休みの前日、天気予報を確認した山口が、急にこんなことを言い出した。
「明日の昼は、ピザ食べに行こう」
 もちろん断る理由があるわけもなく、たまにはそういうランチも悪くないかと了承の意を返したのも記憶に新しく。今朝目が覚めた山口が意気揚々と支度をして、こちらを連れ出す形で一緒になって家を出た。

 外は天気予報どおりの気持ちの良い晴天で、見る角度によっては雲一つない澄んだ青空が視界いっぱいに広がっていた。日曜の昼下がり、道行く家族連れとすれ違っても時間の流れ方がどこか平日のそれとは異なって、歩くだけで少し気分が浮ついてくる。そんな休日の光景だった。
「ツッキー、こっち」
 駅前の通りへ向かおうとするこちらの足を止め、山口は振り返りながら、脇道の先の公園の入り口を遠く指さした。てっきり山口の向かう先が駅周辺の商店街か、あるいはその先の鉄道駅の周辺かと思い込んでいただけに、住宅街の方へ続く奥まった道の先に、山口が行きたがるようなイタリアンレストランがあるとは予想さえもしていなかった。公園の最寄り、または公園を抜けた先の通りに、きっと山口の目指す場所があるのだろう。そう、その瞬間は受け止めていた。
「じゃあ、この辺にしよっか」
 こちらの予想をまたまた裏切る形で山口が足を止めたのは、公園の中央、遊歩道の真ん中に位置する、広々とした芝生の一角だった。大きな木の根元に広がる日向と日蔭の混ざった隅の方に向かい、山口は背負っていたリュックサックを、その足元へと下ろしていた。え、と聞き返す間もなく、リュックの中から取り出された大判のレジャーシートが、山口の手によって芝生の上に広げられていく。
「そっち、引っ張って」
 こちらの足元に近いシートの角を指さされ、言われるままに屈んで調整する。よし、と小さくうなづいた山口がシートの上にリュックサックを乗せなおすのを見て、ようやく、ここが目的地なのだと確信した。
 今日は確かピザを食べるはずでは、と考えて固まっている自分に、山口は、不思議そうな視線を投げかけてくる。どうして立ったままなのか。そう言いたげな視線と表情が、広げたシートの空いたスペースに座るよう、うながしてくる。いや、不思議に思うのはこっちの方だと口にする前に、とりあえずシートの上に膝を突き、リュックの中身を取り出して並べ始めた山口の手つきを目で追っていた。大判のレジャーシートが収まっていただけでも信じられない大きさのリュックサックの中から、今度は薄手のクッション2つが丸められた状態で取り出されたところを目の当たりにし、驚きを隠せないでいる僕に、山口は当然と言わんばかりに、そのうちのひとつを差し出し、尻に敷けと薦めてくる。このリュックサックのどこにそんなスペースがあったのだと考えているこちらのことなど気にもしない様子で、さっさと自らの広げたクッションの上に腰を据える姿を目にして、ようやく、溜まりに溜まった疑問の感情が声に乗って口から零れ落ちていた。
「まさか、ピザまで家から持ってきた、とかじゃないでしょ?」
 ハッと目を見開いた山口の視線が、僕を見る。その顔があまりにも真剣そのものだっただけに、一瞬、まさか、と言いかけたところで、
「まっさかぁ、ピザに限ってそんなこと、するわけないよぉ」
 くしゃりと顔を歪め、さもおかしなことを言いださないでくれ、といったニュアンスの声を返す山口に、軽い苛立ちが芽生えていく。いや、最初から信じられない行動を続けているのは、そっちの方だから、と反論しかけた口を開いた、その時、
「あのー、」
 少し離れた場所から、声がした。山口と二人、声のした方角へ、同時に振り返る。きゅ、と遠巻きにブレーキ音と共に止まった自転車が目に入り、それに跨った男の人が、心配そうにこちらを見ながら、もう一度、口を開いた。
「あの、すいません」
 僕と山口とさほど年の変わらない男の人は、見るからに配達員と分かる格好で、それを裏付けるかのように、自転車の荷台にも黒く大きな箱が括りつけられていた。あ、と声を上げた山口が、急にパッと立ち上がって、駆け寄っていく。
「そうです、合ってます、ここで。俺が、その、頼んだ『山口』です」
 財布も持たずに近づいた山口の姿を前に、配達員は明らかにホッとした様子で自転車を下りた。荷台の大きな黒い箱に手を伸ばすと、その内側から、どこか見慣れた、薄くて平たい白い紙箱を二つ取り出すのが、遠くからも見えた。その二つの箱を山口が受け取っているのを目にして、ようやく、なるほど、と合点がいった。山口がやろうとしているのは、そういうランチなのか、と気づいた頃には、両手で白い箱を抱えた山口が目の前に戻ってきていた。
