理的にお菓子がないのだから。
「…あ、私衣装も出来たし帰らなきゃー…」
立ち上がろうと、わざとらしく声を出す。でも私の肩には魔人の手。
その手が、ガシッと私を捕まえた。一瞬反射で体が強張ってから、おそるおそる出来る限りのスロウペースで振り返った。
魔人の笑顔は脅し以外の何物でもなかった。思わず顔の筋肉が引きつる。
「だから、ハロウィンは明日なんだってば!イタズラできるのも明日なの!」
「我輩が優しくわざわざ聞いてやったのに、お前は答えないというのか?…ほぅ、それなら…」
「イタズラで良いです!お菓子持ってないから私にはイタズラしか選べません!!」
「そうか、菓子を持ってないのか、豆腐め。じゃあ……」
「やめて!殺さないで!!」
魔人の手がピタッと止まった。更に笑顔に力が入れられた。
「何を案ずる?そこまで言うのなら、命の保障はしてやろう」
「命の保障って…半殺しまではするつもりでしょ!?明日のパーティーに行けなくなったら、どうしてくれるの!?」
「ワラジ虫の都合など知らんな…そんなにギャンギャン騒ぐな。そこまで騒ぐのならば、明日のパーティーとやらには行ける体のままで帰すことを保障すれば良いのだな?」
「体だけじゃなくて心の…精神状態も保障してよ!」
「ぐだぐだまだ何か騒ぐのか羽虫め」
シャッと伸びたネウロのツメが私の頬に向けられる。きらっと光が反射するのが分かった。
「……もう好きにすれば!」
私は覚悟を決めて肩に力を込め、ぐっと目を閉じた。
どう足掻いてももうコイツの口車から逃げられない。どうせ殴るか蹴るか投げられるか踏まれるかがオチなんだから、さっさと受けて明日に備えて回復した方が効率良い。
すると、私のあごに何かが触れて上を向けさせられた。そして……

「ほらみろ、命と体と心の保障はしてやっただろう?我輩に感謝しろ、虫ケラめ」
私は頭の中が真っ白になって思わず口を手で押さえた。
顔が火照って、心臓がバクバク暴れだす。
たった一瞬のその感触が、まだ残っている。まだ生々しくリアルに残っている。
「ん?どうしたワラジ虫、我輩のイタズラは最高だっただろう?それとも虫には理解できなかったか?言ったり動いたり何も反応できんのか?…つまらんやつだ」
楽しそうに笑う魔人とふと一瞬目が合った。
私は恥ずかしさに耐え切れなくなって、そのままドアに向かって走り出した。
バタンという大きな音も気にせずにドアを開閉して外に出る。
ガラス戸に背中をぴったりつけて、寄りかかる。
大きく浅く息を吐くと、全身から力が抜けるのが分かった。
荒くなった自分の息の熱さと体の熱さに、自分自身信じられない気持ちを感じる。

熱い息を吐く中で、ピリッと唇に痛みを感じた。

舌で唇をなぞると、切れて血が滲んでいた。血の味がする。
私の血の味。指からの味ではない。

アイツが――――――ネウロが噛んだんだ。

かぁっと顔がまた熱くなって私は座り込んだ。
印をつけていった……魔人は私に印をつけていった。
優しくもなくロマンチックでもない印のつけ方をしていった。
なんてことをあの魔人はしていったのだろう。
ガラス戸の向こうで魔人はきっとまだ私の事を笑っているだろう。

やられた。

これが私がアイツから受けた人生最悪…いや、最幸のイタズラになってしまった。