ガリッと固い何かで左の頬を傷つけられた痛みで、俺はハッと目を覚ましていた。ひりひりするのは左側の頬の皮膚で、何が起きたのか理解できずに目を白黒させた俺の視界に真っ先に飛び込んできたのは、隣で枕に頭を並べて寝ていたはずのツッキーの、あまりにも不機嫌そうな顔だった。睨むように、じっと俺を見つめるその目は、何かを訴えているようにも見え、俺は恐る恐る声を発していた。
「どうしたの、ツッキー……?」
 ツッキーは俺の顔を相変わらず睨んだまま、何故か俺の顔の近くに近づけた右手の指を力強く開いて見せていた。その手の形はまるで虎か熊のようで、俺はその手の形にどんな意味のメッセージが込められているのか気づくことも出来ずに、そのまま目を凝らしていた。そんな俺に対し、ツッキーの顔はどんどん険しさを増していた。どうやら俺の反応が鈍いのが気に食わないのか、すぐさま、チッ、と舌打ちの音がした。寝ぼけている俺の顔を睨みつけ、ツッキーが痺れを切らした様子で唇を動かしていく。
「にゃー」
 開かれたツッキーの口から発せられたのは、たったそれだけの言葉でもない音の響きだった。不意を突かれた俺が目を丸くするのも無視して、ツッキーはさらに続けて声を発していく。
「にゃ、にゃにゃー、にゃにゃ、にゃー、にゃー、」
 一瞬俺の耳がおかしくなったのかと、真剣に疑いそうになりながら、それでもツッキーの唇がいつになっても同じ形と動きを繰り返していく様を目の前に、自分の視覚と聴覚が連動している事実をきちんと確かめていた。俺の耳がおかしいんじゃない。ツッキーに何かが起こっている。そう気づいた瞬間、俺の頭の中では、昨夜ツッキーに俺自身が告げた一言が蘇ってきていた。
「俺、ツッキーが猫だったら、こんな感じかな、って思うよ」
 そう口に出しながら昨夜の俺は、ツッキーに向けて自らのスマホを差し出していた。同じベッドに潜りこんだ後の、あとは寝るばかりという状況の中で、俺とツッキーは肩を並べて寝そべっていた。
 画面に映っていたのは一匹の、黄金色をした毛色の飼い猫で、猫は何度も細身の体をくねらせながら、揺れるオモチャへと飛びついていた。動画サイトに投稿された、いわゆる猫動画と呼ばれる映像を一瞥したツッキーは、どこか不服そうな目をして俺の顔を見た。
「イメージ、違う?」
 いや、と首を振ったツッキーは、苦い表情で言葉を続けた。
「自分が猫になったら、とか、そんなところ、想像したこともないから」
 そっか、と俺はツッキーに向けていたスマホの画面を自分の手元へと引き戻した。この猫の種類、何だったかな、そんな些細なことが気になって、動画を投稿したユーザーのプロフィール画面へと移動する。猫の写真のアイコンの近くには、アビシニアン、という文字が表示されていた。
「そうだ、アビシニアン、アビシニアンだ」
 検索エンジンサイトまでページを戻し、その単語を検索欄に打ち込んでみる。出てきた検索結果を開きながら、見れば見るほどツッキーにピッタリだとニヤニヤしてしまう。そんな俺の顔をスマホの本体越しに見つめていたツッキーが、呆れたような声を出していた。
「そんなに僕が『にゃーにゃー』鳴くところが見たかった、って、そう言いたいわけ?」
 唇を尖らせるツッキーの顔を見つめ返した俺は、大げさに首を振っていた。
「違うよ、ツッキーが催眠術にかからなくて良かったな、って俺はちゃんと、本気で思ってたよ」
 真剣に否定する俺に対し、ツッキーの目は疑惑の色に染まっていた。というのも、この猫動画のやりとりの前に、俺はツッキーが出演した所属チームの公式チャンネルによる一本の動画を視聴していたからだった。動画の存在を俺に教えてくれたのは、紛れもないツッキー本人からで、ぶっきらぼうにもツッキーはハッキリと俺に情報を伝えてくれていた。
「勝手に見つけられて変に騒がれるのは嫌だから先に行っておくけど、チームの公式動画、出させられた回のやつ、チャンネル内で公開されたから」