「お待たせ、冷めないうちに、早く食べよう」
 シートに膝をついた山口に紙箱の一つを手渡され、仕方なく、それを受け取る。手にした紙箱は、信じられないほどの熱を発していて、まさに中身が出来立てほやほやの状態で入れられてから間もないことを、饒舌に語りつくしていた。中身のピザは、間違いなく食べたら火傷しそうなほど熱々のままなのだろう。
 隣で、両手が空いたはずの山口は、知らぬ間にその手にかけていた重そうなビニル袋の口を広げ、その中身をシートの上へと取り出して並べていく。見れば、それは普段、自宅でも散々目にしているビールとチューハイの350mlサイズ缶だった。パッケージの表面に描かれたロゴと桃のイラストの上に、明らかな水滴が結露して浮き出しているところを見ると、とてもよく冷やされているようだ。
「せっかくだし、ツッキーも、一緒に飲もう」
 チューハイの缶のひとつを手に取って差し出してきた山口に、用意周到すぎるだろ、と胸の内で返事をする。受け取った缶チューハイは想像以上に冷たく、今まさにピザの箱で熱々になった指先には酷に思えるほど、皮膚に刺さるような温度を伝えてきていた。塞がった両手の内、片手にしていたピザの箱を膝の上へと移動させる。じわり、と熱が腿の表面へ広がってくる。
「こんなものまで、ピザ屋が一緒に配達してくれる、ってわけ?」
 こちらの問いかけに、山口は、当然、と言いたげな顔で、視線と笑みだけを返してくる。その無言のドヤ顔に、さらに苛立ちが募っていく。どうせ、山口のことだから、事前にピザ屋に行ってピザ二枚と飲み物、数本を予約し、その時点で支払いまで済ませ、後は今日、この公園のこの場所で受け取れば済むよう、全て仕込んだ上で、今日ここに僕を誘ったのだろう。週末の天気を前々からチェックし、今日が雨の無い休日だと確信しながら、さも前日、思いついたかのように声をかけた。それは外で食べることに難色を示した僕に断られないがための、山口なりの予防線。言うなれば、明確で計画的な意識的犯行。
「さぁ、ほら、冷めないうちに、食べて食べて」
 そんなこちらの苛立ちを読み取ったのか、そうではないのか、急かすような様子で、膝の上のピザの箱へと山口の手が伸びてくる。こちらの顔を伺いながら、期待に満ちた表情で、ピザの紙箱のふたに指をかけ、ゆっくりと目の前で持ち上げていく。屋外だというのに、チーズとトマトとサラミの香りが、むわっ、と鼻先まで立ち上って、反射で疼いた胃袋が、空腹を訴えてくる。
 いくら山口に苛立ちを抱いても、食欲とそれは別物だ。とりあえず冷めたピザだけは、絶対に口にはしたくない。山口にうながされるまま、箱の内側に並べられた一切れに手を伸ばし、持ち上げる。熱々の生地の端から、隣の一切れに繋がったままのチーズの断片が、指の先で細く、細く、糸のように引き延ばされていく。持ち上げたピザの生地の端から伸びて垂れ下がったチーズを丸ごと迎え入れるように、口を開け、舌を伸ばす。カシュッ、と傍らで聞き覚えのある音がし、視線を向けつつ、ピザの先にかじりついたところで、隣で山口が頼みもしないのに、開栓した缶チューハイを僕に向けて差し出すのが目に入った。誰も飲むなんて答えた覚えはないのに。山口への文句を浮かべた頭の中は、すぐさま、かじりついたピザのトマトとチーズとサラミの塩気に溢れた暴力的な味わいによって、満たされていく。口の中いっぱいに広がるジャンクな味に、身体が水分を欲してくるのが分かる。
 仕方なく、差し出された缶チューハイを受け取っていた。気づかぬ間に開栓していた缶ビールを片手にした山口が、それを見受けて、待ち構えていたかのように、口を開く。
「乾杯!」
 コン、と手にしたチューハイの缶の飲み口に近い場所に、缶ビールの肩が軽くぶつかって振動する。クッとビールを口に含んで喉に流した山口の仕草に倣い、こちらもチューハイを、ひとくち。熱く火照った口の中、塩気を流すように、桃の甘みが上書きされて喉に広がっていく。ああ、美味しい。全て山口の思惑通りかと思うと腹が立つくらいには、文句のない味とシチュエーション。
「この店、美味しいって評判で、一度食べてみたかったんだよね」
 俺も俺も、と意気揚々とピザの一切れに手を伸ばした山口が、熱さも気にせず、一切れの半分くらいを一度に口にする。
