夕暮れの入り込む自室で匪口は一人壁に身をもたれさせ、部屋の隅に座り込む。
掲げた自らの指先をぼんやりとした思考で見上げ、あたりに漂うむせかえるような血の香りに目を細める。
いつからこうして自らの指先を染めるようになったのか。
思い返すことができそうで出来ぬ記憶の中ですれ違うのは、はるか昔に別れを告げた両親の影。
仮想世界へ向かってしまった二人の姿は丸められた細い背中ばかりだ。
溶け出したまっかな太陽の光はあたりをセピア色に染めていく。何もかもがうすぼんやりと輪郭を失っていく。
爪の間に入り込んだ血液が時とともに色あせていくのを見て、何とも言い難い喪失感が匪口の胸を覆った。
皮膚から伝わり脳細胞へ痺れを広げた痛みは徐々に治まりを見せていく。
この世界で永遠に存在するものなど何一つないのだ。匪口は胸の中で何度も繰り返した自論を蘇らせた。
彼の両親も彼の日常も全て今やどこにも存在などしていないからであろう。
今の彼にあるのは仕事と日常と非日常の境界線上であるかのような日常とその延長線上にある今日という時間だけだ。
彼にとって仕事場も、そこで出会った人々もいつかは消えてしまう儚いものでしかない。
その価値も失った時の感情も知り過ぎている彼にとっては、むしろ無意味なものでしかない。
なぜなら彼自身も一分一秒の後に死んでしまう可能性がゼロだとは言い切れないからだ。

しかし彼にはただ一度、その自論の絶対性を疑ったことがあった。

かつて栗色の髪を揺らした少女は彼の手を握り、涙を溜めたその瞳でいつか消えてしまう彼の世界と彼の存在を認めた。
そしてぐっとそのか細い両腕で彼を抱きしめてくれた。
その時、その一瞬だけ彼の胸の中に彼がはるか昔に失くしてしまった懐かしい感覚が蘇った。
二度と蘇ることはないと信じていたその温かな感覚が。
どこにも存在などしていないと思っていた感情が彼女の胸の中にだけ存在することを彼は知った。
彼はそれから何度も彼女の腕の中に安らぎを求めるようになる。だがそれも長続きはしなかった。
彼女の持つ安らぎすら永遠ではない。そのときが来れば誰が止めようと容赦なく消えてしまうのだ。
そのとき自分はどうなってしまうのか。そう考え始めた途端、彼の頭はいっぱいになってしまった。
彼女と会うことで抑制された自傷行為はこの頃から激しさを増した。
彼女の胸で精神の安定を取り戻す度に依存している自分の存在を見せつけられる。
彼女なしでは生きていけなくなっていることへの恐怖。彼女の持つ温もりへの恐怖。
彼女に嫌われるくらいなら自分から嫌われようと振舞ってみた(彼の世界には矛盾など存在しない)が彼の行為に彼女は悲しげな顔をするばかりで怯む様子など一度も見せなかった。
彼女が気高さを見せる度、彼にはその姿が咲き誇る花のように感じられた。美しい花ほどすぐに散ってしまう。咲き乱れる花はいつか枯れてしまうのだ。

あぁ、と嘆息して固まりきった血液を見つめる。いつからこの指先に血の臭いがこびりつくようになったのだろうか。
体温を失って冷え切った指先にかすかな感覚の名残を見つけだす。彼女の皮膚を裂いたその感触。
掻きむしる彼の姿を見かねて近付いた彼女に振りおろした、その一瞬の動きがひとすじの傷を彼女の頬に生み出した。
彼女は一瞬顔を歪めたが、彼の目を見るなり精一杯の笑みを浮かべて見せた。
それはまるで私は大丈夫だから、と誰かに言い聞かせるように。
彼女の反応を受け止めた彼の心を強い絶望が襲った。
昨日の出来事の一部始終を思い返しつつ、匪口は何十回目の後悔を終えた。
おびえるようなあんな顔、見たことなんてなかった。桂木にそんな思いをさせてしまったのは俺のせいだ。
桂木は今までと同じようにまた俺に会おうとするだろう。
しかしどんなに明るく笑ってなかったことにしようとしたって、その頬には昨日の傷がまだ残っているんだ。
それを見ないふりをして笑うことなんて俺にはできない。
今となっては桂木と笑っていたあの時間が幻のようで現実だっとは思えない。
本当の俺を見たその目は何を感じていたんだろうか。今となってはどうでもいいことなのかもしれない。
窓の向こうの夜空を見上げため息をこぼすなり、再びその指先を頭蓋の皮膚に運ぶ。
一定のリズムで爪を立てて掻き毟る。潤いのある血のにおいが鼻につく。
脳裏を駆け巡るのは両親の姿。温もりを持つ少女。少女の傷。無理に微笑んだその笑顔。痛む心の臓。血の臭いが更に濃くなる。

「匪口さん」

ふと前触れもなくその左手を誰かに制止される。優しく微笑む少女の手であった。
「桂木……いつからここに?」
少女は照れたように手を離す。
「あ、今です今、さっき、その、玄関の鍵が開いていたので」
「呼んでもいないのに勝手に入ってきたわけ?」
返答を濁すように笑うその頬にはかさぶたになった引っかき傷が残っている。匪口は眉をひそめる。
「それで、何しに来たわけ?」
「謝ろうと思って」
思いがけない少女の返答に、匪口は一瞬あっけにとられる。
「意味、わかんないんだけど……このタイミングで謝るの、俺の方であって桂木じゃあ……」
信じられない、という様子で少女は驚きの表情を浮かべる。
「何で匪口さんが謝るんですか?私、ただ昨日匪口さんを傷つけてしまったことを謝りたくて」
「だから、何で桂木が加害者になってるんだよ」
少女は少し首を傾げた。
「いや、だって……その傷」
「匪口さんってば、大げさですね。こんな傷、すぐなくなっちゃいますよ」
「今はそれぐらいの傷で済んだからそうやって笑っていられるけど、そうじゃなくて、俺といるかぎり桂木をもっと傷つけるかもしれないだろ。
別に桂木は自分は大丈夫だとか思い込んでるかもしれないけど桂木を壊したくないんだよ。
桂木を壊す自分を見るくらいならいっそ独りでいたいって思うのは普通の思考だろ、この世に永遠に壊れないものなんてないんだからさ……。
だから桂木、もう俺に関わらないでくれよ。壊れて変わっていく桂木も、桂木を壊してしまう自分も見たくないんだよ」
自然と彼の右手は再びその頭の皮膚を掻きむしり続けていた。
少女は彼の手をとると、ゆっくりと自分の胸元に引き寄せた。
「私は壊れないし、たとえ壊れても、それは昨日までの私ですよ。
匪口さんを受け入れる私になるために壊れた、昨日までの私なんです」
そっと両目を閉ざし、愛しさを抱くように微笑むとその手を強く握った。
「だから今までよりも、もっと匪口さんのことを理解できる私になるためには大事なことで、匪口さんの弱いところを知る度に私は嬉しくて仕方ないんです」
言いきると同時にパッと目を見開き、喜ぶなんて不謹慎ですけどね、と訂正する。
その様子に匪口は一本取られたという様子で苦笑する。脱力に任せてその細い肩にもたれかかる。

「桂木、そんなの反則だろ」