この日本という国の中で生きている限り、自分はもう平均で普通の生活なんて送ることはないんだな、と、そんな風に考えるようになったのは、いつのことからだろう。日本において、成人男性の平均身長は170cm前後くらいだと聞く、それもあってか、数年前に高校生男子の平均が175cmを越えたというだけで、全国ネットのニュース番組でさえその話題を取り上げて報じるくらいの国なのだから、この自らの195cmという身長がいかに常人からかけ離れているのかについては、考えるまでもないことだと充分理解している。この国の公共物は全部自分にとって、どれもこれも、「少し」か、あるいは「かなり」小さいのだ。そんなことは二十何年生きてきた人生の生活の中で慣れきって諦めて、飲み込んできたことではあったのだが、どうしても、ふとした折に触れて、不意にそれを理不尽であると強く突きつけられる瞬間がある、という事実については、どうしても否定できなかったりもするのだった。
 寝ぼけた頭を金づちで殴られたような衝撃を右肘に感じ取った直後、そんなどうでもいい考え事が、数秒、頭の中を駆け巡っていった。早朝のキッチン、水を飲もうと立った蛇口の前、ふと振り返ってコップを取り出そうとした食器棚の扉の角に、僕は自らの右腕の肘の部分を盛大な音ともに強く打ち付けていた。引っ越して一年にもなる山口とのこの新しい住まいは、ごく普通の、平均的な規格によって設計された賃貸のマンション一室のせいもあって、ふと忘れたころに自分の身体との不一致さを教えてくる。普段ではありえない失敗だったとしても、こんなふうに、こちらがぼんやりと気を抜いているときを狙いすまして、突如、容赦なく襲い掛かってくる。
 肘の先、じん、と痺れたファーストタッチから、強い衝撃が腕の中の神経を伝ってビリビリと震えを起こしながら、手首の先と肩の付け根の上下、二方向にわたって、一瞬で痛みと合わせて駆け巡っていく。同時にガチャンとガラスの割れる音もしたのは、持ち上げようとしたガラスコップが滑り落ちて欠けたからだろう。その音に驚き慌てふためいた様子で、部屋の奥の寝室の扉から、一瞬で顔を出した山口が、駆け込むようにキッチンへと走ってきた。
「ツッキーどうしたの、すごい音がしたけど大丈夫!?」
 目を白黒させながら声を裏返しつつ尋ねた山口が、僕のことを傍らから見下ろしていた。神経から脳の奥まで痺れるような痛みに歯を食いしばって耐えながら見上げれば、半分寝ぼけた顔つきの山口と目が合った。その心配そうな表情に向け、大丈夫だと返事をしたい気持ちは有り余っていたのだけれど、どうしても、強く脳みそを震わせた痛みによって、つられて痺れた舌の先は上手く動いてはくれなかった。
「ツッキー怪我してない? 大丈夫? どこぶつけたの? 肘?」
 まだ目覚めて一分も経っていないはずの山口の声が矢継ぎ早に降りかかってきていた。その質問にとりあえずうなづいて背中を丸めると、ようやく、しかめていた顔の瞼を押し上げることが出来るようになっていた。とっさに当てていた左手の内側、自らの右腕の肘のあたりを恐る恐る目で確かめてみる。ビリリ、とその瞬間、目に飛び込んできた赤い掌の光景と同時に、ぶつけた衝撃の痛みとは別の痛みが微かに熱を発していた。恐る恐る左手を離し、そぅっと右腕を伸ばしてみれば、落としたガラスコップの破片がぶつかったのか、皮膚が切れた時特有の、ぴりぴりとした痛みが、そこを中心に広がっていた。ちょうど僕の目から死角になっているのか、いくら右腕をひねったりねじったりしてみても、その傷口は目で確かめられそうになかった。仕方がないので、目の前にいる山口に見てもらおうと視線を向ければ、山口も僕の意図を読み取ってか、その手をこちらに伸ばしてきていた。
