午後五時半を迎えて、私は事務所を後にした。

コンクリ打ちっぱなしの階段を急いで下ると、ケータイがポケットの中で震えるのが分かった。
足を止めてケータイを開くと、メールの差出人は匪口さんだった。
慌ててメールを開けると、「桂木、今どこにいる?」という明るい文面が目に飛び込んできた。
私はドキドキしながら
『事務所から学校に行くつもりです。今日はハロウィンパーティーが学校であるんです♪』
と立ち止まって返信した。
すると今度は電話がかかってきた。画面には匪口さんの名前が表示されている。
息つく間もなく、私は通話ボタンを押していた。
「はっ、はいもしもし!」
「あー、もしもし?桂木、だよな?」
「えっ、ええっ!匪口さん、どうしたんですか?」
「いや、ちょっと…桂木に話があって」
え?と思ったとき、階段の下のほうから静かに近づいてくる足音が聞こえ始めた。だんだん音が大きくなってくる。
「ちょっと待っててくれっかな?すぐにそっちに行くから」
匪口さんの声が一瞬途切れて、カンカンと数歩の足音がした。足音は、目の前で止まった。
「よっ」
ケータイ片手に微笑む匪口さんが目の前に立っている。
「どどっ、どうしてココが!?」
「ネットのホームページ見て調べたら、簡単だったぜ?」
「あ……あのホームページ、見たんですか…」
「まぁな。桂木の名前で検索したら、すぐ見つかったし」
「私の名前を、ネットで検索したんですか。どうして?」
「あ…いや、まぁちょっと事情があって」
パタン、と匪口さんはケータイを閉じた。
「そういえば、私に話って、何ですか?」
匪口さんは私の目を一瞬見てから、口ごもった。
「いや、あのさ、今日は10月…31日だよな?」
「ええ、ハロウィンですよ。私、今夜のパーティーで魔女の仮装するんです」
「だよな。あのさ、今夜笛吹さん主催でホームパーティーすることになってさ。桂木も来ないかなーって思ってたんだけど…なんか桂木忙しそうだな」
「学校の行事なんで、その…半強制的なんです。ごめんなさい。私のほうも匪口さんを誘ってパーティーに行きたかったんですけど、匪口さんも予定が埋まってたんですね…残念」
「え?誘ってくれんの?学校の行事に俺みたいなのが行っても良いの?」
匪口さんの顔がぱぁっと明るくなったのを見て、私の胸もホッとした。
「皆、他校の友達とか勝手につれてきちゃうんで先生たちも黙認してくれるんです。それで、友だちは彼氏とか連れてきたりして、ちょっと寂しくて羨ましいんです」
「それって、どういう意味?」
「あっ、いいえ、気にしないでください。ただの独り言なんで!……でも、今年は本当に残念。来年は参加してくださいね!」
私はわざと語尾を強めて笑った。すると匪口さんが私の頭をポン、と叩いた。
「まかしといて」
にこっと笑った顔にドキッとした。匪口さんって、本当に時々私を戸惑わせる。
匪口さんは、閉じたばっかりのケータイをもう一回開いた。
プッシュ音が何回か鳴り、プルル…とダイヤル音がもれるのが聞こえた。

がちゃり。

「もしもーし?」
『遅い!!!もう準備出来てるぞ馬鹿者!』
電話の向こうからの怒鳴り声が漏れ出してくる。この口調は…笛吹さんだ。
「そんなにギャンギャン騒がなくたって聞こえるよ。相変わらず血圧高いなぁー」
クスクス無邪気に匪口さんは笑う。
『時間を守らんやつは誰だ!』
「あ、そうそう今夜のパーティーのことだけどさー。俺、優先するべき急用が出来たから」
『何だと!?謝ることさえしないのか!!パイはお前のせいで冷え始めているぞ!!』
「ごめんごめん、あ、俺忙しいから、んじゃ」
『おい、こら待て!!!!』

