(1.高校生の風景)
部活のない貴重な放課後に、せっかくだからと、山口と二人、駅前まで買い物に出かけようか、という話になった。ただ、その前にひとつだけ、明日が提出期限になっている課題の解き方を教えて欲しいと山口が言い出すものだから、クラスの誰もが部活へ向かい無人になった教室の隅の方で、山口の席にそれを広げ、山口の前の席の椅子を借りて二人で頭を突き合わせた。
「ここ、どうしても式がこれ以上展開できなくて」
山口の指が指し示したのは三角関数の応用問題で、たしかに、他の問題に比べればひとクセあるタイプの出題ではあったが、そのクセさえ理解してしまえば、なんてことはないタイプの問題だった。山口の広げたノートの上、書かれた数式の上を指で示す。
「これは、ここの関係式を使って、代入して、」
ああ、と説明の途中で山口も理解したらしく、最後まで説明せずとも、さらさらとノートの余白に続きの式を書き進め始めていく。山口が躓いていたのは大問のうち二番目の問で、そこさえ解けてしまえば、そこに続く小問を解き終えるのも時間の問題だと予測がついた。その証拠に、そこから山口は地道に式を書き連ねていき、こちらは、その瞬間が訪れるまで待つだけの姿勢になっていた。頬に手を突き、あと五分もしないうちに終わるだろうと待ち構えていると、くぅ、と自分のみぞおちの辺りから、小さな音がした。小腹が空いたな、と息を吐いたタイミングで、山口が、
「あ、ポッキー、あるよ」
思い出した様子で、机の脇に引っ掛けていた肩掛けの鞄の中へ手を突っ込んだ。取り出したのは見慣れた赤いビニルの小袋で、普通はもう一つの小袋と含めてパッケージングされている大きな紙製の外箱については、すでに姿を消しているらしかった。
「何か、よく分からないけど、いらないからって、くれて」
聞けば隣の席の女子が、帰り際に押し付けるように渡してきたらしい。正直、山口の話しぶりでは全くもって状況の深い意味は分からないが、未開封のポッキーに罪はないはずで、今、小腹が空いている自覚がある自分にとっても、都合が悪い話ではなさそうだった。有難く受け取り、開封した袋の中から一本を摘まみだして口に運ぶ。ポリ、と音を立てて割れたそれは、表面のチョコレートがどことなく緩んで、軽く溶けだしている様子だった。
手持無沙汰を埋めるように、ポリ、ポリ、とかじっていると、目の前で問題を解いている山口が、妙にチラチラとこちらを盗み見ている視線が目に映った。食べたいのか、と思い、小袋の開けた封の方を山口に向けて差し出したが、驚いた様子で首を振られ、否定を示された。
仕方なく、小袋を引き戻し、変わらない調子で口にしていると、それでもやはり山口の視線が、チラチラと何度もこちらを見上げてくる。その視線は僕の口元、咥えるポッキーの先に向けられていて、その目の様子に、ははぁ、もしや、と仮説を抱いていた。この後の予定が待っていることは山口も分かっているはずだし、さっさと終わらせるよう促す意味も込めて、いっそのこと、口に出してみる。
「それ、解き終わったら、最後の一本、食べても良いけど」
小袋が空であることを見せつつ、自分が手にしている最後の一本の先を、ゆっくりと山口に見えるように、口に含む。口に咥えた方と反対の先端を山口に差し出し、軽く前傾の姿勢をとって、お互いの距離を詰めていく。え、と驚いた表情で目を丸くした山口の反応からしても、仮説は間違いではなさそうだった。ポッキーゲームについて話をしていたのは、たしか、隣の席で集まっていたクラスの女子の数人で、昼休みの終わりに馬鹿騒ぎをしていた声が、こちらの耳にまでハッキリと漏れ聞こえていたっけ。もしかしたら、この山口がもらった小袋の片割れも、その会話の中で消費されていたのかもしれない。どちらにせよ、今、目の前にいる山口が頭の中でどんな想像をしているのか、確信を得たからには、からかってみるのも悪くない。どうせ、差し出したところで、山口がかじりつくはずはないのだから。
