「山口、早くしないと校門締められるんだけど」
 部室のドアに向かって立っているツッキーが振り返りながら俺に声をかける。分かってる、と口にしながら、大急ぎで鞄に荷物を押し込み、部室の唯一の窓の戸締りを確認するなり、俺は大急ぎで立ち上がってツッキーの背に追いついた。ツッキーを押し出すようにして部室の外に飛び出し、大慌てで部室のドアの鍵を差し込み、施錠する。ガチャリ、と鍵の回る音を確認してから鍵を引き抜き、ポケットに押し込みながら振り返って、そこで、俺は自分のいる場所の違和感にようやく気が付いていた。
「あれ……?」
 俺の視界に飛び込んできたのは一面の白。部室を出て部室棟の外廊下に立っているはずの自分は、何故か辺り一面真っ白な壁に囲まれて立っていた。
「ここ、どこ……?」
 見れば隣にツッキーが立っていて、俺の声に反応して振り返ったようだった。俺の背にある、さっき施錠したばかりの扉を見た後で、その脇にある壁に手をついて、二、三歩、そのまま壁を伝いながら歩いていく。五歩も歩かないうちに角にぶつかったのか、慎重に壁を触りながら、ツッキーが進む方向を変え、さらに壁に沿って歩いていく。冷静に状況を把握しようとするツッキーの背中を見やってから、俺は、何も考えずに、さっき自分たちが出てきたはずのドアのノブに手をかけた。右に回そうとしても左に回そうとしても、動かない。もしや、と思い、さっきポケットに押し込んだばかりの鍵を取り出し、目の前のドアの鍵穴へと差し込んでみる。いつもと同じ感覚で鍵を右方向へひねってみたけれど、鍵は一向に動いてはくれなかった。
「山口、ちょっと」
 少し離れた位置からツッキーの声がして、俺は鍵を引き抜いてから声の方向へと顔を向けた。視線の先に写ったツッキーは、壁の一方向を指さして、俺に視線を向けていた。
 促されるままにツッキーの指さす方に目をやれば、そこに大きな文字でこう書かれていた。
『キスするまで出られない部屋』
 え、と目を見開いた俺の目の前で、壁の上に、さらなる別の文言が滲み出てくるのが見えていた。
『お互いの好きなところ五か所を選んで、それぞれキスしないとこの部屋からは出られません』
「え、え、なにこれ、どうなってるの?」
 辺りをきょろきょろ見回す俺に対し、ツッキーは仕方ない、と言いたげな様子でため息を吐いた。俺の顔をまっすぐに見つめながら、一歩、さらに一歩、俺との距離を縮めようと歩み寄ってくる。
「え、ツッキーどうしたの? え、何?」
「そうしないと出られないんだったら、そうするしかないんじゃないの」
「えっ、本気? いいの? え? つまりそれって俺たちの様子を今も誰かが見てるってことだよね? いいの?」
 俺の目の前で足を止めたツッキーが、ぐ、と言葉を飲み込むのがわかった。俺の顔を見下ろしながら、不服そうに唇の先をとがらせている。
「だってこれ、どう考えてもネットとかでよく見るパターンのやつでしょ」
「パターンって何? え、ツッキー何か知ってるの?」
「うるさい、山口、いいから黙れ」
 反射で黙った俺の肩を、ツッキーの手が上から押さえつけるように掴んできた。その手の強さにドキリとしながら、俺はツッキーの次の動作を、ただじっと待つために身構えていた。ツッキーの視線は俺の頭の先に向かい、俺のつむじのあたりにツッキーの顔が近づいてきた。ちゅ、と頭の上から音がして、俺はキスされたのだと、その瞬間に自覚をした。
「一つ目」
 そっと囁いたツッキーが、俺の頭から顔を離す。見上げる俺の視線とツッキーの視線がぶつかり、ツッキーの目が俺の目を見つめていることに、俺は思わず息を殺していた。ツッキーの口先はさらに俺の顔との距離を近づけて、俺はその近さに驚きながら、自然と目を閉じていた。ふっ、と触れられた熱は俺の目の上、瞼の位置に一瞬近づいてすぐに離れていった。
「これで二つ目」
 いつもはされない身体の場所に触れられている、この状況に、俺の頭の中は混乱と驚きと嬉しさと戸惑いで、ぐちゃぐちゃになっていくようだった。そっと押し上げた瞼の向こうで、ツッキーは俺の顔を見ることなく、今度は俺の首に向けて頭を傾け、近づけようとしていた。
「山口、頭、上げて」
「う、うん……」
 視線をそらしながら顎の先を上げると、首元に出来たわずかな空間に滑り込むように、ツッキーの鼻先が潜り込んできた。緊張で肩を競り上げている俺のことなどお構いなしに、ツッキーの唇がさらに近づき、俺の喉仏の上へと押し当てられていた。
「三つ目」
 囁くツッキーの声を耳にしながら、ツッキーが今、確信をもって俺の好きだと思っている場所を選びながらキスしてくれているのだと、そう思い出していた。最初は髪、その次は瞼、そして今は喉。自分のそれらをツッキーが好きだと思ってくれていたことが意外だと感じる反面、そう思ってくれていたことに嬉しさが滲んで、自然と顔を緩めていた。
