待ち合わせ時間に余裕で間に合うように乗った地下鉄から地上へ出ると、そこは快晴と告げた天気予報を裏切る見事な雨模様だった。あちゃー、と降りしきる雨粒に顔をしかめ、そっと屋根のない空の下へ手を伸ばしてみる。
白い皮膚の上を雨粒がたたく。自分でも頼りなく見える袖から伸びた腕はあっという間にしっとり濡れてしまった。
今日は7月7日、最近じゃ珍しく雨の心配のない七夕の晩だと聞いて、やっとのことで桂木を夜景デートに誘ったっていうのに。これじゃ夜景も何も楽しめない。
見れば街行く人の頭上には傘が開かれていて、誰しも濡れずに足早に歩いている。
なんだよ俺だけか、と一人ごちているとポケットに入れていたケータイが震えた。
手に取るとそれは待ち合わせ相手である桂木からの着信で、俺は慌てて通話ボタンを押す。
「もしもし」
「もしもし、匪口さん?今どこですか?」
時計を見れば、待ち合わせ時間にはまだ少し早い。
「あー、今地下鉄の駅から出たとこなんだけどさ、ちょうど雨で足止めくらってて」
電話口では、くすっという笑い声。
「奇遇ですね。私もちょっと今雨宿りしてるとこで、間に合わなさそうだなーと思って電話したんです」
こういう状況を奇遇と言うんだっけか、と一瞬考えたが目をつぶることにした。
「桂木、今どこにいんの?」
桂木の答えを聞いてみれば、待ち合わせ場所に対して此処とちょうど反対側にある地下鉄の駅にいるとのことだった。
「この雨じゃ、また今年も会えませんね」
「今年も、って?」
「織姫と彦星。だって匪口さん、今日は七夕ですよ?」
そっか、あんたらも会えるはずだったのにこの雨じゃ気の毒だね。そう思いながら曇天の空を仰いだ。
すると電話の向こうで、桂木が「あ」と短く言ったかと思うと、こう続けた。
「なんだか今日の私と匪口さんって織姫と彦星みたいですね」
それはつまり、今日はもう会えないかもしれないってこと?
そう聴きそうになった口をとっさに閉ざし、俺は電話口に向かって
「桂木、ちょっとそこで待ってて」
と叫ぶなり通話を切ったケータイをズボンのポッケにつっこんで屋根の向こうへと駆け出した。



走り続けて10分が立ったころ、ようやくその見覚えのある小さな地下鉄の入り口の屋根が目に入った。
雨はさらに激しさを増して、すでに全身はぐっしょりと濡れてしまった。
ズボンの裾は色を変え、ずっしりと重みをもっている。
ぼたぼたと前髪から滴った雨水が目の中に滲み入る。
苦しさから自然と開く唇を必死にかみしめ、ようやく俺はその屋根の下へと駆け込んだ。
「あ、匪口さん…!!」
まさか、という顔をして柱の陰に立っていた桂木が俺に駆け寄る。
ぜぇぜぇと肩を動かしながら、俺は一分一秒でも早く声を発せるように息を整える。
あぁ苦しい、と息を吐き切る。肌の上を覆う水の膜が水の玉になって走っていく。
「別に、俺は…彦星じゃない、からさ…」
なんとか聞き取ってくれるだろう、と祈るような気持ちになりつつ息苦しさで目を閉ざす。
自分の呼吸の音にいら立ちを覚えながら桂木を見ると、タオル片手に心配そうな顔で俺を見ていた。
「だから、雨くらいで桂木に会えないなんて納得できない、そう思って気づいたら、走ってた」
たどたどしく紡いだ言葉に、桂木は困ったように笑う。
右手に握っているタオルを俺の髪にそっと当てては、静かにその水分を拭った。
桂木の優しさに照れくささを感じつつも大人しくじっとしていると、桂木のもう片方の手に小さな紙とペンが握られているのが目に映った。
「それ、なに?」
あぁ、と思い出したような顔で、ほら、とその白い指で改札の方を差し示す。
そこには改札わきの柱にくくられた大きな笹の枝が垂れさがっていた。
赤、青、黄色の色とりどりな短冊が入り込んできた雨風にそよそよと揺れている。
そうか、そういえば今日はこういうことをする日だったな、と今さら思いだす。
桂木の手の中を覗き込みながら
「なんてお願いした?」
と尋ねたら、桂木は恥ずかしがりながらもそっと見せてくれた。

『大切な人と、ずっと一緒にいれますように 弥子』

思わず顔がにやけるのが分かった。
桂木は真っ赤になった顔を誤魔化すように、慌てて口を開いた。
「あ、匪口さんも短冊書きませんか?」
私取ってきますね、と背を向けようとしたその腕を引き留める。
「いいよ、桂木」
え?と目を丸くした桂木の手から短冊とペンを抜き取って、
「俺もおんなじだからさ」
俺はその短冊の端っこに自分の名前を書き添えてみせたのだった。