春の日差しの元、匪口さんの部屋のベランダに出る。
街を一望する高層マンションの一室。仕事で帰れない日が続くと私はこの部屋を訪れる。

「頼むよ桂木」
「またですか?…いいですけど」
というお決まりの流れで、帰って来れない匪口さんの代わりに私が家のことをする。
掃除、洗濯、ベットのシーツを替えて、余裕があればご飯を作って差し入れに行く。
このために匪口さんは私に合い鍵を渡した。
他に頼める人なんていないからさ、と軽く告げた。

夕暮れの気配を感じながら外界をベランダから眺めると気分が良い。
ぴぅ、とビルの間をすり抜けて上がってきた風に目をつぶると、隙有りといった様子で翻った洋服に頬をはたかれた。
お日さまのにおいのする匪口さんの服に手を伸ばし、一枚一枚丁寧に部屋の中へ取り込む。
最後の一枚に手を伸ばしてみると、どこから飛んできたのか数枚の木の葉がついていた。
物干し竿から下ろし、腕に抱えたまま手で払い、他にゴミはついていないかと広げてみる。
するといつも見ているはずの洋服がとても大きく思えた。
「匪口さんって、やっぱり男の人なんだ」
ベランダの窓を閉め、洗濯物の前に座る。
洗濯物を一つ一つ畳んでは、しみじみと考える。
どんなに細身でも、身につけてるものは私とは全然違う。身長も、目線も違う。
それはどんな風に世界が見えるのだろう。
私と一緒なのかもしれないし、全然別世界なのかもしれない。
匪口さんが好んで着ている服の両肩を掴んで、自分の丸い肩に当てる。
私よりワンサイズもツーサイズも大きい服。
布自体の重さもズシリとあって、これを身につけたら肩が凝ってしまうんじゃないかと心配に思う。
こんなに大きかったら、私なんてスッポリ入ってしまうんじゃないか。

そんな推測にたどり着いた脳みそは、気紛れにそれを実行してみた。

洋服の上から、匪口さんの服に腕を通す。すぽん、と私はその中に入り込んだ。
窮屈にはほど遠く、ちゃんと肩も上がる。
わぁ、と理由もなく気分が高揚してきて、立ち上がってみる。ちょっと長さの足りないワンピースみたいになった。
近くにあった姿見で自分を映す。いつもは匪口さんの体を包んでいる洋服が、今は私を包んでいる。
とっても変な感じだ。
裾をたるませて髪をくしゃっといじると、ますます匪口さんのスタイルに似てくる。
何だか楽しくなってきた私は、そうだ匪口さんの眼鏡のスペアがあったっけと思い出して、棚に仕舞ってあった眼鏡を取り出した。
そっと掛けてみると、レンズ越しの景色にくらり、とめまいを起こした。
顔をしかめて、視界から眼鏡をずらす。
前髪を少し掻き分けて、おでこに眼鏡を乗せる。私のおでこの形に合わないのか、眼鏡はずるずる落ちてきてしまうから、仕方なく頭の上に移動させる。
もう一度姿見の前にやってきて、匪口さんの立ち方を真似してみる。

なんか雰囲気が出てきたかもしれない。

ふふっと笑うと、目の端で真っ赤な夕焼けが燃えていた。
その格好のままベランダの窓をカラリと開けると、ついさっきとは全然違う冷たい風が入り込んできた。
そっとベランダに出れば、街を彩るデコレーションのように夕空が広がっていた。
匪口さんは、いつもこうしてここから空を見ているのかもしれない。
いや、今私が見ている景色とはちょっとズレているはずだ。
だって匪口さんの目線の方が高い位置にあるのだから。
私は精一杯背伸びをした。これくらいかな、と爪先に力を込めて静止する。
それは同じ景色のはずなのに、また少し違う顔をしていた。
ぐぐぐっ、と力んだ足先が限界に達して、私は仕方なくかかとを下ろした。
しびれる爪先が可哀相になって、私は仕方なく私の世界の夕焼けを眺めることにした。

ベランダの手すりにもたれかかり、少し寂しい気持ちをなだめるようにつぶやいた。

匪口さんの見ている世界を知りたい。
ただそれだけなのに、それはとっても難しいことだなんて。
ただ、近づきたいだけなのに。
なのに神様はいつだって意地悪すぎる。