ツッキーが数か月ぶりに髪を切った。いつもの何倍も短く。特にその襟足の部分は信じられないほど短くされすぎていて、まるで刈り上げのようにその肌の色を髪の合間から覗かせるほどになっていた。
 夏休み明けの朝の通学路、いつもの待ち合わせ場所に立っていたツッキーの後ろ姿の時点から、俺はその変化をハッキリと読み取っていた。振り返らなくてもツッキーの表情が不機嫌に満たされているであろうことは、ひどくあからさまで、下手に触れてはいけない、と頭の中にとっさに強烈な警戒音が鳴り響くほどだった。だから俺はその髪型についてコメントをするタイミングを失ったまま、ぎこちなくも、
「おはよう」
と告げるなり、あまりツッキーの顔を見上げないようにしながら、ツッキーの左隣に肩を並べた。俺の存在に気づいたはずのツッキーも、いつもなら、どんなに不機嫌でも「おはよう」の一言くらいは返してくれるというのに、今日に限っては無言のまま、俺の半歩先へと急ぎ足で前へ進もうとした。
 学校の校舎にたどりついても、変わらずツッキーはだんまりを続け、教室のドアを潜り抜けた後でさえも、俺のことを一度も振り返ろうとしなかった。反対に、俺たちの分まで声を上げたのは、俺たちより先に登校していたクラスメイトたちだった。教室の中に突如現れた、髪の短くなったツッキーの姿を目に映した瞬間、誰もが驚きと好喜の感情をもって、その表情を明るくさせていった。数人のグループでそれぞれ集まっていた女子たちは顔を見合わせ、こそこそと耳打ちで何かを話し出し、それとは真逆の反応を見せた男子は、ツッキーの顔を見ては好き勝手に、それぞれ思うままの感想を口に出していった。
「月島イメチェン似合ってるな」
「夏休みデビューってやつか」
「月島はそういうの、嫌がるタイプかと思ってた」
「俺もそれくらい短くすっかな」
 そんな中をツッキーただ一人だけが無表情のまま突き進んでいき、いつも以上にけだるい様子で自分の席へとたどり着いては、その椅子に深く腰を下ろした。俺はとりあえず自分の席に鞄を投げ置き、これ以上誰かがツッキーの地雷を踏みぬかないよう、とっさに守ろうと駆け寄ったのだけれど、すでにその周りには、数人の男子と、いくつかの女子のグループが囲むように立ちふさがっていた。誰もが夏休み明けの浮かれた顔つきの中、中心にいるツッキーだけが、変わらずムスッとした様子で口を真一文字に引き結んでいた。
「月島君ってどこの美容院に行ってるの?」
「いつもカッコいいけど、短いと、もっとカッコよく見えるね」
「ねぇシャンプー何使ってるの?」
 女子の無責任な声にハラハラしているのは俺ばかりで、ツッキーは無表情のまま外界から自分を切り離すかのように目を閉じ、うんざりした様子で頬に手をついた。俺は囲んでいるクラスの面々の背後で、右に左に重心を移動させながら手を掲げ、もうツッキーをそっとしておいてほしい、と声をかけるタイミングを計ろうとして、出来ないままでいた。
 そうして何分過ぎたのか、五分も経たないくらいのタイミングで、チャイムが鳴った。ガラリと教室のドアが開いて担任が入ってくるのを合図に、クラスメイト達の姿がそれぞれ、割り振られた座席へと分散されて離れていった。俺はホッとして、後ずさりするように自分の席へと戻っていった。
「はい、点呼するぞー、席つけーお前らいつまでも休みのつもりでいるなよ、切り替え大事だぞー」
 いつもより長めの担任の掛け声に、めんどくさそうに皆が静まり返る。いつもと同じ光景に戻った教室の空気に、ホッと胸を撫でおろす。でもそれもつかの間の平穏で、全員そろっているか確認するために顔を上げた担任が、ふっとツッキーの方を見たかと思うと、その直後、珍しいものを見たときの、あのニヤッとした表情をその顔に浮かべた。
「月島、その髪、ずいぶんサッパリしてイイ感じじゃないか、似合ってるぞ」
 そう告げられたツッキー本人の顔を俺はちょうど斜め後ろの席から見ることは出来なかったけれど、ツッキーを除く何人ものクラスメイトたちが、同意の笑みを浮かべてツッキーの反応を見ようと、後ろを振り返った。ざわつく教室の中で、唯一、ツッキーの背中だけが、微動だにしなかった。
