それは、一瞬、空耳ではないかと、自分の耳を疑ってしまいそうなくらい、あまりにもやわらかすぎる響きの音だった。学生時代、嫌というほど耳にしたあのチャイムの音。かすかに間延びしたその音が、どこからか聞こえたような気がした途端、思わず作業していた手を止め、床の上に腰かけたまま、顔を上げていた。視線の先に飛び込んできたのは、まだカーテンも用意できていない大きすぎる窓くらいで、ベランダへと続く南向きの窓ガラスの向こうには、どこまでも突き抜けるような、春の空が青く続いていた。その空の雲の隙間を伝ってくるかのように、そのチャイム音は、今度は音階がたどれるくらいの確かさで、大きく繰り返されていた。
「ああ、もうお昼か」
 少し離れたキッチンの方で、山口がつぶやく。自分と同じく、封をされたままの引っ越しの段ボールの山に囲まれながら、ため息をついたその様子に、山口も作業に疲れて集中を切らしてしまっていることは明らかだった。
「ねぇ、ツッキー、お腹空かない?」
 目が合うなり、山口がそう言うので、同意の意図をもって、その場に立ち上がった。まだキッチン用品も出し切れていないこの部屋では、食事の用意なんて出来そうにない。そうなると、次の提案は、おのずと見えてくる。
「一旦、休憩にして、どこかご飯、食べに行こうよ」
 半分予想していたとおりの山口の誘いに二つ返事で応えると、僕は財布とスマホだけをコートのポケットに滑り込ませて山口の後に続いた。まだ何もつけられていない頼りない新居の鍵を片手に、山口が慣れない様子で施錠をする。
「鍵、ここに入れたから、ツッキーも覚えていて」
 デニムの右前ポケットに鍵を滑らせるように放り込むと、山口は不安そうにポケットを布の上から何度も撫でさすった。それを見て、
「失くしたら山口の責任ってことでしょ」
 そんな冗談を言うと、えーっ、と軽い調子で不満の声が返ってきた。嘘、嘘、とつぶやいて通路を先に進むと、慌てた様子で山口が大股で肩を並べてきた。広くはないマンションの通路は、二人並んだだけで壁にぶつかってしまいそうなほどの横幅だった。狭い、と訴えるために肘を突き出したのに、なぜか山口は反対にぴったりと身体を寄せるようにしてくっついてきた。
「ちょっと、ここ、外なんだけど」
 小さい声で注意すると、誰か来たら離れるよ、と目だけで応えられ、それにイラっとして、ムッと口を閉ざした。浮かれて調子に乗っているな、と胸の内だけで言葉を吐く。説明するより早いだろうと、一足早く大股で進んでエレベーターに乗り込む。一歩遅れて乗り込んだ山口が僕の顔を見上げて嬉しそうに目を細める。山口が浮かれるのも無理はないか、と息を吐く。そういう自分も、今日が来るのを、口にはしないまでも、かなり楽しみに待ち望んでいた。
 駅前の商店街へと出ると、金曜の昼間だというのに、かなりの人が行きかっていた。まだ春休みの時期には早いというのに、ちらほら制服姿の学生のグループもいくつか目に留まった。
「暖かくて、良い天気だね」
 歩きながらのびをした山口が、のんきな様子で口を開く。
「俺もうお腹ぺこぺこだよ、ツッキーは?」
 僕も、と賛同して、お互いに、深く考えるのも面倒だという結論に至った上で、どこにでもあるチェーンのファミリーレストランに入ることにした。絶対に外れない、冒険しない、という点では悪くない決断だと、僕と山口が大手のチェーン店を選択することは珍しいことではなかった。
 通された席でメニューもろくに見ず、僕はオムライスを、山口はハンバーグのプレートを注文した。片付けの作業の息抜きと、空腹が解消されれば良い、とだけ思っているのは、山口も同じようだった。
 さほど待つこともなく出されたオムライスとハンバーグにそれぞれ舌鼓を打って、完食後、すぐに会計を済ませて店を出た。のんびりすればするほど、快適な新居のスタートが遠のくことはわかりきっていた。やる気に満ちていたわけではないけれども、日の明るいうちに終えたい気持ちには抗えず、一分でも早く戻って作業を再開したい気持ちで新居へと向かって歩いていた。
「ねぇツッキー、見てみて!」
 商店街の終わり、端の方の店の前を通り過ぎようかとしたところで、ふいに山口が声を上げた。食い入るように見ているその視線の先には、個人の店の小さな張り出し窓の中に、二つのカップとティーポットが飾られていた。その脇に並べられた紅茶のパックを指さし、山口が大げさな様子でこちらを振り返る。
「これ、ショートケーキの紅茶、って書いてあるよ!」
 言われて近づき、目をこらす。山口の言う通り、紅茶と思われるパッケージの表面には、本物そっくりなショートケーキのイラストがプリントされていた。カップの脇に手書きのポップが添えられているのを見つめ、その文面にざっと目を通す。
『ショートケーキのフレーバー紅茶です! ケーキと合わせても、お茶だけでも、贅沢なティータイムにおすすめです!』
 ポップの存在には目もむけない山口が、小さく、ショートケーキに合う紅茶って意味なのかな、と尋ねるようにつぶやくので、そっと、短い言葉で訂正をする。
