人影の少ない砂浜を山口と二人で訪れた。シーズンの過ぎた砂浜には、誰かが置き去りにしたであろうビーチサンダルの片方や、書き残して波に半分消された落書きなどが、あちらこちらで見受けられた。
「あ、貝殻あった」
 足元に転がっている白い巻貝の貝殻を見つけた山口が拾い上げ、砂を振り落とした後で、決まりきったことのように、自らの耳に貝の口を押し当てる。もう片方の耳は空いているもう片方の手のひらを当てて塞ぎ、軽く目を閉じていく様子に、きっと貝を当てている方の耳を、今は一生懸命澄ましているのだろうな、と想像がついた。その証拠に、嬉しそうに口元を緩めた山口の目がパッと開かれ、すぐに僕の方を見て、こう告げていた。
「ねぇツッキー、ちゃんと波の音がするよ、こんなに小さくても」
 山口の手の中に隠れてしまうほどの小ぶりな貝殻を、ほら、と目の前に差し出されていた。ツッキーも試してみなよ、と告げられはしなくとも、促されているのは明確だった。
「いいよ。……それに、波の音が聞こえる、って、それ、気のせいでしかない、らしいから」
 え、と戸惑う顔つきの山口を見て、かつてラジオで耳にした専門家の回答を思い出しながら口にした。貝殻を耳に当てて聞こえてくるのは、貝殻由来のものではなく、それを押し当てている手と腕の筋肉の震えからくる振動の音なのだ、と。
 こちらの話を聞き終えた山口は、どこか、肩を落としたような気配で、じっと手の中の貝殻を見つめていた。ひどく落ち込んだ様子で、伝えるべきではなかったのかもしれない、と軽い後悔の気持ちが胸を過ぎっていく。
「それ、ツッキーは初めて知った時、ガッカリした?」
 様子をうかがうように視線を投げてくる山口に、敢えて視線を逸らさないまま、返事をした。
「さぁ……ずっと前のことすぎて、もう忘れた」
 直接耳に届く波の音が、僕と山口の間に広がる沈黙を繋げていくようだった。
「ふぅん……、そっか」
 しばらく何かを考えていた山口は、急にそう呟くと、手にしていた貝殻を黙ってポケットの中へと押し込んで仕舞いこんでしまった。空になった両手を見やり、そのまま自らの両耳を左右の手で覆っては、軽く目を閉じていく。ガッカリさせたのなら、やはり、知らない方が良い事実だったのかもしれない。そう反省しかけたところで、両手を離した山口が、不意に僕の耳へと両手を近づけて言った。
「じゃあ、こうしたら、俺の音、ツッキーにも聞こえる?」
 ぎゅっと押さえられた耳の上、包んできた山口の体温が、じわっと皮膚を伝って広がっていく。山口の手の厚みと感触が、皮膚を通して伝わってくる。断続的に広がり続けていた波の音が遠ざかり、しばしの無音が鼓膜を覆っていく。他人に塞がれたところで、その相手の音が聞こえることは無い。その事実を山口に伝える気にもなれず、耳を塞がれた状態のまま、ゆっくりと首を縦に振った。
「ちゃんと、聞こえる。うるさいくらいに」
 まぶたを閉じた暗い視界で、耳に触れた山口の体温が無音の中に響き渡っていた。音など感じられずとも、五感のすべてが山口という男の存在で、いっぱいに満たされてしまっていた。
 押し上げたまぶたの先、視線の合った山口の顔が、嬉しそうに、はにかんでいく。その刹那、音のない世界に置かれた自分が唯一感じられているのは、その山口の笑みと体温のみに限定されていた。もっと埋め尽くしてくれれば良いのに、と目を伏せる。余計なことなど考える余地もないほど、自分の中を山口がいっぱいにしてくれるなら、この憂いも全て波に溶けて消えていってしまうに違いないのに、と。