 その報せを受け、俺が喜び勇んでスマホの画面からすぐに動画を視聴したことは、言うまでもない。ツッキーの所属する仙台フロッグスはYoutubeの公式チャンネルを持っていて、地元イベントに参加している様子だったり、選手の誕生日を皆でお祝いする様子だったりと、コートの外にいる選手の素顔までもを映したアピール動画を定期的に作成しては、全世界に公開していた。その動画にツッキーが出演する予定だと俺が知ったのは数週間前、これまた情報源はツッキー本人の愚痴からだった。同じチームの先輩の誕生日を記念して撮影される動画に、その先輩たっての希望でツッキーが招集された、ずっと避けてきた動画出演だったけれど、その先輩の頼みとなっては断ることも出来ない。そんな風にぼやき続けるツッキーの憂鬱な表情は、俺ですら、気の毒になるくらいのものだった。でも正直、心の隅ではほんの少しだけ、その動画を楽しみに思う自分もいた。チームの中にいるツッキーの様子が知れる機会なんて、そうそう訪れることがない。こんなチャンス見逃してなるもんか、と力が入っていたのは、紛れもない事実だった。
 追加されていた最新動画は、動画の主役にあたる選手を中心に、ユニフォーム姿の選手が五、六人肩を並べ、そろってハッピーバースデーを歌うシーンから始まっていた。そのうちの一人にちゃんとツッキーの姿があり、ツッキーは用意されただろうパーティーハットをいやいや被りながらも、皆と揃いのチームユニフォームを着た格好で手を叩いて歌っていた。
「おめでとうございます!!」
 わー、と続く歓声が止むのも待たずに、チームスタッフらしき男の人が声を張り上げる。
「では、ここで、ゲストの紹介です! 今回、『催眠術を体験したい!』という主役の要望を受け、催眠術師の金成さんにお越しいただきました!」
 それを合図にフレームインしてきたのは五十代半ばくらいの、紺のスーツ姿の少し太り気味の男性だった。言われなければ催眠術と気づかれることもなさそうな、いかにもどこにでもいそうな普通の見た目。電車に乗れば一人二人、こんな雰囲気のおじさんと遭遇できる、そんな雰囲気の催眠術師を前に、対面する選手たちも信じているとは思えない表情と仕草でそれぞれ、迎え入れていた。気づけば主役の選手を始めとするバレーボール選手たちは金成さんを中心に、ぐるりと並べられた椅子に、それぞれ腰を下ろしていた。
 進行役のスタッフが手を上げ合図を出す。すると、金成さんは選手を前に、自らのその両腕を肩の高さにくるまで持ち上げると、急に低くうなるような声で、こう囁いてみせた。
「リラー……ックス……、リラーックス……さぁ目を閉じて、リラックスをして……」
 ぶっ、と椅子に腰かけて目を閉じていた選手のうちの一人が肩を震わせ、笑いをこらえている様子が画面の端の方に映り込む。その選手以外にも、どうやら皆半信半疑の様子で、ただじっと大人しく金成さんの声に耳を傾けてる様子だった。
「リラックスが肝心なのです、リラーックス……リラーックス……ゆーっくり息を吸って、そして、吐いてー、はい、吸ってー、吐いてー、」
 それでもまだ真剣に催眠術をかけようとする金成さんの視線がカメラの方を見る。
「あなたはだんだん眠くなる……、眠くなりそして、私の声を聞くと、すぐに、たちまち、猫になってしまうでしょう、」
「ぶふ……っ、……くく、」
 画面の中で選手が肩を揺らす様子につられて、動画を見ている俺までも堪えきれずに噴き出してしまった。こんな催眠術にかかる方がどうかしてるんじゃないか、そう言いたくなるくらいのうさん臭さに、どうしようもない可笑しさが込み上げてきていた。それでもまだ動画の中で催眠術をかける展開は続いていて、いまだに主役であるベテラン選手は笑わずに、金成さんの声に身体を揺らしているようだった。
「あなたはもう猫です、ほら、返事をしてください」
 金成さんに声をかけられた選手のひとりが、迷いの表情を浮かべながら、ゆっくりと口を開いていく。
