駅前に十時集合で、と告げたのは山口の方だった。今まさに、その約束の十時を五分過ぎたというのに、あたりを見渡しても山口の姿はどこにも見当たらない。僕は仕方なく、いつもの遅刻かと息を吐いて、手にしていたスマホの通知欄を再度開いて確認した。数分前にも見たスマホの中身に新たなメッセージがあるわけもなく、ただ昨晩交わしていた、他愛もない世間話に対する返信の言葉が相変わらず最新のものとして残されているだけだった。
 もしやと思いつつ、今回の約束をつけた際の過去のやりとりを振り返ってみたけれど、やはり今日の十時に駅前集合の約束で間違ってはいなかった。今のこの状況が単なる山口のミスだと判明したところで、とりあえず、今どこにいるのか、それだけを尋ねるメッセージのみを投げかけておく。これですぐ返信が来ればいいのだけれど、もし山口が起ききれず寝坊しているのだとしたら、これ以上、こちらから連絡を取る術など他にはない。もし今この瞬間、山口が急いでこちらに向かっている真っ最中にあり、スマホを確認する余裕もないのだとしたら、今ここで僕がこの場所を離れるわけにはいかない。どうすることもできない僕は、とりあえずスマホに落としていた視線を持ち上げ、周囲の様子を確認するため、辺りを見渡した。
 週末の駅前は、自分と同じく待ち合わせをする人の姿であふれかえっている。真っ赤なワンピース姿でベンチに腰かけてスマホを見ている女の子に、これから部活の練習試合にでも向かうようなジャージ姿の中学生男子四人組、三歳くらいの男の子の手を離さないよう見張りながら木陰で立っている女の人に並んで、その人の母親と思われる年配の女性。さまざまな年代のいろいろな状況の人たちが駅前のロータリーの端で、皆同じように駅の方向を気にしながら点在しては、ひとり、またひとりと待ち人を見つけた喜びで手をあげ、声を掛け合って合流し、じゃあ、と駅に背を向け、歩いていく。その離れていく背中を横目にしながら、駅に近づいてくる人の中に山口が現れないことに覚えた苛立ちの感情によって、僕は何度も大きな舌打ちを打ち続けていた。
 そんな苛立ちの中、ようやく、手の内に握りしめていたスマホが通知音を鳴り響かせた。見ればそれはネット通話の着信で、画面には待ち望んだ山口のアイコンが、発信者として表示されていた。
「ごめん、ツッキー、俺、今駅の裏手の公園にいて」
 慌てて耳に当てたスマホのスピーカーからは、唐突とも思える山口の声が漏れ聞こえていた。
「は?」
「だから、ちょっと、手が、離せないから、悪いんだけど、あ、ああああ……ッ」
 妙に息のきれた声でそう告げた山口は、途端に、ガサガサというノイズ音を響かせ、そして、急に何も音声らしきものを発しなくなった。通話が途絶えたわけではないと、耳から離した画面の表示を確認し、再びスピーカーを耳に押し当てた。
「ちょっと、何……わけ、わかんないんだけど……、山口? ちょっと、……おーい、……聞こえ、」
「悪いけど、ツッキーには、今からこっちに来てほしいんだ。俺、公園の入り口から見える芝生のあたりにいるから、」
「は? ちょっと、どういう、」
「はいはい、今すぐやるから、うん、いいから……ってことで、俺こっちにいるから、来て! よろしく!」
 そう言い放つなり、今度こそ、突然、通話音を含めたすべての音声が途絶えてしまった。反射で確認した画面はやはり通話が切れたことを示していて、つまり今この瞬間は、一方的に山口が通話を切断したのだと認識した途端、僕の頭の奥の方から、ふつふつとした怒りがこみあげてくるのを感じとっていた。
