バレンタインにチョコレートの組み合わせを思いついた人間は、今頃、何を感じているのだろう。
「もはや推しにあげるのではなく、推しを食べる時代ですよ」
テレビ画面に映し出された、人型のチョコレートを前にレポートを続けるアナウンサーの姿を眺めながら、ふと、そんなことを考えてしまっていた。カレンダーは2月を示し、世間が騒ぐ商戦イベントが、この週末まで差し迫った、そんな時期ではあった。『もはやバレンタイン商戦はこんなところまで進化した!』とのテロップの元、某チョコレートブランドのメーカーが昨年から始めたバレンタイン企画が、意外にも消費者から高い評価を受けている、といった主旨の特集がテレビの画面を通して先ほどから流れていた。番組によれば、某チョコレートブランドと某アイドル事務所が提携を組んだことで、事務所に所属しているアイドル歌手の人型を作成、実寸大の型を十分の一サイズに縮小した上でチョコレートを流し込み、実際の推しを形どった型抜きチョコレートとしてファン向けに販売した、とかしないとか。
「まーくんを直接食べられるなんて、夢のようです」
街頭インタビューで受け答えをする某アイドルのファンを名乗る若い女性が、その推しらしき人型チョコレートを美味しそうにカメラの前で頬張って見せていた。至福と言わんばかりのその表情に、山口と二人、気のない声で、「へぇ」と相槌を打つ。「推し」という概念が世間に広まって既に久しく、その商戦はここまで攻めたものになっているのだと思うと、少し奇妙なものとして感じられなくも無かった。
「キャラクターとかならまだしも、人型って、」
思うがままに口にしながら冷笑していると、隣に腰かけていた山口の「え?」という声が飛び込んできていた。
「え?」
代わりに聞き返しながら振り向けば、不思議そうにこちらを見る山口と目が合った。その顔は冗談でもなく本気で疑問に感じているらしく、その温度差に、まさか、と目を見開いていく。
「いや、だって、ファンなんだよね? 好きな相手の形のチョコなら、そんな、変なことじゃ」
慌てて弁明を始めた山口に対し、頭に浮かんだ問いを、つい、口に出してみる。
「まさか、とは思うけど、もしかしてお前は、僕の形のチョコがあったとして、それを平気で食べられたりするとか、そんな、ふざけたこと、言ったり、しないよね?」
そんなわけないよ。さすがの山口でも、そう返答してくれるだろう、と思っての問いかけだった。しかし、目の前の山口は、僕の顔を見つめたまま、何かを想像した素振りで、しっかりと、その口角を引き上げるようにして、ニヤァっと、明らかに笑ってみせた。その顔つきに、ぞわっと鳥肌が立ち、首元に冷たい何かを突きつけられた、そんな錯覚が急速に押し寄せてきていた。
「もちろん、食べるよ、喜んで」
いつもの笑顔に戻りながらも告げる言葉の鋭さは、先ほどの表情の雰囲気を明確に引き継いでいた。山口は本気だ。首筋をナイフの切っ先で撫ぜられたかのような感覚の中、明確な確信を持つ。山口は容赦なく、機会さえあったならば、僕をしっかりと食べつくして平らげてしまうに違いない。
震える心臓を無意識のうちに服の上から手のひらで押さえていたらしい。その仕草を見逃さなかった山口の、やわらかい微笑みが、僕に静かに向けられてくる。
「大丈夫、ツッキー本人を食べたりはしないよ」
見透かされているような感覚をもって緊張感を保っていると、飄々と笑う山口の声が、さらにこう続いていった。
「ツッキーのことは何度だって味わいたいと思うから、食べようなんて思ったりしないよ。そんな簡単に食べちゃったら、そこから先、二度と味わったりも出来なくなるし」
フォローになっているのか曖昧な発言に、身体の奥のざわめきは今も変わらず続いていた。味わう、という表現に導かれるように、ふと、頭の中に、ベッドの中の山口の様子が自然と思いだされていた。まるで僕を味わうように、でも決して本当に食べてしまわないように、手で、指先で、その唇と舌先で、形を確かめ、味と感触を刻み付けるように求めてくる仕草は、確かに、まるで大事な飴玉を口に含んでは吐き出して定期的に眺めてはとっておく子どもの悪癖のようにも思えてくる。山口の言葉が本心であるなら、やはり、いつか、自分は、本当に山口に全て食べつくされてしまう日を迎えることになってしまうのかもしれない。
