駅前の広場には、陽炎が立っていた。ロータリーの端に設置されている細長い電光掲示板には、見慣れない大きな数字が定期的に点滅しては、その数の異常さを静かに訴え続けていた。行き交う人々の流れと、その数字を、どこか他人事のような気持ちで眺めていると、頭上に広がる梢の隙間から足元に向け、強い光が刺すように零れ落ちていた。真夏の太陽の日差しは、木々の隙間をすり抜け、小さく砕かれ細かくなったぐらいでは、その勢いを失うことはなさそうだった。腰かけたベンチの上、黒く覆った木々の枝葉の隙間を抜け、濃い影ですら切り裂くほどの威力で、足元のコンクリートへと突き刺さっていた。
 温く生温かい夏の湿った空気は、風とも呼べない静かさで、駅前の熱せられたコンクリートの風味を含みながら、ベンチの上の自分の顔の傍、首元に向かって運ばれてくる。くらりとゆるく揺れる頭の中、遠く、意識と共に離れていく暑さの実感に、今なぜ自分がこうして、駅前のベンチに一人腰かけているのか、理由と共に現実感さえも溶けて、遠く、遠くへ離れていってしまいそうになる。
「お待たせ」
 肩越しに聞き覚えのある男の声が届けられ、気だるく鈍った脳みそで反応をした。振り返ろうと捻りかけた首元へ、ひやっ、と刺すような冷たさが触れ、押し付けられてくる。
「どう? 気持ちいい?」
 ようやく振り返った視線の先、視界に映り込んできたのは、いつもの見慣れた山口の笑顔だった。こちらに右手を向け、どこか心配を喉に飲み込むように、気遣いの様子を滲ませている、その笑い方に、そうか、と離れていた現実感が一気に引き戻されていく。駅前で待ち合わせていたところを、山口と合流した瞬間、目がくらんでふらついた、その時の身体の感覚が再現のように蘇ってくる。
「まぁ、さっきよりは、マシ、かな」
 脱力に似た感覚で微笑むと、ホッとした様子の山口が、一度伸ばして引っ込めていた右手を、改めて目の前に近づけてくる。その手に掴まれた青い小袋を、はい、と差し出され、手渡される。じわり、と手のひらに広がる冷感に、さきほどの冷たさの正体がこれだったのか、と納得をする。見ればパッケージにはデフォルメされたペンギンのイラストと共に、『叩いてすぐ冷える』の文字がプリントされており、駆け出した山口が駅前のドラッグストアで買ってきたのだと想像がついた。
「今日、信じられないくらい暑すぎだよね」
 隣に腰を下ろし、肩を並べながら、山口もその手に握った冷却材を見つめ、嘆きの声を上げる。そのどこか、ひょうきんに聞こえる声のトーンから、こちらがダウンした事実を大事ではないとフォローしようとしているのは明確だった。映画を一緒に観る予定だったが、既にその上映開始時刻は過ぎてしまっている。急な予定変更を生み出した足止めについて不満のひとつも示せばいいものを、この男は単純に『僕のせいではない』と遠回しに伝えようとしてくれている。その事実に、申し訳なさを感じつつ、感謝の気持ちを述べるには気恥ずかしく、フォローされている現状に、苦い気持ちが広がっていく。
「ごめん」
 自分でも情けなくなるほど曖昧で力のない声を零せば、「え?」とわざとらしく声を上げた山口が僕の顔を見る。目を合わせようかと視線を上げた先、視界を遮るように近づけられた青いパッケージが頬骨のあたりに押し付けられてくる。
「ん、」
 とっさに手で受け止め、頬から剥がす。
「シロクマの方が良かった?」
 心配そうな目でこちらを見る山口と目が合う。
「は?」
 反射で聞き返したものの、手にした新たな冷却材が、さっきまで山口の手にあったそれだと分かった瞬間、山口の問いかけが何であるか、察しがついた。右手にあるのは最初に手渡されたペンギンのイラストのパッケージ、左手にある小袋は、シロクマのイラストのパッケージ。
「そんなの、別に、どっちでも良いから」
 つい噴き出したこちらの反応に、山口が目を一瞬、細めていくのが分かった。
「どっちだって、パッケージが違うだけで、中身は変わらないんだから」
 眉をひそめた僕に対し、山口は困ったように、わざと眉尻を下げた顔で口を開く。
「ええー、そうかなぁ、中身が同じでも、ほら、効きそうだと思う方を使った方が、効き目、ありそうじゃない?」
 なにそれ、と口にしながら顔をしかめれば、むっと唇を尖らせた山口が、ぐっと僕の手元に近づいて、二つの動物の描かれたパッケージを交互に見やっては考える仕草を見せてくる。
「ペンギンとシロクマ、どっちの方が冷たそうかな? ペンギン? ……シロクマ?」
 わざとらしく、ふざけた声を発している姿に、ああ、と息を吐く。この男の、こういうところがズルいのだ。
「どっちだって良いよ」
 調子を合わせて笑う自分の顔を嬉しそうに見上げてくる山口の視線を前に、心の中で感謝を述べる。どっちだって、山口の優しさの形に変わりはない。
 掌に伝わる冷たさに、喉のあたりに広がっていた、まとわりつく不快感が下がっていく。ホッと息を吐けば、その様子を見ていた山口から囁くように告げられた。
「両方、ツッキーが持っていて良いよ」
 相変わらず優しさの塊を表すかのような声掛けに、ムッと顔をしかめる。
「いいよ、二個も持っていたら邪魔で仕方ないし」
 シロクマの描かれた小袋の方を突き返せば、意外そうな顔をした山口が渋い顔で受け取った。もう大丈夫、と告げれば、じゃあ、と立ち上がった山口が駅ビルの方を指さした。
「次の回が始まるまで、先に買い物、済ませておこうよ」
 それはもちろん、涼しい場所に僕を導いて、これ以上無理をしないように、と気遣うが故の提案であると、そんなことは考えずとも分かりきっていた。いいね、と返事をして立ち上がれば、さっきまで遠のいていた暑さが、とても近い場所で隣り合っていた。それでも、手のひらに握りしめた山口の優しさの形が、足先まで不快感から守ろうとしてくれているのは明確だった。一歩、肩を並べて歩き出したところで、ずっとこちらの顔から眼を離さなかった山口が、ようやく前を向いた。もう心配はいらない、そう伝える代わりに、さっきの山口のふざけた口調を思い出して、口を開いていた。
「ところで、ペンギンとシロクマ、どっちが効きそうかの結論は、出た?」
 え、と目を見開いた山口は、そこから駅ビルの中へと入るまで、腕を組んだ姿勢のまま首を傾げ、しばらく歩きながら考え続けていた。けれどいくら考えても、結局のところ、その答えを見つけ出すのは困難なようだった。










「お月見しようか星願2025」の差し入れとしてお配りしたカードに添えたSSとなります。
叩くと冷える冷却材とあわせて、当日はお渡ししました。