「にゃ、にゃー……」
 その響きはどう考えても忖度以外の何も感じられない人の返事だったけれども、動画内では不思議な盛り上がりを見せ、『大成功』と書かれたテロップが大きく画面の真ん中を覆い隠していった。そのあまりにも強引な編集の仕方に俺が声を上げて笑い転げていると、ベッドの隣に潜り込んできたツッキーが、呆れた表情でため息をついていた。
「ひどすぎるでしょ、その動画」
「うん、すごい、……ふっ、ははは、でも、面白いよ、これ」
「どこが?」
「ツッキーちゃんとかかってるフリ、してたし」
「それは、一応……、そういう企画なんだから、それなりにする……でしょ」
「ツッキー本当にかかってた、とか、ないよね?」
「ないから。あんなのにかかる方が、どうかしてるから」
 ニヤニヤする俺を睨んでくるツッキーの顔には心底嫌そうな感情が滲んでいたけれども、俺はその反応含めて面白いものを見た気になって、浮ついた気持ちのまま、Youtubeの他の動画ページへとリンクをたどっていった。オススメ動画のひとつにサムネイル表示された猫の画像を見つけ、その色味と姿かたちに、ツッキーが猫になったら、こんな感じだろうか、と反射で想像を膨らませていた。
「ツッキーが猫だったら、このアビシニアンみたいに綺麗な毛なみをしていて、きっと撫でたら、すごく気持ちが良いんだろうな」
 スマホに映し出した猫動画を差し出してそう告げた俺に、ツッキーはかなり不服そうな反応を示していた。
「やっぱり僕が催眠術にかかった方が面白かった、って言いたいの?」
「違うよ」と、むくれたツッキーの顔に、俺は一生懸命首を振って否定した。
「本当に?」
「本当だよ、だって、そんな、ツッキーが可愛く『にゃー』って鳴くところが世界中に配信されたら、俺、どうしたら良いか、本気で困ってたと思うし」
 俺の返事を耳にした瞬間、ふっ、と俺の顔を見たツッキーがほんの少し動きを止め、そして、「何それ」と口にしながらひとしきり笑って見せた。その笑い声は高らかで、どうやら損ねていた機嫌はすっかり直っているみたいだった。その横顔に俺は誘われたような気がして、悪ふざけの調子でツッキーに向けて伸ばした人差し指の先で、くるりと一周、円を描いて見せた。
「ツッキーはだんだん眠くなる……、眠くなってそして、猫になるぅ……」
 俺の声を聞いた瞬間パッと笑うのを止め、ツッキーは俺の顔をじっと見つめてきた。その視線があまりにも真剣で、俺もつい口をつぐんだ、その時。
「にゃー」
 目の前のツッキーが、一声、鳴いた。まさか、と目を丸くした俺に対し、目の前のツッキーが意地悪そうに唇の端を緩めていく。
「なんてね。……そんな簡単にかかるわけないでしょ」
 ぷ、っと噴き出したツッキーにつられ、俺もホッとした拍子に笑いだしていた。
 そんなやりとりをしていたのが昨日のことだ。俺は頭の中でたどったツッキーとのやりとりを踏まえたうえで、まさか、と息を飲んでいた。もしかしてもしかすると、ツッキーは昨日の俺の悪ふざけに乗って、催眠術にかかったふりをしてくれているのかもしれない。
 目の前にいるツッキーが、さっき掲げた手で俺の肩のあたりを何度も叩いてくる。その仕草からは、言葉以上の何かの訴えを何とかして俺に伝えようとしているように思えて、それでもそのツッキーの手の指先は軽く丸められ、力が込められているどころか、ぽす、ぽす、と微かな音を立てるくらいの気弱さで押し当てられているばかりだった。それはまるで、飼い猫がなかなか起きてこない飼い主に対して爪を立てないように優しく訴えるときの仕草に思えて、俺は思わず目を疑った。
「にゃー、にゃー、にゃーにゃー」
