二月十四日、山口からチョコレートをもらった。いや、正しくは、一緒に食べよう、と告げられるままに、差し出された小さな粒を有難く受け取った。それを噛み砕き、飲みこんだ後もしばらく、自分はそのチョコレートの意味など考えることもしなかった。ただ、その日の帰り道、唐突に、僕は山口から告白されたのだった。
「俺、ツッキーのことが、好きなんだ」
 その言葉に自分は、わかった、とうなづき、いいよ、と短く答えていた。それを了承と受け取った山口は、僕と付き合いたい、と続けたため、その瞬間から僕と山口はそういう関係で付き合うようになった。それは僕にとってそれほど大きな問題ではなかった。僕と山口がいつそうなってもおかしくないと、無意識のうちに考えていたからかもしれない。それより、明らかに今の自分を悩ませている問題は別に存在していた。三月十四日の今日、通学用のこの鞄の中に二つの箱が入っていた。その中身は、ひとつがマシュマロで、もうひとつはチョコレートだった。ふたつとも、昨日までに自分が買い求め、今朝家を出る直前に自らの手でこの鞄の中へ放り込んだもので間違いなかった。
「でね、それを聞いた影山が日向を追いかけて、」
 いつもと同じ帰り道、隣を歩く山口は、優に五分は喋りとおしていた。話の中身は他愛もない、くだらない、昼休みの変人コンビの馬鹿な小競り合いについての話だった。なぜか山口は、僕と並んで学校の門を通り抜けた直後から、息つく間もなく、僕に、その話を面白おかしく、妙に詳細な語り口で聞かせ続けていた。そのテンションは変に高く、その語り口に、僕は口を挟むタイミングも見つけられないまま、さほど興味の湧かない話に、適当な相槌を打ち続けるしかなかった。
「って、ことで、もうさすがにおしまいかな、って思ったところで、まさかのまさか、たまたま通りかかった田中さんを日向が捕まえて、それから、」
 まだ勢いの衰えそうにない山口の言葉の連なりに、唇の端を噛む。だらだらと続く山口の声を聞き流しながら、頭の中では、鞄の中に入っている二つの箱のことを思い返していた。どちらも、この鞄の手を入れたらすぐに取り出せる位置に入っていることは、部室を出る前に確認済みだった。
 二月十四日、山口からチョコレートを差し出された自分は、そのやりとりについて何も気に留めなかった。だが二月が終わり、三月の十四日が迫ってくるほどに、あれが山口からのバレンタインの告白の前触れだったのではないかと、そんな仮説を抱くようになっていた。あのチョコレートは、もしかしたら告白に添えて渡すためのものだったのかもしれない。そう仮定してみると、途端に、あの日の急な告白にも納得がいくような気がしていた。
 自分にとって二月十四日は、これまでずっと、面倒だ、という認識でしかなかった。知らない誰かの手作りは言うまでもなく、相手から期待をもって差し出されるチョコレートは、いくら市販の品だったとしても、それを食べたいとさえ思うことはなかった。もしあの日、山口から差し出されたあのチョコレートに特別な何かがあったのだとしたら。その瞬間、何も知らなかったとはいえ、直接手渡されて咀嚼し、ちゃんと飲み込んでしまったそのチョコレートの意味をこのまま永遠に知らないでいるのは、なんだか気持ちの据わりが悪いように感じられて仕方なかった。
 もし自分の仮説が正しいとしたら、三月十四日のホワイトデーには、お返しのマシュマロを渡したい。僕が導き出した結論は、ひどくシンプルなものだった。ただ、もし反対に、その仮説が間違っていたのだとしたら。この、お返しを渡す、という名目は使えなくなるのだと気付いたところで、僕は別の答えを導き出していた。それなら、今度は僕から改めてチョコレートを渡したい。ホワイトデーに男からチョコレートを渡す行為がここ数年で確実に増えてきている、といつかのネットニュースで目にしたことがある。山口ならきっと、男とか女とか関係なく、差し出されたチョコレートの意図を上手く汲み取ってくれるはずだ。なにより、このまま山口ひとりにだけ気持ちを吐き出させたままでいるのは、どこか、ずるいことのような気がしてならなかった。いつか山口に、自分のこの気持ちを告げようと考えていたのは、僕も同じだったからだ。それこそずっと長いこと、僕はそのタイミングを待ち続けてばかりいた。
「そのあと、どうなったか、ツッキーは、予想できる?」
 楽しそうに笑いながら話し続けている山口が目を合わせてくる。その目を横目にちらっと見やりながら、胸の中にいる、大きな舌打ちをしたがっている自分がこうぼやいていた。その話、いったいあと何分続けるつもりなの、と。
「日向の方が、勝ちって結果になったんだよ、なんでかっていうとね、」
 でもそんな僕の事情を知るわけもなく、山口は同じ調子で言葉を繋げ続けていく。お互いの別れ道まで、せいぜいあと五分というところまで来てしまったというのに。