 そっちがそのつもりなら、望み通り迎えに行ってやろうじゃないか。そう意気込んだ上で、僕は、山口の言うとおりに、駅の裏手にある公園へ向かって歩き始めていた。これはもう直接会って事情を根掘り葉掘り追求し、どういうつもりで遅刻しているのかを聞いたうえで、全身全霊で文句と皮肉を浴びせてやる必要があるだろう、という確信を抱きながら。
「あ、ツッキー、早かったね!」
 だから公園の入り口から数メートル歩いた先に広がる芝生の真ん中で、僕を見つけた瞬間、のんきに手を挙げて手招きした山口のことを、僕は全力で睨みつけていた。山口は何故か芝生の生えた公園の広場の中心に立ち、その周りを、数人の小学生らしき男の子たちによってぐるりと囲まれていた。自らの胸の高さにも届かないほどの背丈の子供たちのなかに、山口の頭だけが一つ飛び出していた。僕を手招きする山口の右手には、これまた理由のわからない、カラフルな色の凧が、たしかに握りしめられていた。
「お前、……ここで一体、何してるの?」
 山口を見つけたらすぐに、文句のひとつでも浴びせてやろうと思っていた僕は、予想もしていない光景に、思わず出鼻をくじかれていた。自然と全身から力が抜け、自分でも情けないほどによろよろとふらつきながら山口に近づくと、それだけを尋ねるだけで精いっぱいとなってしまっていた。
山口は手にしている西洋式の蛍光ピンクの凧、いやカイトと僕の顔を交互に見やってから、困ったような調子で笑みを浮かべていた。
「この子たちに、ちょっと手伝ってほしい、って言われて」
「手伝う? 何を?」
「これ、上げるのを、だよ!」
 山口の持つカイトの糸の先をつかんだ男の子が、くるりとこちらを振り返るなり、声を発した。
「……は?」
 山口の目の前に立っているその男の子と目が合う。状況を理解できずに首を傾げた僕のことを、その隣に立っている別の男の子が下から睨みつけ、援護射撃のように言葉を投げつけてきた。
「上げるの、すげー難しいんだよ」
「太智の兄ちゃんが来てくれるはずだったんだけど」
「用事があってちょっと遅れる、って」
 一人、また一人と、その場にいた残りの子供たちも僕を見上げて声を上げ始めた。その騒がしさと説明の下手さに顔をしかめると、最初に声を上げた男の子がひときわ大きな声でこう言った。
「最初は、おれたちだけでやってたんだけど、やっぱり、背、高い大人がいないと、どうやってもうまく飛ばなくて、だから」
「ちょうど通りがかった俺が抜擢されて、声をかけられた結果、今、現在進行形で、この子達の凧揚げの手伝いで捕まってました、とさ」
 へへ、と困ったように笑った山口が、その場を総括するかのように締めくくりの説明を口にした。ようやく状況を飲み込んだ自分の体の中で、怒りを通り越して表れてきた呆れの感情が溜息となって口から大きくこぼれおちていった。
「それならそうと、先に連絡のひとつくらい、すれば良かったんじゃないの?」
「あー……本当はちょっと手伝ったら、すぐに駅に行くつもりだったんだけど、……その、やり始めたら、思ったより面白くて、」
 思わず山口の顔を睨んだ僕を見て、山口の表情が一瞬だけ、強張った。
「だから、その、えっと……、心配かけたのなら、ごめん……謝るよ。……ほら、俺よく遅刻するから、ツッキーなら事情を説明したら、いつもの遅刻か、って見逃してくれるんじゃないかなぁ、ってそう思って、」
「さっき、電話口で叫んでたのは、何?」
 言い訳を繰り返す山口の言葉を遮ると、あ、と息を飲むなり、途端に気まずそうな様子で顔をしかめた。
「それは、えっと、……さっき、電話しながら、これをこう、」
 そう説明しながら山口は、手にしているカイトを空に突き上げるように、自分の頭の上に向け、真っすぐ腕を伸ばしてみせた。
「こうやって持ち上げたまま、左手でスマホもって電話繋げながら走ってたから……足元見れずに踏み外して、ちょっと、軽く転んだだけだから、その、」
