ある朝、目が覚めると、僕は一匹の猫になっていた。
 目が覚めて数秒で、ベッドに横たわる自分の異変に気がついたわけではない。視界にまず飛び込んできたのは隣に寝そべる山口の横顔で、気持ちよさそうに寝続けているその顔を見やりながら、そういえば昨夜、山口の家を訪れてそのまま泊まっていったのだった、と確認するまでもない事実を思い返すことはしていたように思う。目の前で寝返りを打った山口が身体ごとこちらを向き、急に高まった圧迫感に顔をしかめてその肩を押し戻そうとした、その時だった。伸ばした自らの右手の異変に気付かされた途端に、僕はほんの数秒、思考を確実に停止させていた。
 毛だ。まず先に頭に浮かんだのは、たったそれだけの文言だった。自らの肌の上に、茶色く短い猫の毛のようなものがびっしりと生えそろって、皮膚を覆い隠している。それどころか、ドキリとした自分の感情に合わせて、開いた指の先からは、これまた猫のように鋭く弧を描いた獣の爪が飛び出していた。何が起きたのか。手の異変を確認した段階で、ようやく僕は自分の身体を見渡そうとした。身体を覆い隠していた掛け布団の端を手でつかみ、ゆっくりと上に引き上げていく。そこには、見慣れた自分の人間の身体の代わりに、茶色い毛並みをした猫の身体が布団の中にしっかりと横たわっていた。思わずその身体を手で撫でさすった。皮膚の感覚は、確かにこの茶色い獣の身体が自らのものであると証明していた。
「んん、さむ……」
 むにゃ、と口を開いた山口の手が、布団を引き寄せる。布団の中を覗き込むために作り上げた空間が一瞬で閉じられ、僕の身体は再び柔らかな布団に覆い隠されていった。
 隣で未だ気持ちよさそうに寝続けている山口の顔を睨みながら、僕は明らかにムッとしていた。不本意ながら毛まみれになってしまった獣の手で、仕方なく山口の頬のあたりを軽く叩いてみる。
「ちょっと、山口、起きて」
「ん……あと五分だけ……」
「寝ぼけてないで、早く起きろ、って」
 んん、と唸るばかりで、山口は一向に目覚めようとしない。伸ばした手の違和感に気持ちが萎み、思わずひっこめる。よく見れば内側にはピンク色の肉球まで付いていて、どう考えてもネコ科の動物の前足にしか思えなかった。そのままその手で自分の顔を触る。口、鼻、耳、頬……触れば触るほどそれらは見覚えのある生き物の特徴を写し取っていた。これは、どう考えても、猫だ。その瞬間、ようやく僕は自分が猫になってしまったのだと自覚していた。
「んん、……へへ、」
 隣で眠る山口は相変わらず気持ちよさそうに寝息を立てながらニヤニヤ笑っている。どうせろくでもない夢を見ているんだろう。
「こっちはそれどころじゃないんだけど……まったく、」
 結局、この状況を打破したい一心で、爪を出した前足で山口の頬をひっかいてみた。痛みに驚いたのか山口の身体は大きく震え、ハッと強く息を飲んだかと思うと、ようやく目を見開いた。
「えっ、あっ、何っ、何が……っ、……んっ?」
 爪を出した手を構えたままの僕と、山口の、目と目が合う。今の自分の目はどんな色をしているのだろうか、そんな心配をする僕の顔を見つめる山口は、そのまま数秒が経っても、相変わらず不思議そうな表情で、大げさな瞬きを繰り返すばかり。
「どうしたの、ツッキー……?」
 どうしたもこうしたも、あるものか。そう思いながら僕は口を開く。
「見て分からないの、何が起きてるか」
 存分に睨みを利かせた僕の顔を見つめ、山口は未だに不思議そうな顔で首を傾げるばかりだった。まだ寝ぼけているのか。イライラしながら見せつけるように、毛に覆われた前足で、その肩のあたりを大げさに叩いていく。
「こんな状況で、のんきに寝続けてる方が、どうかと思うんだけど?」
 嫌みを言った僕の口元を見る山口の表情は変わることなく、それどころか、へにゃりと緩んで笑ったように見えた。
「は?」
 怒りで顔を歪めた僕の首元に、山口の手が伸びてくる。するりと毛に覆われた肌の上を山口の指がなぞっていく。何かを確かめているのだろうか、と思った矢先、
「ツッキー、さっきからニャーニャーって、猫みたいに鳴いて……どうしたの……?」
 まだ眠そうな顔つきのまま、やわらかい笑みを唇の端に浮かべた山口が、そう告げた。その一言にドキリとして、
「は? 何言ってんの? 寝ぼけないでくれる?」
 そう言ったはずなのに、山口は聞き受けるどころか、うんうん、とまるで赤ん坊やそれこそ小動物の様子を受け流すように、てきとうな相槌を二、三度繰り返すだけだった。まさか、と僕はある仮説を抱くと同時に、口を閉ざしていた。身体だけでなく、声も言葉も動物のものになってしまっているというのか。さっき僕が発した声も言葉も、全て。
 あまりの衝撃に黙り込んだ自分に対し、山口の手はいまだに僕の耳から首元をゆっくりと撫で続けていた。その手の動きが犬や猫に触れるときのそれであると気付いた途端、だからこんなにも心地いいのか、と気づかされる自分も存在していた。山口の指や掌が毛の流れに沿って、時折指を立てながら肌の形をなぞるように撫でていく感触は、これまで感じたことのない、不思議な心地よさに満ちていた。
「気持ちいい?」
 寝ぼけた顔で目を細めながら、枕に頭を並べた山口が僕の顔を見つめ、そう囁いた。その声の柔らかさも相まって、つられて僕も自然と目を細めていく。額の毛を分けるように山口の指が動き、そのまま顔の形を確かめるように頬を撫で、首から鎖骨のあたりへと少しずつ下りていく。すべての思考をとろけさせるようなその感覚に促されるように、気づけば僕は山口の手に向け、自らの肌を押しあて続けていた。
「ツッキー、可愛い」
 ふふ、と笑う山口の声など、聞こえないふりをしよう、と思った。今のこの自分の態度は、猫になってしまったがための不可抗力によるもので、普段の自分の意志とは全く関係がない、これは不測の事態における不可抗力、……そう自分に言い聞かせ、僕は山口の手に自らの頭をすりよせていた。その動きに応えてくれたのか、山口の腕は僕の身体を、ゆるい動作で抱き寄せ、手は僕の背中をふわふわと撫で続けていた。山口は僕の頭の上に顔を押し当て、ゆっくりと、そして嬉しそうに息を吸いこんでいく。その息の温度がひどく安らかな心地がして、僕は気づいたころにはすっかり、両の瞼を下ろしていた。山口の腕の中は、いつもの何倍も居心地のいい感覚で満たされ、僕は夢見心地で呼吸を続けるばかりだった。
そうするうち、山口の方が先か、僕の方が先か、あまりの心地よさに二人とも、二度目の眠りの中へと意識を奪われていった。溶けるように失われる意識の縁で、僕はぼんやりと、こんなことを考えていた。次に目が覚めた時、僕は一体、どちらの自分で目覚めるのだろうか。その答えを知るのは、もう少し先でも構わない、そう思えるほどの強い睡魔に、僕はすっかり引きずり込まれてしまっていた。