こくり、と重力に引っ張られた頭の重さにハッと意識を取り戻して顔を上げる。ペンを構えた姿勢のまま眠ってしまっていた頭を横に振り、なんとかこじ開けた両目で目を睨みつける。その半分以上埋め尽くされた見覚えのない文字列にゾッとして、しまった、と息を飲んだけれど、時間はもう元には戻らない。焦って書き留めようとペンを動かし始めたところで高らかなチャイムの音が鳴り響き、さらにダメ押しのように教壇の上にいる日本史の先生が口を開く。
「明日一回ノート回収するからな、全員忘れず出すように。以上」
 退屈な時間から解放された教室の中に、リラックスしたクラスメイト達の声が響き始める。せめて目の前の黒板に残されている板書だけでも、と必死に書き始めた俺の隣に、スッとツッキーが立って、俺のノートを覗き込みながら、重たいため息をこぼしていく。その表情を見上げるまでもなく予想が出来た俺は、ツッキーに向け、自らの両手を自分の顔の前ですり合わせた。
「ごめん、ツッキー、お願いだから、」
「ノート見せてほしい、って言いたいんでしょ?」
 はい、と俺が口に出す前に先読みしていたのか、ツッキーの手は俺に向けて日本史のノートをさっそく差し出してくれていた。
「ありがとう、明日の朝までには必ず返すから……!」
「それより、昨日何時まで起きてたわけ?」
 じっと睨まれ、俺は気まずさからゆっくりとツッキーから顔を逸らした。昨日夜遅くまでゲームをしていたせいで、寝不足になっただなんて、本当のことを言ってしまったら自業自得だと怒られて、ノートを返せと言われてもおかしくない。目をそらした俺の本音をツッキーは薄々読み取っているような予感もしたけれど、黙っている俺の横顔に、ツッキーは大げさなため息をまたひとつ、こぼしただけだった。
「どうでもいいけど、次の化学、実験の準備があるから早めに移動、って」
「あ、そっか、ごめん」
 気づけば教室の中の半分以上のクラスメイトはもう教室の移動を始めているみたいだった。日本史の教科書とノートはそのままに、俺は科学の教科書とノートを鞄から引っ張り出して席を立った。数歩先で俺を待ってくれているツッキーの背中に追いつくために駆け寄ると、俺はツッキーと肩を並べて廊下を歩き出した。昨日見たバラエティで流れていたアマゾン川の巨大人面魚捕獲の企画がヤラセだったかどうかについて話しながら廊下を進んでいくと、化学室のある階へと向かう階段を俺たちは軽いテンポで降りていく。少し急いで進んでいくツッキーの肩は、俺の半歩先に常にあった。
「だからアレは絶対ヤラセに決まってるでしょ、人面魚とか」
「え、でも、あの魚自体は本物かもって俺は思ったけど、」
「本物? どこが?」
 フッ、と俺の方へ顔を向けたツッキーの目と、目が合う。その瞬間、ぐらり、とツッキーの目線が揺れて、目の前にある広い肩が斜めにバランスを崩して離れていく。あ、と俺はとっさに手を伸ばし、目の前にあったその腕をつかんでいた。手の中にツッキーの腕の筋肉の感触を感じたところで、斜めに傾いたままのツッキーの大きな身体が、俺の目と鼻の先でようやく静止する。
「ツッキー大丈夫?」
 驚いた表情で俺を見上げるツッキーと目が合った。ツッキーは何度か大きく呼吸を繰り返した後で、ようやく、大丈夫、とそれだけを口にしていた。俺はホッと息を吐きながら、ツッキーの腕をつかんでいた手をパッと放す。ツッキーは気まずいのか、俺から目を逸らしたところだった。
「良かった、ツッキーが怪我しなくて……ほんと、ひやひやした」
 思わず緩む顔をツッキーに向け、俺は頭に浮かぶ言葉を何も考えず声に出していた。良かった良かった、とうなずきながら止めていた足を階段の次の段へ向けて下ろす。ギュッと縮こまっていた身体が緩む感覚がして、俺は大げさに息を吐いた。その瞬間、今度は俺の足がズルリと滑る番だった。え、と目を見開いた時にはもう視線の先は斜め上にズレたところだった。重力に引っ張られるままに背中から落ちていく。
「ちょ、山口、……!」
 目の前にツッキーの腕が伸びてきて、俺の肩をつかもうと手の指の先が広がってくる。スローモーションのように間延びした感覚の中で、ツッキーの手が俺の手をつかみ、そして確かに握った瞬間、ぐ、と俺の身体がツッキーの身体を引っ張っていく感覚がした。ふっと空中に投げ出される感覚がして、あ、やばい、と思った時、目の前にツッキーの顔があった。ドン、と背中に鈍い痛みと衝撃を感じ、そのまま押し付けられるように俺は階段の踊り場の床に転がり落ちた。その刹那、ふわり、と唇に何かが押し付けられる感覚だけがして、気づいた時には、階段の踊り場の隅で仰向けに倒れた俺の身体の上に、ツッキーの身体が乗っかっていた。無意識に瞼を閉じていた俺の背中には熱い感覚があって、息ついたころには、身体の上から押さえつけられるような重みを感じ取っていた。何が起きているのか、分かっているようで分かっていない感覚が頭の中を埋め尽くしていた。階段から落ちた、ツッキーと一緒に。それだけは明確に分かっていた。自分が今どこにどうやって寝転がっているのか、ツッキーがどうして自分の身体の上にいるのか、そこまでは理解が追いついてはいなかった。
「う……」
 仰向けになった俺の上でツッキーが身体を起こす。その顔を見上げて、俺は思わず、
「ツッキー大丈夫?」
「は? それ、こっちのセリフなんだけど」
「頭、打ってない?」
「いやだから、それ、僕が言うセリフ」
「俺、変なとこ触ったりしなかった? 大丈夫?」
「変なとこ、って……」
 そう呟いた瞬間、ツッキーは急にあわてて俺から身体を離し、その場に立ち上がった。俺とツッキーの周りには、俺たちが階段から落ちた瞬間居合わせていたのか、心配そうにこちらの様子を見る生徒が数人、囲むように立っていた。その視線に追い立てられるように俺は急いで身体を起こし、その場に立ち上がった。背中は、じん、と熱かったけれど、別に大したことはなさそうだった。あたりに散らばったノートやペンケース、教科書をかき集め、そのうち自分の分を除いてツッキーに手渡しながら、俺はツッキーの顔を見上げて声をかけていた。
「ツッキーはなんともない? 大丈夫? 顔、赤いけど、どこかぶつけたりしてないよね?」
「別に、なんでもないから」
「ほんと? 俺、保健室、一緒に行こうか?」
「だから、それ、お前が言うセリフじゃない、ってさっきから、」
「あ、授業、もう始まるんじゃない? 急ごう、ツッキー!」
 パッと立ち上がった俺を見て、ツッキーが呆れた顔でため息をついた。何か言いたげな様子で唇を噛み、化学室の方へと身体を向けたツッキーの横顔は、やっぱりいつもよりかなり赤く火照っているように見えて仕方がなかった。

 その時ツッキーがなぜ赤面していたのか、俺が本当のことを知ったのは、それから半年が経ち、俺とツッキーが付き合いだして初めてキスをした、その直後のことだった。あの空中で触れられた唇の感触の正体を、俺はその時、ようやく答え合わせしたのだった。






マシュマロでいただいたお題「事故でチュー」を元に書かせていただきました。