ぷつっ

「つーことで、俺そっちのパーティーに行くわ」
匪口さんのケータイは、パタンと気持ち良い音を立てて閉じられた。
「え…いいんですか?」
「いーのいーの。俺が優先するって決めたことだから。で、何か必要なものとかってある?」
「仮装パーティーなんで、衣装だけあれば大丈夫です」
「衣装かぁ…準備してないしなぁ」
私はハッと思い出して、自分の鞄の中から黒い布を引っ張り出した。
魔女の衣装のマント部分だ。
「これを羽織って髪をいじれば、吸血鬼ってことで誤魔化せられますよ。匪口さんに吸血鬼の仮装、ぴったりだと思います」
「なるほど。桂木サンキュ」
私は無邪気な匪口さんを見てふふ、と思わず笑ってしまった。吸血鬼の仮装をする匪口さんを想像すると、なんだかワクワクする。
「じゃあ、準備も整ったってことで」
「行きましょうか」
匪口さんが歩き始めたのを見て、私もすぐに歩き出す。
「匪口さんが仮装するところ、見てみたいって思ってたんです。今日のパーティー、匪口さんのおかげで楽しめそうです」
「俺も桂木の魔女の仮装するとこ見てみたくてウズウズしてるよ。それで、学校で皆で仮装して、何すんの?」
「大体、普通のパーティーと変わんないんだけど、やっぱりハロウィンってことで、トリック・オア・トリートの掛け声でお菓子を交換するらしいです。だから私もキャンディを持って行きます」
「へぇ、Trick or Treat…お菓子か、イタズラか、かぁ…」
「ハロウィンっていったらトリック・オア・トリート!その言葉一個でお菓子が沢山もらえるんですから」
「桂木らしいな」
はは、と笑う匪口さんにつられて、照れつつ、あははと笑った。
「でも…」
「でも?」
突然匪口さんの笑顔が変わった。
何か企んでそうな、いたずらっ子の笑顔。
「俺、桂木にだったらイタズラされても構わないな」
一瞬進め続けていた足が戸惑って、転びそうになった。
「お菓子くれないんですか?」
「これ以上桂木に糖分与え続けたら、桂木の寿命縮めそうだし」
「縮まりませんよー、怪我とか病気とか中々しないんですよ、私」
「へぇ、そりゃ良いことだね。それに、桂木のイタズラなんて、本当にただのイタズラだろうから、全然怖くないだろうしなぁ」
「それは…だって、ハロウィンの決まり文句ってだけで、本気でイタズラするワケがないじゃないですか」
「やっぱり。桂木はそんな風に考えてると思ってたよ」
へへ、と笑う匪口さんの顔を見て、複雑な気分が胸の中に広がった。

なんだか悔しい…

私は口を閉ざして下を向いた。
すると、それから数分で学校の門に着いた。
その瞬間、ある恥ずかしいことを思いついた自分に、唇を噛んで、立ち止まる。
「ん?どうした?」
匪口さんも足を止めた。私は、匪口さんに向かって顔を上げた。
「Trick or Treat?」
一瞬きょとん、とした顔をしてから匪口さんは、くすっと笑った。
「俺、菓子持ってないって。だから、イタズラしてみれば?」
「本当に良いんですか?」
「全然構わないけど?俺のこと、桂木の好きにしてみれば?」
どきっと心臓が跳ね上がる。
「じゃっ、じゃあ…」
私はぐいっと匪口さんの服の裾をつまんで門の影に隠れる。
浅い呼吸を二三回繰り返してから、匪口さんの服の袖を掴みなおし、ぐいっと引っ張る。
近づいてきた耳たぶを、ぺろっと一瞬舌でなぞった。
驚いた表情を見せて、匪口さんは手で耳を押さえた。

「ちょっとは…どきっとしましたか?」
自分のしたことの恥ずかしさに、顔が火照る。照れ隠しに笑うことしかできない。
すると匪口さんが私の手首を強く引っ張った。
バランスが崩れて、倒れそうになると思ったら、匪口さんの体に支えられた。
かと思ったら、匪口さんの腕が背中に回され、そして強く力が込められた。
自覚した瞬間、心臓がバクバク騒ぎ出す。
強く押し付けられる匪口さんの体から伝わる体温と心臓の音に、私の心臓が反応する。
「あ、の…!」
「ごめん、桂木のイタズラ、甘く見てた。………もうちょっと、こんままいても良い?」
匪口さんの震える声に、私は熱い息を吐いた。
「…はい」


そのまま騒ぐ心臓をなだめていたけど、目に焼き映った匪口さんの真っ赤な顔のせいで、なかなか鎮まることはなかった。