 どちらの箱を僕は山口に差し出すことになるのか。それともどちらの箱も渡してしまうのか。もやもやとした感情で散り散りになろうとする胸の内を、僕はそっと嘆いていた。





















 二月十四日、俺はツッキーに告白をした。
 本当はチョコレートと一緒にこの気持ちを差し出すつもりでいた。告白と合わせて手渡すためのチョコレートを朝、鞄に入れてから学校に行っていた。でも今年の自分も、去年までと同じ。結局、ただ何の意図もない、単なるお菓子のおすそ分けを装って、ツッキーにチョコレートを差し出すだけで俺は精いっぱいだった。
「ツッキーも、ひとつ、食べる?」
 そんな風に冷静を装っていたけれど、その瞬間の俺の身体の中身は、騒がしいくらいの心臓の音でグチャグチャになりかけていた。ツッキーは何も言わず、俺の差し出したチョコを受け取って美味しそうに食べてくれた。今年もそれで終わるだろうと、その瞬間は息を吐いていた。
 俺がツッキーにバレンタインのチョコレートを渡したいと考えるようになったのは、いつのことだっただろう。気づいたときにはもう、毎年バレンタインのその日に、ツッキーに対して堂々と手作りのチョコレートを差し出しては受け取ってもらっている女の子たちを、どこかしら、羨ましい、と感じるようになっていた。もしかしたら、自分がツッキーのことを誰よりも大切だと思う気持ちに気づくよりも、もっと前のこと、だったのかもしれない。
 本来なら、チョコレートを渡すと同時に、ツッキーに告白をするはずだった。でも昼休みの内にチョコレートだけを差し出してしまった自分には、もう告白をする覚悟なんて残っているはずがなかった。何も触れず、そんな予感もさせずに、いつもどおりに帰り道をたどって別れを告げる。その瞬間がくるまで、俺は百パーセント、そのつもりでいたはずだった。それなのに、なぜか自分は気づいたころには、その決定的な一言をツッキーに告げてしまった後だった。
「俺、ツッキーのことが、好きだから」
 自分が何を告げてしまったのか理解するまで、自分自身、たくさんの時間が必要だった。それなのに、ツッキーは少し驚いた表情を俺にみせただけで、すぐに、わかった、いいよ、と返事してくれたのだった。そうして俺はツッキーと付き合えることになった。
 それは手放しで大喜びできるほど信じられない展開だった。嬉しかったなんて一言では言い切れないほどの幸運だった。でも、ふと、振り返った時、俺は、たったひとつの疑問に首を傾げるようになっていた。俺は、ツッキーにバレンタインの意味を含んだチョコレートを手渡すことが出来たのだろうか。
 バレンタインのチョコレートは告白の口実で、オマケみたいな存在だと言ってしまえば、そうなのかもしれない。告白が出来たならチョコレートなんてどうでもいいと、そう考えることも出来るのかもしれないが、俺は何故かその考えを、どうしても飲み込むことが出来なかった。あの日ツッキーに差し出したチョコレートがバレンタインのためのものだったと思うのは、さらに輪をかけて無理な話でしかなかった。
 だったら、改めてちゃんとツッキーにチョコレートを渡すべきなんじゃないのか。三月十四日のホワイトデー、それが唯一で最後のチャンスなんじゃないか。そう決断した後で、ふと、こうも思った。ツッキーは、あのチョコレートのことを、今では、どう思っているんだろうか、と。もしも万が一、ツッキーがあれを俺からのバレンタインのチョコだと思ってくれていたとしたら、またホワイトデーに続けてチョコを渡してしまうのは、さすがに迷惑に思われるかもしれない。そんな不安が胸をよぎった。
 渡すべきか、渡さないべきか。三月十四日の今日という日を、俺は迷い続けながら過ごしていた。ツッキーと二人になった帰り道、その話を切り出すチャンスだと頭ではわかりきっているくせに、なせか自分は、それほど面白くもない話を、ずっとツッキーに向けて話し続けるばかりだった。話しながら、頭の片隅ではぼんやり思っていた。これじゃまるで、鞄の中のチョコレートについて言い出すためのタイミングを自分自身の手で潰してしまっているみたいだ、と。
 いつもの分かれ道の手前で、急に、ツッキーが足を止めた。
「ねぇ」
 たったそれだけの、短い一言に、いろんな気持ちが滲み出ていた。我慢の限界、呆れて物の言えない、いい加減にしてほしい、そんな声色に、俺は自然と口を閉ざしていた。俺を睨んでいるツッキーの唇が震えながら声を漏らす。
「どうでもいいことだけど、……今日って、何月何日だったっけ?」
 鞄の肩ひもにかけた手をギュッと握りしめた。しゃべり続けてカラカラになった喉を震わすように、心臓が鳴り響いていた。もう逃げられない、と口を開くと、
「あの、チョコレート」
 自分もツッキーも同じタイミングで全く同じ単語を口にしていた。思わず目を見合わせ、え、と戸惑いの表情を浮かべたのは、ツッキーも俺も同時だった。耳のあたりで心臓の音がうるさかった。次の一言が見つからなくて、俺はただひたすらツッキーの目を見上げ続けていた。