徹夜明けの仕事は“ナカ”にくる。

仮眠しか取っていない脳みそが休ませろとうるさい。
といっても手を止めるわけにもいかないのが現実だ。
俺は全身の体重をキーボードの脇に置いた肘にかけ、うつ伏せ一歩手前の体勢で、おざなりにキーボードを叩く。
しびれる両目をぐっと閉じてパッと開く。
脇目に映る白い書類の山にウンザリして、とうとうパタンと机上に倒れ込んだ。
もう無理、限界。これ以上やったら死んじゃうよ俺。限界突破セカンドステージはとっくに過ぎたし。
広げた書類と書類の間からのぞく机の表面はひんやりしてて、眠気で火照った体に心地良い。
瞼に力を込めて目を閉じると、瞼の裏で白い光が瞬いた。かなり疲れてる証拠だ。
手元に置いたはずのケータイを手探りでつかんで、いつものように着信履歴の一番上の番号をリダイヤルする。

コール音がして、元気な応答が帰ってきた。
「もしもし、匪口さん?どうしたんですか?」
疲労で押しつぶされた肺から必死に声を発する。
「かぁつらぎ〜」
「また徹夜ですか?」
「仕事だよ…まだ終わんないし。もう俺、無理」
電話口では愉快そうな笑い声がこぼれた。
「頑張って終わらせないと帰れないんじゃないですか?」
「そうだけど、今日はもう無理」
もう、と笑い声に呆れ気味の色が混じる。
「それで今お仕事サボってるんですか」
「俺もう充分働いたから」

鈍くなった思考をあまり使わないように俺は気を抜く。思いつくがままに通話を続ける。

「…桂木は今何してんの?」
「今学校から帰ってるところです」
「ふーん。じゃあ疲れきった俺のために何か差し入れしてくんない?ま、」
「いいですよ」
冗談だけど、と俺が言う前に桂木はサラリと答えた。
予想外の結果に、しびれていた脳が高速に動き始めた。
「え?良いわけ…?」
よろよろと机から顔を上げる。クラリ、と意識がふらつく。
「はい、何が良いですか?」
「え、じゃあ…クラッカー」
「わかりました!すぐ行くんで待ってて下さい」


プツン、ツー…ツー…ツー…


目を丸くしたまま俺はケータイを閉じた。
瞬きだけを何度かして、しおれるように再び机に突っ伏す。
そして通話の中の桂木の言葉を反芻しては、言葉にも表せない自問自答を繰り返し続けた。
真っ暗な思考の中で何分漂ったのか分からなくなってきてしばらくした頃、誰かにチョンチョン、と肩をつつかれた。
のそっと振り向いたら、クラッカーの入ったビニル袋を差し出して微笑む桂木が立っていた。
見慣れた制服姿から、通話の内容は本当だったらしい。
「匪口さん、お待たせしました!」
「あぁ、さんきゅ…」
どこか腑に落ちない感覚はあったが、とりあえず桂木の笑顔に免じて紙袋を受け取る。
そっと口を広げて中身をのぞけば、俺のリクエスト通りのクラッカーが詰まっていた。
「冗談のつもりだったのに…」
俺は桂木から顔を逸らして独りごちる。
桂木はくすくすと笑って、それを流した。
話題を変えようとモヤモヤしていると、歩み寄ってきた同僚が俺の肩に手を置いた。
「匪口、もうお前上がれ」
「えっ、俺まだ全部終わってないんだけど」
同僚のおっさんは良いから、と何度も繰り返した挙げ句こうまとめた。
「どうせ無理したってお前もう限界だろ。今日はもうサッサと上がって、明日早く来い」
非の打ち所もない、的確なコメントだった。
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「そうしろそうしろ。そのついでに女子高生探偵に癒されてくれば良いじゃないか」
あっはっは、とおっさんは豪快に笑って手を振りながら自分のデスクに戻っていった。
桂木とのことをからかわれたことは恥ずかしかったが、帰れるって話ならありがたい。
俺は職場全体に声を掛けながら、桂木と一緒に部署を出た。
むくんだ足の筋肉の痺れを取ろうと階段を下る。

「あ」

とん、と一段降りたとき桂木が声を上げた。
「何?何か忘れ物?」
振り返ると、桂木が珍しく含み笑いをしていた。
俺が足を止めたのを見計らって、桂木も隣に並ぶ。
そして右手を頭上にかざした。俺の頭と桂木の頭の間を何度か往復する。
「やっぱり」
わけのわからないまま、納得した様子で笑った桂木が、また一段上に登る。
「やっぱりって?」
「今、私と匪口さんの身長がちょうど入れ替わってるんです。へぇ、匪口さんってこんな風に私を見下ろしてたんだ」
どうやら、この階段一段分が俺と桂木の身長差分だと言いたいらしい。
優越感を抱いている桂木の安直さに俺はぷっと吹き出す。
「桂木って、そんなに俺を見下したいんだ?」
「いや、そういうつもりじゃ…ただ、新鮮な気持ちがして」
ふぅん、と思った俺はいたずら心から桂木の手首をつかんだ。
「せいぜい今だけちっさい俺を楽しめば?その分、俺もでっかい桂木を試してみるから」
そしてそっとキスをした。
いつもしている行為のはずなのに、上下が変わっただけで、また別の違う行為のように感じた。
ふと脳裏に浮かんだ言葉。
そっか、桂木はいつもこんな感じなのか。
頬を染めた桂木の顔を見て、照れ隠しに笑ってみせる。
「すぐ試してみた」
「どう、でした…?」
目を逸らすくせに、聞くところが桂木のよく分からないところだ。
俺はさっきの感覚を振り返ってみる。
そしてつかんだままだった手首をたぐり寄せた。
ストン、と隣に降りた桂木の頭を見れば、そこにはいつもの光景があった。
不安そうに見上げた桂木の表情に胸が掴まれる錯覚に陥る。
強い衝動にまかせてその細い肩をぐっと抱き寄せる。
「やっぱ、これが一番かな」
俺の答えに、桂木はそっとはにかんで「私も」と答えてくれた。

桂木の目線に立って気づいたこと。
桂木はどこにいたって、可愛くて仕方ないということ。
そしてそんなことは俺はもうとっくに知っていた、ということも。