「ん、美味しい! さすが、評判通りの味!」
 喜びの声を上げるやいなや、手にしたままの缶ビールを軽く煽って、その喉を震わせる。ああ、と空になった口で満足そうな声を発しては、僕の顔を上機嫌の様子で見やり、そのまま、青く晴れ割った空を見やって、高く掲げた残りのピザの半分を、口の中へと放り込んで、頬張った。
 その横顔はあまりにも幸せそうで、これ以上の文句を口にするのは無粋だと、こちらが憚られるような、そんな雰囲気に満ちていた。まぁ、口にするピザもアルコールも味は悪くないし、今日という青空も、風も穏やかで日の柔らかい陽気も、周囲を見渡しても不快になるほど騒がしい光景もない公園の芝生の情景も、全て、悪くないと受け入れるのはそこまで難しくはなさそうだった。
「俺、一回、こうやって、ツッキーと外で美味しい何かを食べてみたかったんだ」
 一本目の缶ビールを早々に空にした山口が、シートの上の二本目に指をかけながら、しみじみとした声をこぼして言った。
「すっごく気持ちのいい青空の下で、風を感じながらピザを食べるのって、想像しただけで最高だな、って思ったから」
 だから、今日ツッキーを誘ったんだよ。
 最後の一言は、投げかけた視線だけで、山口が声にすることはなかった。けれど、長い付き合いの中で、それくらいの推測が自分に出来ないわけがなく、山口も、それを充分、知り尽くしているが上の発言、というか仕草で間違いなかった。ああ、まただ。こちらの文句も全て予想した上での山口の言動に、怒りを通り越して、お手上げの感情が芽生えそうになる。結局、山口のこういうところが、敵わない。
 手にしたピザの新しい一切れを掲げ、油で光るピザ越しに、信じられないくらい澄んだ空の青さを見る。
「確かに」
 山口の言う通り。
 今度は、こちらが最後の一言を声にしない代わりに、視線を投げた。目の合った山口は、ひどく嬉しそうに笑うだけだった。
 二本目の缶ビールを半分ほど飲んだ山口が、そうだ、と不意に何かを思い出した様子で声を上げた。脇に置いたままの、もう一つのピザの入った紙箱を手に取り、またもやこちらに向かって手渡してくる。受け取った箱の中を確認すれば、それはチーズが乗っただけのシンプルな見た目のピザで、山口にしては珍しいな、と思った矢先、はい、とさらなる何かを差し出されていた。
 見ればそれは淡い琥珀色のハチミツが入った小分けのビニルパックで、これをピザの上からかけるのは、明白だった。
「ツッキーは、こういう甘いやつの方が好きだもんね」
 見透かすような口ぶりにムッとしつつ、封を切ったハチミツの甘い香りに食欲が刺激される。たらり、と円を描くように垂らせば、音もなくチーズの上で緩く面積を広げていく。
 生唾を飲み込んで一切れ持ち上げ、口に運ぶ。甘いハチミツの風味に混じって、チーズの塩気が優しく伝わってくる。一口、二口、と続けて口にすれば、言葉にならない幸福感が胃袋の方へと沈んでいく。
「良かった」
 変わらずトマトのピザを口に頬張った山口は、くしゃりと笑いながら、さらにビールをその喉に流し込んでいく。
 唇の端に付いたハチミツを舌先で拭い、さらに、次の一切れに手を伸ばす。持ち上げて垂れそうになったチーズの欠片を迎え入れるように、ピザの端から、大きくかぶりつく。ほどよい温度となったピザのチーズは、唇の端から緩く伸びて、どんどん、どんどん細く糸を引いていく。たわんだチーズの筋が垂れそうになって、生地の上の具材ごとすべてが滑り落ちてしまいそうになり、もう一口、改めてかじり直そうかと唇を近づけた、そこへ、横から近づいてきた山口の口が、がぶりとその部分にかじりついて、滑り落ちそうな具材から僕の指に残ったピザの欠片まで、綺麗に奪い取って離れていった。
 それは自分の食べかけだったのだが、と睨んだこちらの視線もお構いなく、自慢げに笑った山口の顔つきは、まるで、落とさずに済ませられたことを褒めてくれと言わんばかりの表情に見えて仕方がなかった。
「たまには、こういうランチも、悪くないよね?」
 全てを食べつくして一息ついた頃、青空を見上げて最後のビールを飲みほした山口に、そう尋ねられた。二本目のチューハイ缶を空にしながら、決して視線を向けることなく、その問いに返事をした。
「まぁ、『たまには』、ね」
 隣にいる山口が、視線を向けずとも、あのドヤ顔で笑っているかと思うと、やはりどこか軽い苛立ちを抱かずにはいられなかった。