「ツッキー、ごめん!!」
 仕事から帰ってくるなり、玄関先で顔を合わせた山口が、突然そう叫んで頭を下げた。その手には、いつかどこかで目にした記憶のある、珍しいデザインのケーキの紙箱が握られていた。
 謝り続けながら仕切りに、こちらに向けて紙箱を差し出してくる山口の勢いに押され、訳も分からず箱を受け取る。見れば箱の表には凝ったフォントの店名と思しきフランス語が金色の文字で印字されていた。そのロゴプリントの文字列を凝視し、ああ、と気づいた瞬間、土下座しそうな勢いで山口が改めて深々と頭を下げる。
「俺、ツッキーを裏切った、から、本当に、申し訳ないな、って……!!」
 それはテレビでも何度か目にしたことのある、有名パティシエールの手掛ける高級菓子店の名前で間違いなかった。予約をしても一年待ち、そもそも予約が出来れば運が良いとさえ言われる有名店は、特にバースデーケーキの人気が高く、ついこの間、山口が来年の僕の誕生日に合わせて、予約が出来たと声高々に宣言してきたことも記憶に新しかった。
「俺、絶対、この店のケーキは、ツッキーと二人で、ツッキーの誕生日に、絶対に俺より先にツッキーに食べてもらいたい、って、そう、思ってたんだけど、」
 今にも泣きそうな顔つきで必死に言葉を吐き出し続ける山口に、いいから落ち着け、と手を広げるのだが、それどころではない様子の山口はひたすら僕の顔を見て、ごめん、と繰り返していくばかり。ようやく息を落ち着けて唾を飲み込んだ山口の肩に手を置き、顔を覗き込めば、弱々しく、
「ごめん……、本当に、ごめん」
 ただ、それだけを喉の奥から絞り出した。
「いいから、ちょっと、聞かせてくれない? なんでこの店のケーキを、お前が今、持ってるわけ?」
 それは、と言いかけた山口と目が合う。このまま玄関先で山口に靴を脱がせないまま問答を続けるのも悪いかと頭をよぎり、一度言葉を遮った上で、一歩、廊下を後ろに退がる。それに気づいた山口が何も言わず靴を脱ぎ、数歩進んだ先の、ダイニングキッチンの椅子の上へと、掴んでいた通勤鞄を手放した。
「仕事でお世話になった人が、俺がもうすぐ誕生日だから、って、プレゼント、してくれて」
 ダイニングテーブルの上に載せた紙箱を見下ろしながら、苦しそうに顔をしかめながら山口は告げた。
「ちょっと待って、それ、お前のために一年前から予約してた、って、そういうこと?」
 ちがう、と大きく首を振った山口が、必死の形相で僕を見る。
「その人、夏まで付き合ってた恋人がいて、その人の誕生日に合わせてケーキを予約していたんだけど、すっかり忘れてたらしくて、それで、せっかくのケーキをキャンセルするのももったいないし、味には興味があるから、少し味見をして、残りを誰かに受け取ってもらおう、って考えた、らしくて」
「それで、何で、お前が?」
「それは、俺が、この店のケーキを予約して喜んでいたことを覚えていた同僚が、気を利かせて、その人に、俺に渡したらどうか、って話をしたらしくて……、俺の誕生日まで一ヶ月と間がないし、そんなに甘いものが好きなんだったら、喜んで受け取ってくれるんじゃないか、って」
 あいづちを挟みながら山口の説明をそこまで耳にしたところで、ふと、疑問が頭に浮かんだ。
「何で、お前が、甘いもの好きだ、って?」
 山口はどちらかと言えば辛党で、甘いものが苦手なわけでは決してないが、そこまであからさまに喜ぶわけでもないのに、どうして職場の同僚はそんな気の利かせ方をしたというのだろうか。同じ店のケーキを予約しようとして出来なかった、と悔しがっていたとするなら、まだ話は分かりやすいのだが、予約が出来て、待てばいずれ口にすることが出来ると分かりきっている中で、そんないわくつきのケーキの譲渡先に名前を上げるには、少し不自然という話ではないだろうか。すると山口は、気まずそうに僕から目を逸らすと、ごにょごにょと歯切れの悪い言い方で、こう続けたのだった。
「それは……その、同居してる恋人が甘いものが好きだから、って正直に言ったら、しつこく聞かれそうな気がして……ほら、ツッキー、そういうの、嫌かな、って」