「ツッキー、ここ、切れてる」
 傷の確認のためか、山口の視線が顔ごと近づいて、至近距離でそう囁かれる。
「傷口のところ、綺麗にしてくれない?」
 まだ眠気で瞼の重そうな山口に向け、申し訳なさを感じながらも、仕方なく頼むことにした。山口は僕の傷のあたりをじっと見たまま、何故か、ほんの数秒の間、そのままの姿勢で動かずにいた、かと思った瞬間、僕の肘を支える手はそのままに、その口を僕の肘に近づけ、あろうことか、その唇の端からのぞかせた赤い舌の先で、僕の肘をゆっくりと舐めあげていった。じわり、と肘から伝った山口の舌の熱さは僕の背中のあたりにまで一瞬で広がっていき、その感覚に、僕は思わず身震いをしていた。
「ちょ、っっと……何してんの?」
 え、と、目を合わせた山口の顔は、まだ半分眠りの中にあるようにぼんやりとしたものだった。重たい瞼の下からのぞく、とろりとした山口の視線に見つめられると、まだ腰の付け根のあたりに余韻を残す山口の舌の感触が、再び強くくすぶってきそうに思えて、僕は無意識に唇を噛みつつ、その衝動を抑え込んでいた。こいつはまだ半分眠ったままで、寝ぼけて変なことをしているだけなんだ、そういう誘いの意味ではないはずだ……そう自分に言い聞かせ、差し出している右腕を引き戻そうとする。と、触れていた山口の手の先が、今度はしっかりと僕の右腕の真ん中をつかみ、引きとどめていた。
「何すんの」
 思わず睨み、言い返す。そんな僕の目をのぞきこむようにして、山口の顔が近づいてくる。そっと触れられた唇の上に、さっきまで右腕に感じていた山口の熱い唇の感触が伝わった。
「ごめん、」
 一瞬触れた後に、ほんの少し距離を置いて囁いた山口の唇が今度は深く重なってきた。ひとしきり唇を合わせ、舌を絡めた後で、ようやく息をついた山口に肩を抱き寄せられた。
「ツッキー、かわいいなぁ……って、思って」
 理由なのか言い訳なのか、良く分からないことを耳元で囁かれ、反射のように、重いため息が出た。寝ぼけている方が山口はタチが悪いのだ、と今更になって思い出す自分が馬鹿らしかった。
「でもツッキー、さっき俺に舐められて、ちょっと、気持ちいい、ってなってたでしょ?」
 そんなこと聞くなよ、と心の中で毒づきながらも、寝ぼけながら目ざとく見ている山口の目と、隠しきれずに反 応していた自分のことを思い返して、顔が熱くなった。さっきまで思考をかき消すほど強い痛みを感じさせた肘の痛みも、疼くように痛んだ傷の感覚も、すべて今はもう山口から与えらえた感触と熱にすっかり塗り替えられてしまっていた。
「大丈夫、もう血は止まったみたいだから」
 安心して、と目を細め、山口は僕の肘に手を添えた。その指の触れ方に反応してしまいそうな自分の身体を憎らしく思いつつ、そんな風にさせたのは紛れもなくこの男のせいなのだと、そこだけは強く確信していた。やはり自分は普通にも平均にも程遠い人間になってしまったのだ。つい数分前まで考えていた文言が、ふと頭の中をよぎっていった。同じくこの国の成人男性の平均身長よりはるかに背の高いこの男の指先が、あからさまに自分のことを愛おしそうに触れてくる些細な動きのひとつだけで、こんなにも嬉しく感じてしまう自分が、もう普通になどなれるわけもない。でもそれでいいのだ、とも思う自分がいることを、同時に強く感じてもいた。
「肘だけで、満足したの?」
 だからその目をのぞきこんで、こんな言葉を囁けば、どんなことが始まるのか、僕はもう充分理解してもいるのだった。






マシュマロでいただいたお題「肘にちゅう」を元に書かせていただきました。