でも、それでも構わないような気もする。目の前で笑う山口の顔を見ながら自分の胸に浮かんできた文言に、自ら呆れの笑いが込み上げてきた。この男にして、こんな自分がいる。その事実に、抗う意味など何処にもないような気がしてならなかった。
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こんな夢を見た。夢の中の自分は、ベッドの中で一緒に眠るツッキーを、ぎゅっと抱きしめて、ちゅーをしていた。腕の中にいるツッキーは可愛くて、ああ好きだなぁ、もっとツッキーを味わいたいなぁ、なんて思っているうちに、気づけば、それが声になって口から出ていたらしかった。
「痛くしないでくれるなら良いよ」
腕の中のツッキーが優しく、そう言ってくれるものだから、俺はつい、知らず知らずのうちに、そのツッキーのことを口から丸ごと飲み込んでしまったようだった。
ああ、美味しい。
満足した気持ちで息を吐くと、途端に腕の中が空っぽになっている事実が目の前に押し寄せてきていた。ツッキーがいない。膨れた腹の大きさが、自分のしたことを俺自身に語りかけていた。
目が覚めたのは、そのシーンの直後だった。飛び起きたベッドの中、真っ暗な寝室を目に映しながら、隣に眠るツッキーの姿を見つけ出して、大きく安堵の息を吐いた。思わず抱きつき、その存在を確かめるように腕に力を込めていく。いる。ツッキーは、ここにいる。
「めずらし、」
薄目を開けたツッキーが俺の顔を目にして、寝ぼけた様子で声を漏らしていた。そのふにゃ、とした声色に、俺は安心を覚えて深く息を吐き出していた。伸びてきたツッキーの手のひらが、眠気にふらつきながら俺の頭の上を曖昧に撫でていく。その優しい手の動きに、俺はそっと目を伏せた。
「何? 食べたくなったりした? 痛くしないでくれるなら、別に、山口なら、いいよ」
囁かれた言葉の響きに、ドキリと胸を突かれていた。夢の中の光景と重なった状況に、ざわりと胸の奥から寒々しい感覚が迫り寄ってくる。
腕の中にいるツッキーの形と温度を確かめるように、強く、腕に意識を込めて力強く抱きしめた。掻き抱くように締め付けた後で、ツッキーの唇に慌てて自分の唇を押し当てていく。ツッキーはいる、俺の腕の中で息をして、生きて、いる。自分に言い聞かせながら、暗闇で漏れるツッキーの吐息に意識を集中させる。食べてない、まだ食べきってない。口に含むように唇に吸い付き、舌をすくっては呼吸を交わらせる。これでいい、これだけでいい、今の瞬間は。丸ごと飲み込んでしまった後の夢の中の自分が得ていた充足感を掻き消すように、俺は何度も、何度もツッキーにちゅーをした。ツッキーはそんな俺に、すごく眠たそうな気配を漂わせながらも優しく、けれども緩く、いつもより鈍い仕草で応え続けてくれていた。
ほっと一息、唇を離して呼吸を整えた時、ゆるく俺の頭を撫でたツッキーが、ふわりと笑いながら、寝言に近い温度で唇を動かしていった。
「ほんと、人のこと、食べてるみたいにキス、するよね、お前って」
淡い幸せを滲ませるような声色に、俺の胸は締め付けられていくようだった。スッと眠りに戻っていったツッキーの身体を抱きしめ、俺は、強く瞼を閉じて祈っていた。ずっとツッキーとこうしていたいから、どうか、うっかり本当に食べてしまう日が来ませんように。抱きしめたツッキーの頭に鼻先を埋めながら、生きているがこその臭いを胸の内に、めいっぱい吸い込んでいく。どうか、どうか。その幸せだけは、最後の最後の瞬間まで、取っておいて、おけますように。それまでは、この幸せが、一日でも長く変わらず、続いていきますように、と。