目の前にいる山口は、予想通り、こちらの目を見ることも出来ず、分かりやすく目を泳がせている。ほら、やっぱり、と目を細め、咥えていたポッキーを改めて手にとり、撤回する。
「いいから、それ、さっさと解きなよ。遅くなるから」
手にしていたポッキーの先で問題を示し、くるりと方向を変えて口に戻す。視線をそらして、ポリ、と数ミリかじりとった時、視界の隅に近づいてきた山口の手が、こちらの肩を叩いてきた。
「なに、」
振り返った瞬間、視界いっぱいに山口の顔があった。ドキリと息をのんだ瞬間、目と鼻の先にある山口の口元が、自分の咥えているポッキーの先にとびついてきて、そのまま数センチ、かじりとったかと思うと、すぐさま逃げるように離れていった。
ポリ、ポリ、ともったいぶる調子でゆっくりと咀嚼した山口が、目の前で喉を上下し、それを飲み込む。飲み込むと同時に伏せていた視線を、黙ったまま引き上げて、こちらの目を窺うように見つめてきていた。
「なっ、……っ、……はぁ? 何、してんの、」
咥えていた残りのポッキーが落ちないよう、意識しながら声を発する。目の前で真っ赤な顔をした山口は、僕の顔を見ながら、不意に、ふにゃり、と頬を緩めていった。
「ツッキーのおかげで、最後まで、解けた、から」
ありがとう、と告げた山口の声は、熱にうかされた時のようにふわふわとしてつかみどころがなかった。慌てて残されたポッキーの欠片を口の中に収め、急いで噛み砕いて飲み込んでいく。
「あっそ、それならさっさと、『終わった』って言えば良かったのに」
自分でも滅茶苦茶だと感じる文句を口にしながら、騒がしくなった心臓を誤魔化すように、椅子から立ち上がる。熱くなった顔を見られないよう、廊下に続く出入り口へ振り返ると、慌てて課題をまとめて鞄に押し込む山口の気配が背中越しに聞こえてきていた。
(2.大学生の風景)
「ねぇツッキー、小腹、空かない?」
何の用事があるわけでもない山口が、土曜の講義終わりに寄り道とも思えない遠回りをして僕の一人暮らしのマンションの部屋に来ている光景に、自分も随分と前から疑問を抱かなくなっていた。大学から直接、山口の部屋に帰る方が明らかに時間も労力もかからないというのに、この男は一種のルーティンのように、土曜の夕方、決まってこの部屋を訪れるようになっていた。どうしてか、と本人に聞いたところで、きっとふざけた理由を並べ立てるだけに決まっているから実際に聞いたことはないが、きっと山口にとってはこの部屋が第二の家、くらいの間隔で毎週この部屋に来るのが当たり前になってしまっているのだろう。
その証拠に、至極、当然、と言わんばかりの様子で、僕の部屋のWi−Fiにネット回線を接続した山口は、その小さな画面でオンラインゲームのアプリを起動させると、ワンルームの僕の部屋のベッドの縁に背中を押し付けながら、フローリングの床に敷いたラグマットの上で膝を抱えるようにして小さく座り込んでいた。ログインボーナスの受け取りボタンをタップしながら、不意に顔を上げ、さきほどの問いを口にすると、目の前にあるローテーブルの上に置き去りにしてあるチョコレート菓子の箱を見つけ、手を伸ばしていた。
「このポッキー、食べて良い?」
良いも何も、それは先週、山口本人が勝手に置いて忘れていっただけの代物で違いなく、それにわざわざこちらの許可を必要とする義理は、どこにも存在などしていなかった。特に否定も肯定もする必要が見いだせず黙っていると、返事を待つことを諦めたらしい山口が、しれっと封を開けて、そのうちの一本を指でつまみ上げていく。ポキ、と音を立てて半分口に入れた後、残りの半分を、その唇の端の方で咥えては、咥えたままのポッキーの先端を、なぜか器用に上下に揺らしていく。
「それ、万が一でも、落としたら怒るから」
「ん、」
ゲーム画面に集中する山口は生返事をひとつしただけで、そのポッキーは山口の唇に挟まれたままでいた。どうやら、その両手で支えたスマホの画面の中で、さきほど得たログインボーナスのライフを元に、山口は、もう、お決まりの巡回コースをたどり始めているようだ。