「四つ目」
 ツッキーは制服のワイシャツの上から俺の肩の上に唇を押し付けると、そう囁いて顔を離した。ここまできて最後にツッキーが選ぶのは自分の身体のどの場所になるんだろうかと期待する俺の前で、ツッキーは俺の右手をそっとつかんで持ち上げた。ツッキーの口元へ引き寄せられた俺の右手は緊張で手汗が滲んでいるのが、確かめなくても分かっていた。ドキドキしながら唇を引き結んでいると、ツッキーは俺の手のひらの真ん中を、そのまま唇の上へと押し当てていった。
「これで五つ」
 汗の感触が気持ち悪くはなかっただろうかと考える俺の目の前で、ツッキーは平然とした顔でそう告げた。俺はとっさに自分の右手を引き戻しながら、今度は自分の番だと覚悟を決めて、ツッキーの肩に手を添えた。俺が首を伸ばして顔を前に押し出したのを見て、ツッキーが気を利かせて軽く頭を下げてくれた。俺はお返しの気持ちも込めて、サラサラのツッキーの髪に自分の口を押し当てた。鼻先いっぱいにツッキーのシャンプーの匂いがして、胸の内側がくすぐったいような気持になった。
 これでいいのかな、と心配になりながら一度距離をとった俺の顔を、ツッキーが見つめていた。視線の合ったツッキーの目の色の綺麗さに俺は息を飲みながら、何も考えずにその瞳の上に顔を近づけていた。俺が触れる直前、ツッキーの瞼が動き、俺の唇の上をその長いまつ毛がなぞっていった。その感触にぞわぞわしながら、不思議な心地よさに俺は唇の端を緩めていた。
「全部同じところ、ってわけじゃないでしょ?」
 俺の顔を見たツッキーが不思議そうに顔をしかめて言う。
「わざとじゃないよ、たまたま一緒なだけで、」
 む、と口を尖らせたツッキーの鼻先が視界に映り、俺はその先端の美しい形に目を細めるようにしてキスをしていた。
「ツッキーの髪も目も鼻も、俺と違って綺麗だな、っていつも思ってたから」
 言い訳みたいになってしまったけれども、思うままに告げた俺の言葉を、ツッキーは受け止めた途端に照れくさく感じたようだった。視線を逸らすように、ほんの少しツッキーが頭を横に向けると、俺の目の前に白く薄い肌に形どられたツッキーの左耳が近づいていた。その耳たぶの柔らかさを思い出しながら、俺はその曲線の上に小さくキスをする。今も照れてほんのり赤くなっているツッキーの耳に唇で触れると、いつも幸せな気持ちになっていく。
 ふふ、と笑った俺に向け、ツッキーは早くするように急かす視線を投げかけていた。俺はどこにキスしようかと考えながら、目と鼻の先にあるツッキーのシャツの首元から顔を出している鎖骨の骨の盛り上がりを目にして、そうだ、と勢い付けて顔を近づけた。
「ん、」
 驚いた様子のツッキーが息を飲むと同時に短い声を上げたのが聞こえてきた。その響きに身体の中の何かが熱くなるのを感じて、俺はその衝動のままに、ツッキーの首に、続けて肩の上に、唇を押し当てていった。
「ちょっと、山口、」
 頭の上から声がして、俺はハッとしてツッキーの顔を見た。俺の視界いっぱいに映るツッキーの顔は、真っ赤に染まっていて、困ったような、焦るような、そんな表情を浮かべていた。
「もうとっくに五カ所以上してるんだから、もう充分、良いでしょ」
 ツッキーに言われて、五カ所、という数の指定があったことを思い出していた。そういえばそんなルールだった、と目を見開く俺を見下ろすツッキーの顔は、苦々しい表情を浮かべながらも、その時特有の、上気して火照った色を前面に滲ませていた。
「ご、ごめん、俺、つい、」
 止まらなくなって、と言い訳しながら手を離すと、その手をツッキーが追いかけるように握っていた。え、と身体を固くした俺の目をのぞきこみながら、ツッキーの唇が苛立ち交じりに言葉を発する。
「それで、肝心なところはしなくても、良いっていうの?」
 切羽詰まった様子のツッキーにそう告げられては、俺は断る方法を知らなかった。ツッキーの顎に手を添えて、思考を止めたまま俺は顔を近づけていった。いつもと同じ角度、同じ速度で重ねた唇の感触はいつもと変わらず、俺はそれを楽しむようにツッキーの身体を抱き寄せながら何度もキスを繰り返していった。
 視界の隅で閉ざされていた扉がわずかに開くのを横目に見ながら、たった五カ所じゃ足りないに決まってるよ、とひとり胸の中でぼやいていた。俺にとって、ツッキーの好きなところ五つに絞るなんて、東大入試の応用問題よりはるかに難題すぎる課題に違いないんだから。










RTS!!32にて開催された山月ペーパーラリー企画 「1211通目のラブレター」参加のペーパーとして配布、公開したものの四つ目。