誰でも自分の母親を思い浮かべる時は、ある一定の思い出を脳内で再生する。
俺の記憶の中の母親の姿は、ほとんど同じ。無気力な顔でパソコン画面へ向かっている姿だ。
そんな母親でも俺の記憶の奥の方で、俺に優しく微笑んでいたことを覚えている。
ものすごく昔だから、俺の見た夢か過去の理想が混同してるかもしれない。でもそんなことは些細なこと。
小さいころ俺が遊んでいて怪我をしたら、母さんは笑って絆創膏を貼ってくれたんだ。子供騙しのまじないを囁いて、俺の頭を撫でて微笑みかけてくれた。
だから俺は母さんの笑顔が見たい時、わざと怪我をして母さんに報告してた。すると母さんは決まって笑ったんだ。また?って怪訝そうな顔をしてから、めったに見せない優しい顔で。
俺は味を占めて治りかけた傷口のかさぶたを何度も剥がしては、母さんに嘘をついた。すぐ分かる嘘だったのに、母さんは気づかないふりをして新しい絆創膏を貼ってくれた。
俺が覚えている優しい母親の姿は、それだけだ。
しかもそれさえ数年後には通用しなくなった。
母さんは俺への興味を一切残してくれなり、それまで一度も切らさず買い足しておいてくれた絆創膏も、いつしか俺が買うようになっていた。
それは次第に俺の日常へと変わっていき、最終的には、イライラすると何処かしらツメで引っ掻く癖だけが俺に残った。
小学校に入って、ますます両親の俺への関心は薄れていった。
いつだったか小学校に上がったばかりの頃に家族の絵を描く授業があった。俺は、俺の傷口に絆創膏を張って笑いかけてくれた時の母さんの笑顔を、頑張って一生懸命描いたんだ。クレヨンで描いた下手くそな絵だった。
その時の俺自身でさえあまり上手いとは思っていなかったから、酷かったと思う。
でも、上手いねと褒められなくとも、一生懸命頑張ったねとか、ありがとうとか言って喜んでもらいたかったんだ。
授業の中で、その時の担任にお世辞で褒められたから、もちろん母さんも喜ぶだろうと思ってた。
だから俺は一秒でも早く母さんに見て欲しくて、先生に無理言って家に持って帰ったんだ。
俺が帰ると、母さんも父さんも相変わらずパソコンの前に座っていた。
「母さん、俺ね、今日母さんの絵を描いたんだ!ねぇ、見て!」
だけど母さんは軽くあしらうだけだった。
俺が五回目に見て!と叫ぼうとした時、とうとう母さんは俺を睨んだ。
うるさい、と怒って叫ぶと、母さんは何も言わなくなってしまった。
もやもやとした気持ちが胸の中に膨れ上がってきて、無意識に俺は泣きそうになった目元を手で覆い隠して、目の前でネトゲを続ける母さんを見てた。何もなかったかのように振舞っている母さんを見てた俺は、だんだん、もやもやがイライラへと移り変わっていくのを感じた。
気づいたら目の前が真っ赤だった。
ふと手を下げると、その指先が真っ赤になっていた。
鮮やかに俺の血で真っ赤に染まっていた。
俺はその血で染まった指先を見せようと、笑って母さんに向けて両手を突き出した。
「見て、母さん、俺、怪我したんだ…!」
母さんは、すっと俺を横目で見てから、あらそぅと呟いて聞かなかった振りをした。
「母さん、ねぇ、聞いてよ。ほら、俺、血…ねぇ…見てってば…!!」
煩い!と母さんは大きな声を出した。
反射的に口を閉ざし、俺は口を閉ざした。
それ以後、俺は怪我をしても母さんに報告しなくなった。
俺が初めてハッキングをした日、つまり両親が首をつった日。
その日、俺は家に帰る途中、これまでにないほど興奮してた。
あっちの世界がなくなったら母さんは、またあの日のように俺に笑いかけてくれる。
俺が怪我をしたって言ったら絆創膏をはって、子供騙しのまじないを囁いてくれる。
そう思ってたんだ。
走って家の前に着いて迷わず玄関のドアを開けた。
俺にとって最悪の結果が目の前に広がるなんて疑わずに開けたんだ。
現実を目の当たりにして、俺は母さんと父さんに駆け寄った。
何度声をかけても、何度ゆすっても、ただ母さんと父さんは揺れてるだけだった。
俺はパニックになって頭を掻きむしり、雄叫びを上げて泣き喚いた。
俺独りになった静かな部屋で、俺の泣き声が耳に痛かった。
四六時中聞いていたパソコンのキーを打つ音や、クリックの音さえしなくなった家の中で、俺の鳴き声だけが響き渡っていた。