 だから予約したケーキは、自分の誕生日の自分用、って話にしてたんだよ。
 そう言い訳めいた調子で添えた山口の一言に、ようやく真相が見えてきた。きっと山口は、普段から僕が喜びそうなスイーツの話題を集めやすくするため、甘いものが好きな人間だと職場では装っていたのだ。ケーキの予約だって、上手くいくための下調べとして情報収集に日頃から意識を向けていたのかもしれない。
「それで、何を、裏切った、って?」
 む、と気まずそうに唇を噛んだ山口が、観念した様子で息を吐くと、すぐさま、こう続けて言った。
「渡されたとき、フォークも一緒に手渡されて、それで、その場で、一口……」
 泣きそうな顔で、ごめん、と山口は囁いた。なるほど、と事の真相を全て知った自分の肩から、自然と籠っていた力が抜けていくのが分かった。山口は僕のために僕の誕生日ケーキを予約し、同僚にその嬉しさを嘘をついてまで口にした結果、いわくつきのケーキを職場で食べるはめになり、僕より先に食べてしまった行為に、申し訳なさを感じて帰ってきた、という話なのだ。
「別に、裏切りとか、そんなの、思ったりしないから……」
 そもそも、そんな約束をした覚えも、山口の口から誓いを聞いた記憶も、こちらには微塵もないのだ。勝手に山口が僕に対して心に決め、それを破ってしまったことを後悔しているにすぎない。
 ただ、自分の知る山口忠という男は、それで無かったことには出来ない性格の人物なのだった、その証拠に、こちらが気にしていない様子を示したところで、今にも切腹しそうな顔のまま、申し訳なさそうに見つめてきている。ここで、そんな誓いは無駄だとか、意味がないとか、必要ない、といった文言を口にしてしまうのは非常に簡単ではあるのだが、その山口の気持ちを軽んじて否定することにもなりかねない。僕だって、山口の考えや行動が全て僕のための優しさ、思いやり、愛情であることは明確に理解しているつもりだし、それが嬉しくない、と言ったら嘘になる。
 どうしたものか、と考えながら、目の前にある紙箱に、ふと目を止める。
「それで、どうして持って帰ってきたの? 黙って、何もなかったフリをすれば済む話だったのに」
「それは……」
 言いかけた山口が僕の顔を覗き込みながら、くすぐったそうな顔つきで、こう告げた。
「そういう理由で受け取ったケーキでも、たった一口食べただけでも、その……すごく美味しかったから、ツッキーにも、食べさせてあげたいなぁ、って、そう思って」
 へへ、と笑った山口は、聞いてもいないのに、少し誇らしげな雰囲気で、こう口にした。
「もったいないから、残りは家で大事に食べます、って言って、なんとか残りの分は全部、持ち帰ってきたんだ」
 ほら、と紙箱の封を開け、中身のケーキを見せるように傾けた山口と、目が合う。さっきまでの罪悪感に満ちた顔からは一転して、子どものような無邪気ささえも滲ませている。その屈託のない表情に毒気を抜かれ、それ以上何を詮索しても野暮のような気がして、つい、うながされるまま手を伸ばす。箱の中に収められている扇型のホールケーキの角に指を立て、その一部をむしりとる。その半分を口の中へ放り込めば、上質な生クリームの香りと質感が舌の上へと広がっていく。
 たしかに、美味しい。
 そわそわしながらこちらの様子をうかがっている山口と目と目が合い、正直な感想を口にするのも癪な気がして、手にしている残りのケーキの欠片を山口の口元へと押し出した。目を丸く見開いた山口が唇を緩めた隙を狙って、その合間に押し込んでいく。唇に触れた指の先、クリームを拭った舌の先が皮膚の上をなぞっていく。その熱と湿り気にくすぐったさを覚えながら、子犬のように見つめてくる山口の顔に、ふっと頬が緩んでいく。
「ばーか」
 お前が僕を裏切るなんて、百億万年早い。
 心の中で囁いた言葉など知りもしない山口は狐につままれたかのように首を傾げるばかりだった。その間の抜けた顔を横目に、僕はさらなる塊を紙箱から掴み取っては、見せつけるように頬張ってみせた。










2023年12月11日山月の日に募集して頂いたお題「裏切りもの」で書いたもの。