「ねぇツッキー、見て、一番星」
 部活からの帰り道、すっかり暗くなってしまった西の空を指さし、山口が告げてくる。夕焼けの色も溶けて消え去った紺碧の夜空に、ぽつんとひとつ、微かな光で、それでも確かに光る一点は、金星の輝きで間違いなかった。
「ほんとだ」
 返事をした僕の顔を振り返った山口は、嬉しそうに、にしし、と笑ってみせる。
 山口はなぜか、ぽつぽつと星が目立ち始めた夜の空を熱心に見上げたままの姿勢で、一歩、二歩と足を前へと進めていく。何を一生懸命見ようとしているのかまでは分からないが、確実に今、山口が何かしら頭の中で考え事をしているために、完全に上の空の状態になっているのは、明らかだった。
「そのまま歩いて、転んだとしても助けたりしないから」
 注意のつもりで、そう声をかけてはみたが、山口は一向に反省する様子もなく、ただ適当な返事を繰り返すばかり。日々変わらずたどっている通学路の道のりとはいえ、昼間でもないのに上を見上げたまま歩いていたら、今に躓くに違いない。
「ぅわっ、あっ、っと、危ない」
 言わんこっちゃない、と呟いた僕の顔を、バランスを崩しかけて何とか立て直した山口が、気まずそうな笑みを浮かべたまま見つめ返してくる。
「ねぇツッキー、今度の流星群、どれくらい、流れ星が見られるかな?」
 不意に投げかけられた『流星群』という言葉に引きずられるように、今朝テレビで目にしたニュース映像が頭の中に蘇ってくる。
『明後日の未明、東の空を見上げますと、一時間に平均二十個ほどの流星群が観測される予想です』
 原稿を読み上げるアナウンサーの声を思い返しながら、
「さぁ、」
 と気のない返事を返すだけにする。同じ流星群のニュースを、山口もどこかで見聞きして、事前に知ったんだろう。意外とこの山口忠という男は星座や年に数回の天体ショーといった、ロマンチックで語られる物事と、特別感のあるイベント事を好んで楽しもうとする傾向があるから、今度の流星群を楽しみにしていることについては、何ら不思議なことではない。
「でも、明け方三時とか、たかが流星群のために、起きていられるの?」
 えっ、と声を上げた山口が振り返り、その大きく見開いた丸い目で僕の顔を見つめてきた。そう、この幼馴染のことだから、きっと話半分にニュースを聞いただけで、その詳細までは調べてはいないのだろう。この山口という男は、そういう話題にかこつけて騒ぐ割には、何年が経っても星の場所も、見つけ方も、その名前ですら、あまり覚えようとはしない類の人間なのだった。
「そうなの……?」
 今初めて知った、という感情をあからさまに声に滲ませる山口は、がっかりした様子で息を吐いた。もし今ここで、自分がその情報を知らせなかったとしたら、山口は一体、どうするつもりだったのだろう。起きていられる限界まで、自宅のベランダから何時間も必死に目を凝らしながら、暗い夜空の星を眺めては、さほど多くはない流星のひとつやふたつを見つけて歓喜するのだろうか。
「なんだ、出来たらツッキーも誘って、一緒に観ようかな、って思ってたのに」
 半分独り言のようなニュアンスでぼやくと、残念そうに口を尖らせる。やっぱりそのつもりだったのか、と山口の反応から薄々読み取っていた思惑が、決して間違いではなかった、と知らされる。どうせ山口のことだから、流星群のニュースを見た時点で、僕を誘おう、と密かに考えていたんだろう。
 思えば山口から初めて天体観測に誘われたのは、小学校五年のことで、その誘いも、今と同じく山口から突然もたらされたものだった。
「あの、これ、ツッキーに……、ハイ!」
 そう言いながら、学校の休み時間、僕に向かって山口が差し出してきたのは、小さな白い封筒だった。表には山口と思われる筆跡で、『ツッキーへ』と、ただそれだけが鉛筆で書かれていた。
「中、開けて良いの?」
 その場で聞き返した僕に、山口は大きく縦に首を振って、封筒を手渡した。受け取った封筒の中身は一枚のカードで、たった一言。
『おれと一緒にペルセウス流星群を見ませんか』
「ツッキー、星、詳しいから、一緒に、見ながら、教えてほしくて、だから……あの、俺の家のベランダ、ツッキーの家より高いところだから、星、見やすいと思うんだ」
 一生懸命説明する山口は、無意識なのか、両手で服の裾を握っては離し、握っては離し、を繰り返していた。その手の動きと緊張に満ちた顔つきに疑問を抱きつつ、僕は口を開いていた。
「返事、明日でも良い?」
 え、と聞き返した山口の顔は、十年前も大して変わり映えのしないものだったように思う。
「流星群を見るなら夜中だろうから、そんな時間に山口の家に行っても良いか、お母さんに聞かないと」
 僕の説明を聞き、顔を見つめた山口は、ぶんぶんと大げさに首を縦に振った。
「もしツッキーが良くて、ツッキーのお母さんも良い、って言ってくれたら、『お泊まりしていったらどう?』って、おれのお母さんも言ってたから、その、」
「分かった」
 途中で言葉を切った僕の返事に、山口はあからさまにホッとした表情を浮かべた。山口のその誘いを当時の僕は素直に受けることになるのだが、いざ山口の家で見上げた夜空は曇りがちで、あまりよく見えないどころか、僕も山口も眠気に耐え切れず、すぐに音を上げてしまったのだった。
 考えたら、その時から山口は僕を頼りにして天体観測をしていたくらいなのだから、最初から星の名前なんて覚えるつもりはさらさら無いのかもしれない。初めて山口の家で流星群を見た時も、結局僕が家から持っていった星見表がなければ、山口がペルセウスの位置を見つけることさえも出来なかったのだから。
 懐かしい思い出を振り返ったことで生まれた可笑しさに、ククッと笑うと、不思議そうな顔で山口が振り返る。相変わらず空を見上げて歩いていたのか、上を見すぎた首に手を当てて、撫でさすっている。
「明後日、山口の家に行って良いなら、僕も見ようかな……流星群」
 パッと、途端に山口の顔色が数段明るいものへと変わる。暗くなった夜の道だというのに、発光しているのかと疑いたくなるくらいの明るい山口の表情に、つい、苦笑いのような照れ隠しのような笑みがこぼれていく。たしか、流星群のピークを迎える明後日の次の日は、部活の練習が休みだったはずだ。山口もきっと、それを踏まえて、僕を誘おう、と考えたに違いない。
 満面の笑みになった山口が、子どもみたいに、両手を頭の上に突き上げて、やったー、と口にする。
「星見表、探して、ちゃんと用意しておくね」
 まるで遠足の前の小学生のような表情の山口に、水を差すように言葉を添える。
「別に、今時、ネットで探せば、すぐ見つかるから」
「あ、そっか!」
 あっけらかんとした山口の反応に笑いつつ、それも悪くないか、と心変わりする自分がいた。
「でも、一応探しておいてよ。明かりはなるべく無い方が、星が見えやすくなるはずだから」
 分かった、と意気込む山口の顔は、思い出の中の顔つきと何も変わっていなかった。