俺の声を聞いて駆けつけた近隣の人たちによって、すぐさま警察がやってきた。
警察は俺を保護して、両親の死を自殺と間違いなく処理した。
憔悴しきった俺を、父さんの遠い親戚が引き取った。
親戚の家で特に酷い扱いも受けずに済んだ俺だったが、どうしても十一年間過ごした家とは異なる空間で落ち着くことなど不可能だった。
耳に染み付いたパソコンの動作する電子音もキーを打つ音も聞こえない空間の中で眠ることに、真っ先に耳が悲鳴を上げた。静か過ぎる空間の中では、俺は常に落ち着きを持てなかった。
夜布団に潜って独りになって、自分の心の中にぽっかりとした隙間があるのに気づくのが嫌だった。
目を閉じると揺れる両親の姿が瞼に焼き付いていて、まるで俺の汚い部分を延々と責めているように映った。
ある夏の眠れない夜、俺は無意識に頭をツメで掻きむしっていた。
ガリガリと掻きむしっているうちに、痛みで気が紛れ、滲んだ血で染まった指先を見つめては興奮した。
痛みと興奮と空虚感が最高値を迎えると、感情の高ぶりを抑えられずに泣いた。
布団の中で声を押し殺し、泣きつかれるまで泣いてようやく眠った。
眠れない夜、俺はいつもそうやって眠りについた。
だから朝気づけば布団も枕も血で汚れていて、俺はその汚れを見るたびに自分のしたことを後悔した。
親戚の家での俺の居場所は、結局作れずじまいだった。
それから数年して、布団の中で頭を掻きむしる回数は自然と少なくなった。
けれど時として、無性にイライラしたり落ち着かなくなることがあって、そんな時必ずと言っていいほど、俺は無意識に頭を掻きむしる。
掻きむしることで次第に感覚が鈍り、感情の高ぶりに任せていると、疲れきって眠れるようになる。
警察に引き抜かれてから始めた独り暮らしによって、誰かの目を気にする必要はなくなったけど、やっぱり汚れた布団を見ると沈んだ気持ちになった。
時には両親の夢を見て目覚めて、頭を掻きむしってしまう。
両親の記憶を夢に見ると、寝付こうとして目を閉じた瞬間に、嫌な思い出ばかりが浮かんでは頭にこびりついて離れなくなる。
自然と心臓が高鳴って息が荒くなって苦しくてたまらなくなる。
その思い出をこそぎ落とすかのように、俺は頭を引っ掻く。
そうしていれば朝までには、もう一度寝付くことが出来る。
けれど、どんなに掻きむしったところで寝つけられない時すらある。
そんな時、いくら自分の血を見たとしても、心の中がぐらついて不安がとめどなく俺を侵食する。
どうにもならなくなった俺は携帯電話を手にして、桂木に電話をかける。
何故だか自分でも分からないくらい怯えた状態で、電話をかけているんだ。
プルルル………プッ
「匪口さん、どうしたの?」
桂木の声を聞くと、何だか母さんが笑っている時を思い出す。
「…眠れないの?嫌な夢、見たんだね」
どうして桂木って、こうも察しがいいんだろうって心の底から思う。
眠そうな声なのに、いつだって文句は言わない。言っても桂木は冗談で済ましてくれる。
「ごめん…。桂木の声、聞きたくてさ」
くすくすって桂木は少し照れくさそうに笑う。
「もー、しょうがないなぁ…」
「ほんと、ごめん。…桂木」
「はい?」
「俺、桂木の声を聞くと胸が温かくなるんだよ」
「匪口さんって見た目と違って寂しがりや。でも、良いよ。
寂しがりやな匪口さんも、生意気な匪口さんも、カッコいい匪口さんも、全部私は好きだから」
「…ありがと」
「どういたしまして。じゃあ、私、匪口さんが眠るまで、一緒に起きてる」
「…本当に何で桂木って、そんなにカッコいいんだよ?」
「匪口さんには負けちゃうよ」
「どうも」
電話口で、くすくすと桂木が笑ってる。俺もつられて口の端がにやけた。
「あ、匪口さん、ちょっと元気出たみたい。良かった」
「桂木のおかげだよ」
「私が出来ることなら何でもするよ。匪口さんが眠れない夜は、こうして私がずっと一緒にいるからね」
俺は桂木の言葉に涙が滲んだ。
「桂木って、やっぱり母さんみたいだよ」
電話の向こうで、どういう意味かと慌てる桂木の声に、俺は声を出して笑ってみせた。
俺が眠れない夜に桂木に電話する理由は、これなんだ。
桂木と一緒なら、いつか、血も涙も出さずに毎日眠れるようになれる気がする。
馬鹿馬鹿しい願いかもしれないけど、そう心から思うんだ。