「紅茶の茶葉そのものに、ショートケーキの香りをつけてある、ってこと」
 僕の説明を分かったのか、聞き流したのか、山口は、へぇ、とつぶやくと、今度は期待を含んだ目で僕の顔を見上げてきた。
「じゃあ、今日、これ買って帰ろうよ。片付けが終わったら、ご褒美として一緒に飲もう」
 にこにこと楽しげな山口の顔を見返し、なるたけ低いトーンの声になるように息を吐いた。
「このお茶だけを?」
 え、と声を上げた山口の目が見開く。目を合わせたまま、その身体を小さく萎ませるように背中を丸めていく山口の顔は、すっかりしょぼくれたものへと変貌していた。あまりの落胆ぶりに見ていられなくなり、顔を逸らしつつも説得するために、こう続けて告げた。
「……ケーキと紅茶があって、初めて成り立つんじゃないの? だったら、いっそ、普通の紅茶だけの方が良いと思うんだけど」
 むむむ、と山口のうなる声がして、すぐに、でもさ、とか細い声が続いた。視線を戻せば、申し訳なさそうな顔つきになった山口が、首をひねりながらブツブツつぶやいていた。
「今日、たぶん、ケーキを買いに行くには時間が足りないと思うんだ……、この辺にお菓子屋さんがあるのかさえ分かってないし……でもさ、だから、せめてこれだけでも、今日一日の終わりに楽しみになったら良いかなぁ、って……ほら、後に楽しみがあったら、あと少し、一緒に頑張れる気もするから……じゃ、ダメ、かなぁ……?」
 ちらちらこちらを盗み見る山口の視線と視線がぶつかって、僕は大きなため息を吐き出した。
「ダメ、とは言ってないでしょ……、ただ、まだガスも出ない部屋で、どうやってお茶、いれるつもり?」
 あ、とようやく思い出したのか、大きな口を開けた山口が一瞬、そのままの表情で静止した。
「あ、あぁ〜、そうだった……! でも、大家さんが遅くとも夜までにはって言ってたから、ちょうどいいタイミングで使えるようになったり、しないかなぁ、って」
「業者が来るまで、我慢できるの?」
 む、と口を尖らせた山口を見て、思わず自らの手で顔を覆いたくなった。
「わかったから、いますぐ、このお茶、買ってきたらどう? 代わりに、あっちにあった店に行って、僕が代わりに買い物済ませてくるから」
 ほらほら、と山口をせかすように手を振れば、僕の言葉の意図を汲み取れない察しの悪い山口は、しばらくその場で首を傾げ続けるばかりだった。あーもう、とつぶやいて、とどめを刺すように言葉を吐き捨てる。
「電気ケトル、これくらいの大きさのやつでいいんでしょ?」
 ざっくりと頭の中でイメージしている電気ケトルの大きさを、胸のあたりで両手を使って指し示す。そんな僕の手の動きを見届けて、ようやく山口は、僕の言わんとしていることの意味に気づいたようだった。一瞬で嬉しさを顔面にあふれさせた山口が、僕の顔をまっすぐに見上げてニヤけてくる。
「わかった、でも、ツッキーはここで待ってて! 一分だけでも待ってくれてたら、俺、今すぐ走って大急ぎで買ってくるから! だからその後いっしょに電気ケトル、買いに行こう! ね!」
 そう言いながら店の中へと駆け込んでいく山口の背を見送り、僕は思わず照れくささに顔を手で覆いたくなった。聞かなかったふりをして先に行ってしまうのも手だろうか、と考えだしたところで、宣言通り、本当に大急ぎで走って買ってきた山口が、その手に茶色の紙袋を握りしめてすぐさま僕の目の前へと戻ってきた。
「おまたせ!」
 息をきらせて僕を見つめるその笑顔に、むずがゆさを覚えていたけれど、それが嬉しくないと言いきれない自分に、笑ってしまいそうになった。
「今度ふたりで歩くときには、近くにケーキが買えるお店がないか、いっしょに探そう」
 あたたかな春の日差しに負けないくらいのやわらかな表情で見つめてくる山口と目を合わせながら、電気ケトルの入った買い物袋を片手に、新居までの道を二人並んで歩いて帰った。あと少し頑張るぞ、と意気込みながら嬉しそうにお茶の入った紙袋を振り回し歩いている山口の横顔を見やっては、いったいこれからどれくらいの、このむずがゆい感覚を我慢していくことになるのだろう、なんてことを考えていた。
 まっすぐ歩かない山口の手と、自分の手の先が軽くぶつかっていく。何度も繰り返される、そのさりげなく肌が触れて離れる一瞬の間に、ほんのすこし指先で山口の手の甲を撫でさすってみると、僕と似たようなくすぐったそうな様子で、山口が、はははと小さな声と一緒に笑いをこぼしてみせた。その明るい響きに、ふと、一緒に暮らそうと山口に言われたときに、素直にいいよと告げることができた過去の自分を、今改めて手放しに誉めてやりたいと、そんなことを思った。この胸の奥から静かに降り積もるように満たされていく春のにおいと、このふわふわとしたむずがゆさの感覚を、きっと自分はずっと忘れないままでいるのだろう。そんな気持ちを静かに噛みしめては、唇の端を自然と、緩めていった。






RTS!!31の差し入れとしてお配りしたカードに添えたSSとなります。
差し入れに選んだショートケーキのフレーバー紅茶のティーバッグとあわせて、当日はお渡ししました。