「行儀悪いから、やめなよ」
「んー、」
「食べるか、ゲームするか、どっちかにしたら?」
「んん、」
「ねぇ、」
「んー?」
「聞いてないでしょ?」
「んん、」
要領を得ない山口の反応に、ため息をひとつ。どうにかして、一瞬でも我に返らせる必要があるのではないか、と思った途端、睨みつけていた、その半分になった山口の唇にあるポッキーの先が、目に入った。
いっそのこと、分かりやすく邪魔をしてやろうかと、その先端をめがけて顔を近づける。まだこちらに視線を向けようとしない山口の目を覗き込みながら、スマホの画面を片手で遠ざけつつ、山口の咥えるポッキーの先へと、かじりついた。ボキリ、と折れたポッキーの先が口の中で砕け散り、目の前にある山口の視線が、僕の目を見つめるのが感覚としてハッキリと伝わってきた。
山口の目と鼻の先、視界いっぱいに映っているだろう距離の中で、口の中に飛び込んできたポッキーの欠片を咀嚼しては飲み込んでいく。眉間にシワを寄せたまま睨む僕の目と山口の視線がようやく噛み合って、驚いた様子の山口の目元が、急に、フッと微笑みの形に変化していった。ゴクリ、と飲み込むのが先か、目の前にある山口の唇が僕の唇に合わせられたのが先か、厳密にどちらとも言い切れないタイミングで、山口の唇が僕の唇を軽く吸う。合わさった唇の表面、山口の舌の先に溶けたチョコレートの甘さが僕の舌の上にまで伝わってきて、その妙な甘ったるさに顔をしかめていた。
「俺、時々思うよ、ツッキーって、急に……、ウサギみたいになるときあるよね」
鼻がぶつかりそうな距離で笑った山口の告げた言葉の意味が、あまり良く分からず、きっと山口は何か勘違いをしているな、という事実だけが、その表情から読み取れていた。それでも、山口の落とすかもしれないチョコレートの欠片は、今はもう存在しなくはなったし、夢中で見ていたスマホの画面から、その視線を剥がすことには成功しきっていた。
もう一度ちかづいてきた山口の唇が、軽いキスを残していく。僕を遠ざけることなく、僕と自分の間に改めてスマホの画面を挿し入れて見つめた途端、「あ」と短い声を出す。
見れば画面の中で残機は減っていて、リスタートのボタンが大きく表示されている。画面の端に映された山口の組んだ編成が目に入り、
「それ、属性、火より水多めにした方が良いんじゃない」
気まぐれにアドバイスを口にしたら、驚いた様子の山口が、そっか、と声を上げて画面の上を人差し指で撫でていく。編成を変えた山口のチームがリスタートを始めると、少しずつ相手のゲージを順調に削り続けていく。
「わぁ、さすがツッキー」
小学生の時と変わらない調子で口から漏らした山口の言葉に、つい、口元が緩む。ベッドの縁に並んで腰を下ろし、山口のスマホの画面を覗きこんでみると、妙な居心地の良さに、自然と目を細めていた。
(3.社会人の風景)
金曜の夜、珍しく山口が風呂上がりに一緒に酒を飲まないか、と声をかけてきた。先にシャワーを終えていたこちらにチューハイの缶を差し出しつつ、自分は冷えた缶ビールを既に開栓して、知らぬうちに、ひとくち、啜った後のようだった。明日はお互い休みであり、貴重なオフの日でもあったから、山口がそう誘ってくるのも変な話ではなく、特に断る理由もないともあって、そのまま差し出された缶を返事の代わりとして、素直に受け取っていた。
プルタブに指をかけ、開栓するなり、乾杯、と囁きながら山口が、その手にしている缶ビールの肩をチューハイの缶に軽くぶつけてくる。ひとくち、啜るように口にすれば、慣れた味の桃の甘さが口いっぱいに広がると同時に、脳がアルコールによって、ふわりと浮つく感覚がした。
「つまみ、何か持ってくる」
ビールをすすりながら立ち上がった山口が、キッチンの方へと姿を消していく。
それから数分、キッチンからゴソゴソと棚を物色する物音が漏れ聞こえていたのだが、結局、戻ってきた山口は、しょんぼりと肩を落とし、残念そうな顔で手にしたチョコレート菓子の赤いパッケージを、こちらに差し出しただけだった。