 ツッキーが数か月に一度、決まって行きつけにしている美容院の美容師さんを指名して髪を切りに行っていることは、俺は中学の頃からすでに基礎知識として知りつくしていた。ツッキーがその髪をシルエットごと変化させることはこれまでにないことで、いつも同じ印象になるように長さを整えることの方が圧倒的に多かった。それでも、いつも俺は、ツッキーが髪を切った翌日、決まって、ツッキーからその事実を教えてもらうよりも早く、その変化に気が付いては、それを見つけられた喜びを含めて、一秒でも早く告げようと心に決めていた。それがどんなに些細な変化であっても、俺は気づく自信があったし、実際に、クラスの誰もが見逃すような変化だった時、唯一、俺一人だけがそれに気が付いて、ツッキーを驚かせたことさえもあった。でも、今回は、違う。逆に誰にでもわかるほどの大きすぎるその変化に、俺はどう触れて良いのか、どんな言葉でツッキーに告げてあげればいいのか、まったくと言っていいほど、その「正解」を分からなくなっていた。ツッキーがこの夏休みの終わり、部活がオフになった唯一の休日に美容院に行ったことを、俺はすでに充分、予想してはいた。 というのも、最近のツッキーは自分の髪を邪魔そうに掻き上げていたし、早く髪を切りに行きたいとボヤいていたことも、俺は十分に知っていたからだ。でも、まさかこんな結果になるなんて。ツッキーの身に何があったんだろう。いつもの美容師さんにカットしてもらえなかったんだろうか。それとも、何かの手違いで切られすぎてしまったんだろうか。いくら考えても、その答えはツッキーに直接聞いて確かめるしか、確信を持てる方法は他には無かった。
 放課後、部活の時間になっても、ツッキーはだんまりを続けたままだった。朝に比べれば顔ににじむ不機嫌は薄まってきてはいたけれど、結局お昼の時間も、授業中も、部室に向かう道のりでさえも、自分からは何一つ声を発しようとしなかった。
「あ、月島、髪切ったんだな」
 部室の扉を開けた瞬間、振り返って目が合った主将が何の気なしに口を開いた。その声に悪意も好奇心も特に悪い要素は見つけられず、でもそれでも俺はドキリとしながら、ツッキーの肩越しに両手で作ったバツ印を突き出し、ツッキーから俺に視線が映った瞬間を狙って、シーっと人差し指を大げさに唇の前に突き立てた。それを最初に見つけてくれたのは東峰さんで、次いで菅原さんが気が付いて澤村さんの脇のあたりを肘で軽くつついてみせた。菅原さんを振り返った澤村さんが、不思議そうに首を傾げ、その目を見た菅原さんが、目の動きで俺からのメッセージを澤村さんに伝えようとしていた。ツッキーは俺と三年生のやりとりに目を向けることもなく、いつもの自分のスペースに真っすぐに向かっては、いつもどおりの配置で荷物を下ろし、何ごともなかったかのように、制服から練習着の運動服へと着替えはじめていた。
「あ、月島、なんだその刈り上、」
 体育館の入り口で出くわした、何故かすでに運動着姿の日向がそう口走った瞬間、俺はその口をふさいでいた。その様子を目にした谷地さんが、俺と日向に向けていた視線をツッキーの方に向け、なるほど、と何かを察した様子で深く何度もうなづいていた。
 部活の練習はいつも通り進んでいった。練習が始まってしまえば、誰一人、ツッキーの髪型を気にすることもなく、誰もがボールに視線を注いでいた。練習を始める前、ストレッチの時点で、部員どうしで密かに目線を交わしていたのも大きかったのかもしれない。俺が不安そうにツッキーの様子に気を配っていることは、先輩たちの目からしても明らかだったみたいで、俺が特に何かしらを口にしなくても、部員をはじめ、烏養コーチでさえ、それからはしばらく誰しもが見て見ぬふりをしてくれていた。
 練習も中盤にさしかかったところで、三対三のゲーム練習が始まった。まずは手慣らしと、影山と日向とツッキーが組み合わされ、相手チームとして菅原さんと田中さんと東峰さんが選出された。短い十二点マッチの練習だとしても、ゲームとあれば誰しもが本番さながらの緊張感をまとっていた。コート内の六人はもちろん、それを見て分析しようとする俺たち、コートの外側も、それは同じだった。