「は? 踏み外した? 怪我は、」
「してない、してないよ、怪我なんて、大丈夫だから、ほら、ピンピンしてるから、」
 カイトを片手に、山口は大げさにその場で何度かジャンプを繰り返した。
「ほら、ね」
 満面の笑みを浮かべ、これ以上何も言われないように黙り込んだ山口に、僕は思わず頭を抱えながらため息を漏らしていた。
「だったら、続き、しようよ」
 妙に静かに黙り込んでいた子供たちのうちの一人が、タイミングを見計らったかのように声を上げた。その声に反応するように、そうだそうだ、と複数の声がそれに重なって四方八方から飛び込んできた。その中心で困ったように眉根をひそめた山口が、ちらりと僕の様子を横目で伺うのが見えた。
「俺たちこれから、用事があって、さすがに、もう、そろそろ……」
「別に、手伝ってあげればいいんじゃないの」
「え?」
 僕を見た山口の顔には、あからさまに、信じられない、という心の声が刻み込まれていた。
「別に、僕ひとりでも構わないし。山口がやりたいなら、とことん、付き合ってあげればいいでしょ」
 そもそも、今日の予定は山口と二人で洋服を買いに来ただけのことであって、別に時間を厳守する理由も、二人で見て回る必要も絶対にあるわけではない。山口が残りたいと言うのであれば、別に僕一人、ここに山口を置きざりにして買い物に出かけたところで問題など何一つとして存在しないのだった。
「後から合流したいなら、いくらでも連絡くれれば済む話だから、それじゃ」
 くるりと背を向け歩き出した僕の背に届いたのは、大げさに響く、複数の子どもによる声だった。
「えっ、手伝ってくれないの?」
「背、高いのに?」
「なんで?」
「もしかして、この兄ちゃんよりヘタだから?」
「え、そうなの?」
「そうだよ、ヘタクソ、ってバレるのが嫌なんだよ」
「そっか、じゃあしょうがないよね」
「ヘタクソならね」
「やーい、ヘタクソー!」
 三歩進むまでに罵声にまで発展した声に苛立ちを覚え、ため息とともに振り返った。
「ヘタクソって、今、誰のことを指して言ったの? もしかして、僕のこと?」
 自らを指さして尋ねると、山口の周りを囲む子供たちが一斉に顔をそらし、首を横に振った。その様子に舌打ちをし、僕は山口に近づいて、その手にしているピンク色のカイトを奪い取った。
「これを、どうやったらいいわけ?」
 山口に向かって尋ねると、相変わらず不意打ちのように下の方から声が飛んできた。
「こう、まっすぐに持って、」
「歩くだけ!」
「まっすぐ、がポイントだ、って」
「太智の兄ちゃんが言ってた!」
 はいはい、と子供たちの声をいなしていると、こちらをまじまじと見てくる山口の視線と目が合った。
「ツッキー、いいの?」
 声には発しないものの、山口の視線は明らかにそう尋ねていた。
「その、太智って子の兄弟が来れば終わるんでしょ」
 投げかけたこちらの声にも、まだ「でも……」と言いたげな山口の視線は続いていた。
「もう散々付き合った後なんでしょ? ……お前ばっかり疲れて、この後へろへろで動けなくなったら、こっちも困るんだけど?」
 当てつけのように発した僕の言葉に、なぜか山口はパッと表情を明るくさせた。
「じゃあ次俺の番だから、いい?」
 カイトの糸を握りしめていた子が、一歩、山口から離れて芝生の上を歩く。
「おれが歩き出したら、離れないように追いかけて」
 はいはい、と返事をして山口から離れ、背を向けて歩き出した男の子の後をついていく。腕を伸ばして空に突き上げたカイトは、あまりの軽さにすぐ風に壊れてしまうんじゃないかと思わせるほどだった。少し進んで向かい風を感じたところで、そっと指先から力を抜いた。