「ポッキーしかなかった」
あからさまにテンションを下げている山口の様子に、同情の気持ちと、可笑しみを覚えつつ、その赤い箱を受け取って開封していく。甘党の自分にとって、つまみは甘いチョコレート菓子でも立派に見えるが、辛党の山口からすれば、不服以外の何物でもないのだろう。そうは言っても山口は酒に弱いというほど弱いわけではなく、つまみがないからといって飲めなくなるタイプの人間では決してない。むしろつまみが無いとすぐに酔いが回って気分が悪くなってしまうのは自分の方で、きっと山口は、自分が誘いを受けたからこそつまみを用意する気になってキッチンへと向かったのだろう。
甘いチューハイと合わないわけではない甘いポッキーを口にしながら、ソファの隣に座った山口に視線を向ける。つまみもないのに飲んでいて楽しいのか、と正直疑問に思わないわけではないけれど、見れば、山口は早くも二本目の缶に口をつけている様子だった。ポッキーと一緒に、二缶ほど、ついでに冷蔵庫から持ってきていたようで、それもきっと、こちらが一緒に飲む、と意思表示したが故の行動なのだと思ったら、妙に愛しく思えてきて、顔がにやけていくのが自分でも手に取るように分かってしまった。
「あ、ツッキー、ちょっと、酔っぱらい始めてきてる?」
ニコニコと笑う山口の顔は風呂上がりともあって、少し、いつもより赤く見える。こちらがにやけている以上に顔を緩めている山口の様子から、どうやら、やはりつまみが無いままに飲むとあれば、山口も僕と同じくらい酔いが早く回るのだな、なんて、気づかされていた。
「ねぇ、ツッキー、」
ふと声をかけられ、横目に見れば、気づかぬ間に一本、ポッキーをとりだして口に咥えた山口が、こちらに向けて、その先を差し出してくる。食べろ、という意味かと察した途端に、「どうぞ」と完全に酔っ払いの顔つきになった山口が囁くものだから、ふわふわする脳みその気分の良さにつられて、その先端にかじりついていた。ポキリ、と折れたポッキーは自分の手で口に運ぶものより甘く、つい、もう一口、と欲を出して、さらに先へとかじりとっていく。あとひとくち、三センチほどで山口の唇に触れそうなところで、今度は反対に、山口の方からポッキーを口の中へかじりとり、その唇をこちらへと近づけてきていた。ちゅ、と音を立てて触れた唇は酔いで熱く、その熱を与えるように、山口の唇が僕の唇へと重なり合わされて、挿し込まれた舌の上、最後に山口がかじりとったポッキーの欠片が、差し出されるように口の中へと放り込まれていた。
じわり、とビールの風味が、チョコレートの甘さの合間を縫うように、しっかりと苦みを伴って舌の上に広がっていく。
「……苦、」
顔をしかめて舌の先を口から出せば、それを見た山口が馬鹿みたいに大げさに笑い転げていた。口の中の欠片を全て飲み下した後で、お返しに、とチューハイを飲んだ後の唇で新たな一本を咥えて、山口の方へと差し出してみる。何も言わずとも勝手を知っている様子の山口は、迷うことなく僕の唇に挟んだポッキーを、先から順に、ポキリ、ポキリとかじりとって咀嚼した後に、お決まりの仕草で、最後にこちらの唇に軽くキスを落としていく。そのまま、べろりと縁をなぞるように舐められたかと思えば、
「甘……っ、」
今度は山口が顔をしかめる番だった。お互いにふざけた調子で、それから何度かポッキーを差し出しては、触れるだけのキスを繰り返し、その度に、甘さと苦さに笑いをこぼしていった。たまにはこんな夜も悪くない。そう噛みしめる頃には、お互いの並べた缶がすべて空になり、唯一のつまみのポッキーまでもが空になってしまっていた。とうとう口さみしくなった僕と山口は、ひとしきり唇を触れ合わせた後で、お互いの舌の味を混ぜ合わせるように、何度も、何度も深いキスを交わしたのだった。
「お月見しようか JUNE BRIDE FES2023」の差し入れとしてお配りしたカードに添えたSSとなります。
差し入れのポッキー含むお菓子とあわせて、当日はお渡ししました。