 まずは先制点、日向と影山が変人速攻でもぎとった一本に、田中さんが悔しそうに声を上げる。分かっていても拾えない悔しさを相手チームがにじませる中、ツッキーがコート後方をねらってサーブを打つ。きれいに東峰さんが拾い上げたボールが菅原さんのもとへと返る。ゆったりとしたオープントスに対し、ツッキーと日向がブロックのため並んで手を挙げたが、その脇をすり抜けるようにして田中さんのスパイクが打ち下ろされる。その先でコースを読んで待ち構えていた影山の腕に当たり、ボールはネットを越えて相手チームへと返っていく。狙っていたようにボールの真下に向け足を踏み出した菅原さんの両手が掲げられ、キレイなトスが上げられた。今度はツッキーと影山が並んでブロックに飛んだけれども、その壁をものともしない力強さをもって東峰さんのスパイクが打ち下ろされ、影山の腕を跳ね返したボールが道をこじ開けるようにして、床へと沈んでいく。そのフォローに日向が飛び込んだものの間に合わず、悔しそうに日向が床を手でたたく。今日のゲームも、ずいぶん白熱しそうだ。コートの中のツッキーを見つめていた俺は、思わず苦笑いを浮かべていた。
 その予想を裏切ることなく、ゲームが終盤を迎えるころには、コートの中の六人は汗だくになっていた。誰もが常に動き続けなければならない三対三の特徴と、短いゲームだからと休憩を挟まずに続けられているのが原因だと頭ではわかっていた。それでも、俺は目の前でプレーを続けているツッキーの首元に、いつもと比べようがないくらいのたくさんの汗が流れているのを見つけ、ひとり、ハラハラしていた。大丈夫かな、脱水にならないと良いんだけどな、と眉をひそめた俺の目の前で、プレーのために振り返ったツッキーの頭のあたりから、キラリと汗の粒が光を反射しながら零れ落ちていく。あ、と俺が目を見開くのと同時に、ツッキーを追い越すようにスパイクのために助走を始めた日向が俺の前を横切る。ジャンプする一瞬、大きく踏み込んだその身体が、俺の視線の先で、見事に足を滑らせ盛大にその場で床の上にひっくり返った。
 ギャーっと大げさな声を発して転倒した日向を、誰もが驚いた様子で見つめていた。その脇を、影山の手でトスされ宙を舞っていたボールが重力に従って床に落ちていく。てん、てん……と跳ね上がってから威力を失い転がっていくボールの脇で、反対に勢いをつけて大げさに日向がその身体を起こす。痛がる様子もなく、すぐさま右手の人差し指を突き立て、すぐ近くに立っていたツッキーの顔をめいっぱい指さした。
「転んだの、月島のせいだからな!」
 俺以外の、その場にいた全員が、日向の言葉に首を傾げていた。悔しそうに顔をしかめた日向がツッキーを睨みつけ、
「お前が急に、そんな刈り上げにするから!!」
そう叫んだ瞬間、首を傾げていた全員が、納得の様子で反応を見せた。そういうことか、と場が落ち着いたところで、
「刈り上げ、ってなんだ?」
影山だけが唯一的外れな反応を示していた。
「あれ、影山くんの目は相変わらず節穴ですか?」
「それで何でお前が転ぶ理由になるんだ、今のはただのお前の不注意だろ」
 睨みあう二人のいつものケンカが始まりそうになったところで、コーチの笛が鳴り、五分間、次のゲームまで休憩と反省会の時間となった。用具倉庫からモップを片手に戻ってきた谷地さんが、コートの中をぐるりと走ってモップをかける。この暑さじゃ仕方ないか、と苦笑いを浮かべツッキーを横目に見ていたコーチの視線も気にせず、壁際まで逃げてきたツッキーが、壁にもたれるようにして腰を下ろす。その横顔に慌てて駆け寄り、俺はツッキーに向け、タオルとドリンクのボトルを差し出していた。俺と目を合わせたツッキーが、落ち着かない様子で視線を逸らし、俺から受け取ったタオルで、その首元から襟足にかけて汗を拭いとった。
「別に、好きで刈り上げにしてもらったわけじゃないんだけど」
 その際にぽつり、とこぼした一言を、隣にいた俺の耳は聞き逃さずにいた。やっぱり不本意な結果だったんだ、と朝から抱いていた違和感が間違っていなかったことを知る。タオルを首にかけたまま、俺が手渡したドリンクを飲み始めたツッキーの隣に腰を下ろし、俺はそっと、おそるおそる声をかけていた。
「昨日、ツッキー、いつもの美容師さん、予約できなかったの?」