「すげー!」
「一回で飛んだ!」
「ヘタクソじゃないじゃん!」
 ギャラリーの反応は上々で、糸を手繰る男の子は振り返って見上げた先にカイトが浮かんでいると知るや否や、全身から嬉しさをにじませるように笑った。
 それからは揉まれるように子供たちに囲まれることになった。次は誰で、その次は誰だと順番決めをしていた子供たちに手を引かれ、その度にカイトを空に掲げて歩いた。
 全員が二度ずつ繰り返したところで、ようやく、例の「太智の兄ちゃん」と呼ばれる大学生が遅れて到着した。ずいぶん歳の離れた兄弟だな、と思った矢先、カイトの持ち主である太智少年の従兄弟にあたる関係なのだと本人が説明してくれた。礼を述べたその人は、子供たちを一列に並ばせ、僕と山口に向けて「ありがとう」と告げるように促して僕らを解放してくれた。
「明光くんに似てたね」
 公園から駅の方に向かって歩き出したところで、ぽつりと山口が不意に漏らした。視線を向け、首を傾げた僕に、山口が改めて言葉を繋げた。
「さっきの、太智君のお兄さん」
「そう?」
「俺、最初声かけられたとき、凧あげって聞いて、ツッキーと明光くんとした時のこと、思い出したんだ。あれは、たしか、小学校六年くらいの時だっけ? ツッキーが緑色の、かっこいいデザインのやつ買ったから、って言って、」
 そんなことがあっただろうか、と記憶をたどっていた頭の中に、不意にパッと映像が浮かび上がってきた。
「ああ、そういえば、」
「あったよね。最初、俺とツッキーだけで揚げようとしたんだけど上手くいかなくって」
「兄ちゃんに話したら、休みの日に一日付き合ってくれたっけ」
「そう、だから、あの時、明光くんに手伝ってもらって初めて上手く揚がった時の、あの気持ちを思い出したら、なんだか、断るのも悪いなぁ、なんて気になって……でも、やっぱり先に連絡した方がよかったよね。本当に、ごめん」
 ふと足を止め、頭を下げた山口に、僕は同じく足を止めて振り返った。
「別に、もう謝らなくていいから。それに、凧あげ久しぶりにやってみたら、お前の言う通り、ちょっと……楽しかったし」
 顔を上げた山口と目が合う。喜びたいけれど、喜んだら僕にまた怒られるんじゃないかと心配している、そんな頭の中が透けて見えるような顔つきで山口はこちらの顔をじいっと見上げていた。その視線に、胸の内だけで、ああ、と息をつく。山口という男は、本当に、こういうところも含めて、どうにも憎めなくて困る。
 緩みそうになった顔を引き締め、わざと冷たい調子の声を発した。
「だけど、次からは忘れずに連絡はしてよね、というかそもそもお前は遅刻しないように、もっと」
「気を付ける! もしもの時は連絡する! 約束する!」
「遅刻した分、デザートおごりで」
「うん、って、えええ、」
「誰かのせいで運動までさせられたから、ビッグサイズ限定で」
「いや、あの、う……わかった、」
「ウソ」
「えっ?」
「ウソに決まってるでしょ、そんなに食べられないし」
 ぽかん、と口を開けた山口を振り返らず、僕は一歩先に進む。
「でも、買い物の終わりの、デザートまでは絶対付き合ってもらうから。……それくらいは、良いでしょ?」
 後からついてくる足音とともに、「もちろんだよ、ツッキー!」という、いつもの明るすぎる山口の声が響いていた。そんな声にも自然と唇の端を緩めてしまう自分の顔を見られてしまわないよう、僕はしばらく、そのまま山口の数歩先を少し早歩きくらいの速度で、ずっと歩き続けていた。





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抽選に当選したやっとさん(@yattoyo)から頂いたお題「凧」で書かせていただいたもの。