 まだ続いているツッキーの鳴き声に、俺は返事の代わりに、大きくはっきりと首を縦に振っていた。そうか、ツッキーはやっぱり、今自分が猫になったと、そういうフリをしているんだな。じわりと胸のあたりに温かい気持ちが広がっていき、俺は自然とツッキーに対して微笑みかけていた。それなら昨日の夜、俺がしてみたい、と告げたことを試してみても怒られないんじゃないか。そんな淡い期待さえも芽生えてきた俺は、そっと、ツッキーの首のあたり、枕から浮いた左耳の付け根のそばに伸ばした自分の指先を、そっとその隙間に差し込んでいた。触れたツッキーの首元は温かく、いつも以上にハッキリと指先にツッキーの体温が伝わってきていた。いつもなら払いのけられる場所に触れている俺の指先を、目の前のツッキーは静かに受け入れようとしていた。
 これは夢かもしれない。自分に都合の良い展開が続く現状に、ふと疑いの気持ちを抱いた俺は、ツッキー本人に向け、今度は声に出して確かめてみることにした。
「ツッキー、さっきからニャーニャーって、猫みたいに鳴いて……どうしたの……?」
 ツッキーは相変わらず、必死に猫の鳴き声を繰り返すばかりだった。やっぱりこれは本当なんだ。信じられない現実を飲み込んで自分に言い聞かせるように、俺はツッキーの声に合わせて相槌を打った。そっか、ツッキーは俺の声に反応して、猫になったと、そう自分に言い聞かせているだけなんだ。それなら存分に俺も付き合ってみよう、と、俺は自分の指先を、しずかにツッキーの肌の上に滑らせていった。
 ツッキーの形を確かめるように、指の腹をつかってその肌の上をゆっくりと撫でていく。首から耳の付け根、うなじにかけて指を這わせると、いつもなら絶対に拒否するはずのツッキーは、振り払うどころか、俺の手に肌を添わせるみらいにして、そっと自分の身体を押し当ててきた。それがまるで本物の猫の仕草のようで、俺は思わず顔をほころばせ、猫になってしまったツッキーに向け、声をかけていた。
「気持ちいい?」
 目を合わせていたはずのツッキーはゆっくりと脱力していき、少しずつ目を閉じていく。その唇の端は、はじめ引き結んでいた固さのある様子から、段々と柔らかく、微笑みの形へと移り変わっていく。それは俺の問いかけに対する肯定の返事として、間違いないものだった。俺はそれが何だか妙に嬉しくて、つい、自分の指先をツッキーの首元から頭の上へと移動させていた。俺が撫でる場所を変えるために指先を浮かせると、その隙間を失くすように、俺の手に向かってツッキーの肌が近づいてくる。もっと撫でろと要求するみたいに押し当てられるツッキーの身体は温かくて、本当に大きな動物を撫でているような、そんな気になっていく。拒否するどころかツッキー自身が肌を押し付けてくる、その仕草の愛おしさに、俺は思わず声に出して感情のままに言葉を囁いていた。
「ツッキー、可愛い」
 俺の手の動きに身をゆだねているツッキーの表情はあまりにもとろけきっていて、普段では決して見せないその顔つきに、俺の顔も緩みっぱなしになっていた。俺のよく知るツッキーが猫のように目を細め、そして猫みたいに身体をくねらせて俺の手の動きに満足そうに微笑んでいる。それが何だか妙に嬉しくて、俺は思わずツッキーの身体を抱き寄せていた。こんなかわいいツッキーが見られるなんて、本当はまだ俺は夢の中にいるだけなのかもしれない。
 抱き寄せたツッキーの髪に鼻先を埋め、ゆっくりとその匂いを感じ取るみたいに、胸の奥いっぱいまで息を吸ってみる。よく知るツッキーの匂いに浸りながら、俺は、ツッキーの身体の形を味わうかのように、二つの手でゆっくりとその背中を撫でていた。
 俺の腕の中で丸くなったままのツッキーの呼吸と体温は心地いいリズムと温度を俺に感じさせ、俺はそのあまりの心地よさに、そっと意識さえも手放すかのように、目を閉じていた。俺の腕の中に抱え込まれたツッキーの呼吸が、安らかな寝息へと変わるころ、俺も誘われるように、再び眠りの世界へと導かれていこうとしていた。










RTS!!34の差し入れとしてお配りしたカードに添えたSSとなります。
イベントにて配布したペーパーSSと対になっています。