一足先に部室を出て行ったツッキーを追って、俺は手にした荷物を背負いながら部室棟の階段を駆け下りていった。非常階段に似た、部室棟の金属製の錆びた外階段は、段差を踏みしめる度に、カンカンと、鈍いながらも高らかな音を夜の空気に響かせていった。その音ですらどこか冷たさを含んで、俺は思わず練習で火照った身体をなだめるみたいに、胸いっぱいに空気を吸っていた。喉を伝った冷たい空気が、まだすぐには来ない冬の寒さですら予感させるみたいで、自分の身体との温度差に、何より自分が驚いていた。
「ツッキー、お待た……せ……」
 部室棟から少し離れたところで立っているツッキーを見つけ、俺はいつものように声をかけようとした。が、すぐさま、とっさに口を閉ざしていた。ツッキーはひとり、俺が近づいてくる方角には目を向けることもなく、ただじっと、暗い夜の空気の中でスッと立ったまま、まっすぐに、視線の高さより斜め上の、とある方角の一点を、じいっと見つめているみたいだった。何を見ているのか気になって、ツッキーとの距離を縮めながらも、俺はツッキーのその視線の先を、自然と目で追っていた。
 そこには雲一つない夜の空と、ちりばめられたようないくつかの星の輝きと、そして、その中心でまぶしいくらいの明るさで輝いている月が、ぽっかりと、ただ静かに浮かんでいた。ああ、と気づきと感嘆の息を吐きだして、俺はツッキーの隣に肩を並べていた。
「今日は、いつもの何倍も、月が綺麗だね」
 そう声をかけながら、隣にあるツッキーの横顔を見上げれば、その輪郭は降り注ぐ月の光によって縁取られ、まるでスポットライトに照らし出されているみたいに、キラキラと光り輝いていた。俺は思わず息をのみ、そしてしばらくそこから視線を動かせなくなってしまっていた。
「十五夜の時も、同じこと同じように言ってたけど」
 はぁ、とあきれた調子で息を吐いたツッキーと目が合う。ふと、見とれていたことがバレたんじゃないかと、慌てて目をそらし、俺はごまかすように無意識に笑い声をあげていた。
「え、そうだったっけ?」
「そう。……まぁ、今日は十三夜の月だから、そう思うのも無理はないけど」
 そう言ってまた月を見上げたツッキーの輪郭を、月の光が音もなく、なぞっていく。きれいだなぁ、と思いながら、俺はまた横目でこっそり、ツッキーの横顔を盗み見ていた。
「ところで、十三夜、って何だったっけ……?」
「十五夜の次に綺麗な月が見られるのが、十三夜」
「そっか……ツッキーは、月見るの、好き?」
「別に、好きでも嫌いでもないけど」
 そう言いながらも、ツッキーの横顔は、ほんの少し口角を引き上げ、やわらかく微笑んでいるように見えた。俺はその横顔につられるように、気づけば頬の筋肉を緩めていた。
 ゆっくりと歩きだしたツッキーの肩に並ぶように、俺も合わせてゆっくりと歩を進めながら、その間も自然と、目線は夜の空に浮かぶ月に向けていた。ツッキーもそれは同じで、ふと気がむいてツッキーの方を見てみると、その視線は決まって同じ方角へと向けられていた。
「そういえば、十五夜の日も、こうやってツッキーと一緒に歩いたね」
 ほんのひと月前のことを思い出した俺がつぶやくと、ツッキーは、やっと思い出したのかと言いたげな表情で俺を見返していた。思えば九月の終わりのあの日も、部活の終わりにツッキーとこうして、月を見上げながら、いつもよりのんびりとしたペースで帰り道を歩いていた。あの時は今日みたいにまだ肌寒さを感じるほど気温は低くなくて、むしろ昼の暑さに疲れた身体にとって気持ちよく思えるくらいの爽やかな夜だった。あの時もツッキーは今みたいに、真っすぐに月を見上げて、そしてどこかうれしさを噛みしめているときのようなまぶしい表情で、俺と並んで歩いていたっけ。
「俺、ツッキーとまたこうして綺麗な月が見られて、うれしいよ」
 十五夜の時の記憶と今とを比べてはにかんだ俺に対し、ツッキーは相変わらず普段の冷静な調子で言葉を返した。
「たしかに、これで、お前とは片見月ではなくなった、って意味では、良かったのかもね」
「片見月?」
「十五夜に月見をしたら、その年の十三夜も月見をしないと縁起が悪い、……十五夜だけ月見をするのは片見月になるから良くない、ってこと」
「へぇぇ、さすがツッキー物知り……! 俺、片見月って初めて聞いたよ。ツッキーのおかげで、片見月にならなくって本当に良かった、ありがとうツッキー!」
「別に、そんな大げさに喜ぶほどのことじゃないから。そもそも、十三夜なんて日本人が勝手に付け足したものだし」
 ぼそっと独り言のように告げたツッキーの言葉に、俺はしばらく首を傾けたまま、その意味について考えていた。けれど考えたところで答えがわかるわけもなく、眉間にしわを寄せた俺を目にして、ツッキーが仕方なさそうに口を開いていた。
「十五夜は元々中国で生まれた行事だけど、それが日本に伝わったあとで、日本人が勝手に、二番目に綺麗な月が見られる夜も十三夜って名前で十五夜とセットにしよう、って考えただけにすぎないから。十三夜に月を見るのは、日本だけ、ってこと」
「そうなんだ……! じゃあ、中国には十三夜のお月見は存在しないんだ?」
「十三夜だけじゃなく、十日夜も」
「とおかんや?」
「十三夜のさらに次も、日本人が勝手に考えて付け足した、ってこと」
「へぇぇ、昔の人って、本当に月を見るのが好きだったんだね」
「好きにも、程度ってものがあるでしょ……まぁ、昔は今よりもっと、月が明るく、大きく見えていたんだろうけど」
 ふと立ち止まって、じっと睨むように月を見つめたツッキーの横顔は、やっぱり綺麗で、そして格好良かった。俺はその横顔を目にしながら、昔の人が月を見上げる日を記念日のように増やしていった気持ちがなんとなく、分かるような気になっていた。月特有の、太陽とはまた違う、静かにそっと寄り添うように光り輝いているその姿を、今の俺と同じように、息をひそめ、じっと静かに、昔の人も見つめ続けていたんじゃないだろうか。それは祈りを捧げるための時間のようでもあり、そして反対に言葉にならない感情を受け止めるための時間でもあったんじゃないだろうか。そんなことを考えながら、俺は自分の中を満たす感情の全てを、ただ黙って噛みしめていた。こみあげてきたものを口からこぼすように、俺は告げた。
「俺は、月を見るの、大好きだよ」
 こちらを振り返ったツッキーの表情はどこか不思議そうで、その目と目が合った瞬間、急に照れくささを感じていた。ごまかすように大げさに笑ってから、俺はこう切り出した。
「来年もこうして、二人でお月見しようね」
 突然もちかけた俺の提案に、ツッキーはくすぐったそうに、それでいて、とても嬉しそうな様子で、目を細めてくれていた。
「言われなくても、もちろん」
 やわらかく微笑んだその横顔は、変わらず、まぶしいほどの月の光によって美しく照らし出されていた。その光景に胸を震わせた俺は、きっと、一生、このツッキーの顔をずっと忘れないんだろうなぁ、なんて、そんなことを思っていた。






2020/10/13〜10/21の期間にて、ファミリーマート、ローソンのネットプリントサービス利用で配布したもの。
実際のツイートがこちら
A3片面モノクロで切り込みを入れて冊子になるちょっとしたものでした。