お待たせ、と投げ掛けられた声に振り返れば、見慣れた浴衣に身を包んだツッキーが、こちらを見下ろしていた。去年も目にした絞りの浴衣は、記憶のまま変わらず、ツッキーに良く似合っていた。ツッキーの白く柔らかな肌の色と、その浴衣の渋く深みのある藍の色は相性抜群で、いつもその格好良さに俺はつい、目を細めて見つめてしまうのだった。
「やっぱり、その浴衣、すごくツッキーに似合うね」
 うっとりと見とれて告げる俺に対し、ツッキーが半分呆れたような、それでもどこか半分は嬉しそうな表情で、こうぼやいた。
「去年の今日も、全く同じこと、お前に言われた気がする」
 え、と目を丸くしながらも、とっさに、それはつまり、それくらいツッキーの浴衣姿を俺が好きだと思っているからなのかもしれない、なんて頭の片隅で考えていた。
「そうだったっけ?」
 結局口には出さずに誤魔化した俺を、ツッキーは相変わらず白けた視線で刺してきたけれど、それ以上何かを言う代わりに、皮肉めいたため息をひとつ吐き出しただけで終わりとなった。何も言わなくても、去年までと同じように俺の隣に腰を下ろしたツッキーの視線は、すでに暗くなった西の空へ向けられていた。
 夏の終わりの同じ日付の晩に、こうやってツッキーの家の縁側で肩を並べるようになって、早くも五年目を数えていた。一度目は、中学生になって初めて迎えた夏の日だった。毎年行われる市内の花火大会を前に、気になっている相手を誘うにはどうしたらいいか、なんてクラスメイト達が盛り上がっているのを、俺とツッキーはただ黙って傍観していた。浮かれて騒がしさを増す同級生たちに向け、ツッキーは聞こえないほどの声の調子で、こんな言葉を投げつけていた。
「あんな人混みにわざわざ行こうなんて神経が信じられない、花火なんて家からでも充分見られるのに」
 あまりにも渋すぎるその表情に驚きさえしたけれど、それ以上に俺は、ツッキーの発言の中身に大きく目を丸くしていた。
「えっ、ツッキーの家からでも、花火、見えるんだ?」
「ん、まぁ……家から見える、けど……それが何?」
「すげぇ、ツッキーの家、いいなぁ……俺の家からだと、何にも見えないんだよ」
 その後も、くりかえし、いいなぁ、と口にする俺を見かねたのか、ツッキーは視線をそらしながらも、こう持ちかけてきた。
「山口さえ良かったら、家に見に来たって、僕は構わないけど」
「えっ、いいの?」
 照れくさそうにしながらもちょっと自慢げなツッキーがうなづいてくれたことで、俺は初めて、ツッキーの家の縁側から花火を見させてもらうことになった。ツッキーの家から実際に目にした花火は、前もって聞いていたとおり、会場で目にするよりはるかに遠く、小さくこじんまりとはしていたけれど、その分、生まれて初めて、俺は夜空に咲く花火の形をすべてハッキリと見ることが出来た。それがあまりにも綺麗で、感動で震えていた俺を、ツッキーはからかうように笑って見ていたけれど、でも次の年から当然のように、一緒に花火を見よう、と声をかけてくれるようになった。
 つん、と香る蚊取り線香の煙が、俺とツッキーの間を縫うように広がっていく。ツッキーは蚊取り線香の、この独特な香りが苦手だというけれど、俺は、どちらかと言えば好きな方だと感じていた。渦を巻く蚊取り線香は俺の家には無かったし、普段、ツッキーの家に遊びに来た時ですら目にすることは無かった。これは窓を開け放って過ごすとき、つまりこの花火の夜だけに限って使われるものなんだと、いつかのタイミングでツッキーから聞かせてもらったこともあって、俺はいつしか、夏の終わりの匂いとして好きになっていた。この香りを嗅ぐと決まって俺はどこか寂しい、しんみりとした気持ちに胸を締め付けられるようになっていた。