 む、とツッキーの横顔の唇の端に力が込められた。怒るかな、と不安で息をひそめたけれど、ツッキーの表情は、そこから大きくは変わらなかった。
「別に、……そういうわけじゃ、なかったけど」
 軽く、への字に口を曲げたツッキーが不満そうな声を出した。俺に対して怒っているわけではなさそうだ、とホッとしながらツッキーの様子をうかがっていると、その襟足の短い髪の間を縫って、大きく膨らんで輝いた汗の雫が音もなく首元を伝って、ツッキーの首にかかったタオルに浸み込んでいく様が、俺の目からハッキリと見えた。その光景に、思わず、きれいだな、なんて目を細めていたら、
「部活が忙しくて久しぶりになった、って言ったら、こうなった、ってだけ」
 まるで自分のせいじゃない、と言いたげなツッキーの声が、事実を俺に伝えようとしてくれていた。そうだったんだ、と俺は美容院でのツッキーと美容師さんのやりとりを想像した後で、大きくうなづいていた。それでも視線はツッキーの首元に向けたままで、その襟足の短くされた髪の毛の柔らかそうな質感に、何故か俺の胸は強く惹かれていた。すると、パッとツッキーの右手が首に当てられ、ちょうど俺の見ていた襟足のあたりを覆い隠した。え、と我に返った俺とツッキーの目が合う。
「さっきからジロジロ見すぎなんだけど……どうせ、似合ってない、って言いたいんでしょ」
「そ、そんなことないよ、ツッキーはどんな髪型でもカッコいいよ、ただ……」
「ただ?」
 聞き返されて、ドキリとした。自分でもなんて言おうとしていたのか分からなくて、俺はとっさに、
「触ってみたらどんな感じなのかなって、そう考えてただけで、その、あ、でも気にしないで、なるべく見ないようにするから、ツッキーの髪が元の長さになるまで、しばらくの間、俺、我慢して、」
「別に、我慢しなくたっていいけど」
 一瞬、何を言われたのか分からなくて、俺は目を見開いてツッキーの顔をじっと見返した。ツッキーは視線を逸らしたまま、首にかけていたタオルを取り外すと、ん、と俺に向けて襟足のあたりを中心に近づけてきた。
「触るくらい、好きにすれば? もう二度とこんな風に短くすることはないだろうから……後で触りたかった、って言われても困るだけだし」
 目の前に差し出されたツッキーの襟足は、短い産毛のような柔らかな髪の毛が全体的に汗で濡れ、しっとりと湿っぽくなっていた。え、え、と戸惑う俺の様子に気づかないのか、背中を向けたままのツッキーはそのままの姿勢で離れる様子もなかった。身体中を震わせるほどドキドキしている心臓の激しさに背中を押されるようにして、俺はそっと右手を差し出した。そっと、触れるか触れないかという距離感で人差し指と中指を当て、指の腹で撫ぜるように手を滑らせる。じわり、とツッキーの発した汗が髪の毛の先を伝って俺の指先に広がり、音もなく俺の皮膚の表面を湿らせていく。その温度にドキリとしながら、俺は思わず生唾を飲み込んでいた。火照った肌の熱ささえ時間差で指先を浸していく。ツッキーの体温がここまで高くなるなんて。俺の知っているツッキーの、ふわりとした髪の毛と人より高くないツッキーの肌の温度とは遠くかけ離れている、その感触に、俺の心臓は騒がしくなるばかりだった。
 ピーッ、とコーチの吹く笛の音が体育館の中に鳴り響いた。ハッとした俺が立ち上がると、パッと身体をこっちに傾けていたツッキーが姿勢を正した。自分の右手の指先をつい見下ろした俺の視線とツッキーの視線が合いそうになったとき、わざとらしくツッキーが顔を逸らすのがわかった。やっぱり嫌だったのかな、と思った俺の目の前で、ツッキーの耳から首にかけての汗ばんだ肌が真っ赤に染まっているのが見えた。
「山口、次のゲーム、お前の番だぞ」
 あ、はい、と遠くからかけられたコーチの声に反射で返事をし、慌てて駆け寄った俺だけれど、ゲームが始まるその瞬間でさえも、身体の胸のあたりがざわざわと落ち着くことなく騒がしいままだった。指先に残った湿った感触が、三対三のプレーの中でボールの感触に塗りつぶされていくのを、残念だなぁ、と思う自分が、ほんの少しだけ、たしかに存在していた。





いずみじんこさん(@izu3jinko)の素敵な山月お題 「美容院で髪切られすぎた山月」で書かせていただいたもの