最近通い始めた喫茶店でコーヒーを一杯頼んで、あのチビ眼鏡が山ほど積んでみせた仕事を、職場から借りてきたノートパソコンで片っ端から片付けていたら、ドアに取り付けられている鐘がカランと鳴った。

耳に浮くようなクラシックのメロディを遮って店の中に入って来たのは桂木だった。
よー桂木、なんて声をかけたら、こんなところで会うなんて偶然ですねーと無邪気な笑顔を返された。
どうやら今日も独りで紅茶を飲みに来たようで、ココ良いですかと俺の目の前の椅子を指し示した。
別に、とそっけなく返事をしてパソコン画面に目線を戻すと、ありがとうと嬉しそうに桂木が椅子を引く。
最近桂木はテストが近いからか、毎日といって良いほど学校帰りにこの店でテスト勉強をしている。
この店は『一杯でも頼んだ飲み物なら無料でお代わり自由』がウリだ。桂木が目をつけないわけが無い。店側は経営難を起こしているとは思うが、桂木にとってはそんなの他人事だ。それをウリにこの街で店を開いた方が悪いってだけだ。
桂木は毎日、一杯のレモンティーの代金で、五十杯ほど飲み干して帰る。
テスト勉強が進んでいるかは俺の知る限りじゃないが、とりあえず毎日必死に参考書を開いて頭を抱えているようだ。
俺と桂木は会話という会話を交わすことなく、黙々と仕事を進めていく。
店内には再びクラシックの音色が響き渡り始めて、静かになる。この店は煩い客が滅多に現れないから俺は気に入っている。桂木もソレを知ってか、珍しく集中している様子を見せる。
そうして今日も、店の中の柱時計が六時を告げた。
桂木は、いつだって六時でこの店を出て行く。

それじゃあ匪口さんさようなら、と手早く片づけをして立ち上がった桂木は微笑んだ。
あぁ、と顔を上げたら桂木はそっと告げた。
「本当に、匪口さんと一緒だと勉強も頑張れる気がするんで不思議です」
照れた桂木の顔に、俺の心がぐらりと揺れた。
桂木、それってどんな意味か分かって言ってんの?
「明日は、分からないところがあったら教えてくださいね。それじゃ」
くるっと振り向いてから軽やかな足取りで、桂木は店の外へと出て行った。

心臓がバクつく。笑った桂木の顔が目に焼きついている。
桂木は気づいているんだろうか?それとも気づいてなくて素であんなこと言ってるのか?
そうだとしたらそんなの、まるで桂木が俺のことを好きみたいじゃんか。
いや、気づいてて言ってるなら、もっとタチが悪い。
桂木が気づいているとしたら、俺はどんなに滑稽に見えているんだろうか。
毎日俺がココにいる理由、それは桂木に会うため。気づかれたら俺はただの間抜け。
だけど気づいて欲しい気持ちもあるバカでもある。
桂木は気づいたらどんな反応を見せるんだろう。迷惑そうにするのか、それとも喜んで微笑むのか。
コーヒー一杯の代金は、俺にとっては桂木と過ごすこの時間への代金。
きっと明日も俺はこの代金を支払うんだろう。

真剣な桂木の表情を独り占めしたいがために。