「麦茶、どうぞ」
 ハッと顔を上げると、ツッキーのお母さんが小さなトレーを片手に傍に立っていた。俺とツッキーの間に置かれたトレーには、麦茶の注がれた二つのグラスが、俺たちと同じように汗をかきながら並んでいた。水面近くに浮かぶ大きな氷が、ゆっくりと回転している様子を見つめていると、それだけで少し暑さが和らぐようだった。
 片方のグラスをツッキーが手に取ったのを合図に、俺も残ったひとつに手を伸ばした。グラスをつかんだ指の上を冷たい水滴が伝っていく。その感覚にうながされるように口に含めば、冷たさとともに香ばしい香りが、ふわりと口の中に広がった。
「お代わり、欲しかったら言ってね」
 キッチンから飛んできた声に返事をしながら、さらに一口含んだところで、鈍い破裂音が遠くの空から響いてくるのが聞こえた。
「始まった」
 隣で囁いたツッキーの声に導かれるように顔を上げる。ツッキーの家の庭の向こうに見える西の空が、パッと明るくなっていく。さっきまで真っ暗だった夏の夜空に、橙色の光の粒が爆ぜては煌めき、次から次へと散っていった。かすかに音を立てて消えていく光の粒を目で追っていると、まぶしくきらめく光の華が、またひとつ咲いては消えていった。
「今年も、綺麗だね」
 ほっと息を吐いた俺に合わせて、ツッキーが隣でうなづく。ツッキーは花火なんて興味がない、ってふりをしているけれど、毎年こうやって一緒に見るのを実は結構楽しみにしているんじゃないか、って俺は密かに思っている。浴衣のことだって、毎年俺が着ようと提案すると面倒くさそうに返事をするけれど、いつだって当日の夜には、必ずしっかり着こなした状態で俺を出迎えてくれるのだ。ツッキーだってこうして夏の終わりに花火と浴衣を楽しむのを、悪くはないと思ってくれているんじゃないか。そんなことを考えながら、視界の端に映りこんでいるツッキーの横顔へと、俺は意識を向けていた。ぼんやりとしか見えないものの、その表情が普段より柔らかいものになっているような気がして、俺は自然と満足感から頬を緩めていた。
 次々に現れる花火に目を奪われつつ、俺は一度手を離した麦茶のグラスに改めて口をつけようと、指先だけをその方向へ伸ばしていった。だけれど、冷たいグラスに触れるはずの俺の指先は、予想よりも早いタイミングで、何か温かで柔らかなものにぶつかっていた。数秒もかかることなく、俺は、それが隣にいるツッキーの指先であることを予感していた。
 そのまましばらく、視線も顔の向きさえも変えることなく、俺は指先でその表面を探るみたいに、そっと撫でつづけていた。包むように添えた俺の手の中で、それはゆっくりと形を変え、俺の手の形に合わせて馴染み、やんわりと絡んできた。隙間なく触れ合った指先の感触に胸を高鳴らせながら、俺はそっと、指の先に力を込めていた。
 視線の先では、ひときわ大きな花が夏の空に鮮やかに広がっていった。ゆっくりと散っていくその光を見つめながら、俺はたしかに、ツッキーの指先を強く握りしめていた。あまりにも騒がしい心臓の音を沈めるために、ゆっくりと胸いっぱいに空気を吸えば、あたりに漂う香ばしい麦茶の匂いと蚊取り線香の香りが強く浸みこんできた。きっとこれから、俺はこの香りを嗅ぐたびに、この心臓の高鳴りと、繋いだ手の感触を思い出してしまうんだろうな、なんて、そんなことを考えているうちに、またひときわ大きな花火が、夏の夜空へと開いて散っていこうとしていた。






2020/9/7〜9/15の期間にて、ファミリーマート、ローソンのネットプリントサービス利用で配布したもの。
実際のツイートがこちら
A3片面モノクロで切り込みを入れて冊子になるちょっとしたものでした。