誰かがやってくる前と、誰かがいてくれる間と、いなくなった後では、自分の部屋に流れている空気は明らかに違ったものになっている、そんな気がする。誰が来てもそうなのに、その誰かがツッキーだった時はあからさまで、俺はツッキーを見送った後、自分の部屋に戻ってくる瞬間が、この世で一番大嫌いだ。
 今日も俺の部屋の空気は、どんよりしていた。さっきツッキーがいた時は重力なんてないくらい軽々しかったのに、ツッキーを見送って一人、ドアを開けた瞬間がこれだ。俺の気持ちと連動してるのか、傾いた夕焼けにつられてのことなのか、理屈なんか興味はないけれど、そこにツッキーがいないってだけで、こんなにも様変わりするだなんて、誰も想像しないだろう。さっきまで俺とツッキーは明日提出期限の英語の長文問題を一緒に解いていた。遊んでいたわけじゃない、でも、いつもと変わらず楽しかったのは確かだ。
 じゃ、と玄関で軽く片手を上げたツッキーの顔は冷静で、寂しいなぁと思っているのは俺だけみたいに思えた。いつだったか、そう感じることがある、ってツッキーに話した時があって、そんなときツッキーは決まって、
「明日も会うでしょ」
って呆れた調子の言葉を言うだけだから、きっとそう感じているのはやっぱり俺だけなんだと思う。
 ツッキーが座るためにつかっていた、座布団代わりのクッションを片付けていると、机の脇に置かれた小さな紙袋の存在に気が付いた。自分に見覚えがなくて、今朝はなかったことを思うと、絶対にこれはツッキーの持ち物としか思えなかった。慌てて手に取り、中身を覗き込んだ。中には小さな包み紙に包まれた荷物がひとつ。これはなんだと首をひねってとりだすと、見た目の割に妙に軽くて驚いた。
 とにかく追いかけよう、と思った。紙袋を片手に、スマホをもう片方の手に握って家を出た。走ればきっとツッキーに追いつく。もしも追いつかなくたって、そのままツッキーの家まで届けてあげれば良いだけだ。そう思ってのことだった。
 ツッキーの背中は、家から五分ほど行った交差点にあった。俺は全速力を保ちながら、手にした紙袋を掲げ、ツッキーの名前を呼んだ。
「忘れ物、ツッキー、これ、ツッキーのだよね!?」
 俺の声に振り返ったツッキーと目が合った。ツッキーとの距離は二メートルくらいで、俺はてっきり、そこで足を止めて待ってくれると思っていたのに、なぜかツッキーは俺の顔を見た瞬間、いきなり前を向いて走り出していた。
「えっ! 何で!? どうしたの!?」
 訳も分からず、俺はツッキーの跡を追いかけた。ツッキーは帰り道とは違う横道に折れ曲がって進み、まるで映画やドラマの中の追いかけっこみたいに、頻繁に角を曲がっては走り続けた。どうしてツッキーが逃げるのか、俺にはさっぱりわからず、ただひたすらその背中を追って走り続けた。
「山口、もう、諦め……!」
 風に乗って、振り向きざまに叫んだツッキーの声が聞こえた気がした。
「いや、だって、これ、ツッキーのでしょ……!? 何で、さっきから、逃げるの!?」
「いいから、それ、返さなくて……!」
「えっ!? 何!?」
「もう、ほんと……、山口の、馬鹿……!!」
 疲れ切って足がもつれたらしいツッキーが、観念したように公園の中のベンチに座りこんだ。俺はそれに続いて公園の柵の間を潜り抜け、ツッキーの目の前で膝をついた。お互い息が上がり切って、全身を震わせて呼吸をするので必死になっていた。
「それ、……やま、ぐちに……」
 ベンチの背もたれに身体を預け、天を仰いだままのツッキーが言った。自分の煩すぎる呼吸の合間に聞こえた声に、俺はうなだれていた頭を必死に持ち上げた。
「俺に……? 何……?」
 落ち着き始めた呼吸を整えるために、大きな咳ばらいをしたツッキーが、俺を見下ろして言った。
「それ、お前に、もらってほしくて、……それだけ! だったのに!」
 何を言われているのか分からず、俺は顔をしかめていた。そんな俺をイライラした目で睨んだツッキーの苦し気な声が続く。
「何で、あんな、しつこく……追いかけて、くるわけ……、信っじらんない、んだけど……!」
ぽかん、とした俺に、ツッキーは噛みつくように最後にこう、言い切った。
「いいから、中、開けてみれば……!!」
 ふん、と鼻から最後に息を吐き出したツッキーの勢いに押され、俺はおそるおそる、手の中にある紙袋の中身を引っ張り出した。一度確認した包み紙は変わらず、いや、俺が走っている間に振り回されたのか、少し表面のシワを増やしていた。その折り返しのところに貼られた透明なテープを、爪をつかって剥がしてみる。中から出てきたのは、掌に乗るくらいの大きさのタヌキのぬいぐるみだった。大きな白眼の中に、ぽつんと点に似た小さな黒い目がこっちを見ている。その表情は可愛いというよりひょうきんで、おどけているような顔つきにも見えた。
「これ、どうしたの……?」
 タヌキと顔を見合わせながら、俺は何度も瞬きをくり返した。俺もツッキーもその頃にはもうすっかり息が楽になっていて、ツッキーは何故か不満そうにそっぽを向いていた。
「見つけて、買った」
 ツッキーが言い添えたのは、女子がよく行くような、ファンシーショップといわれる種類の雑貨屋の名前だった。ツッキーがそんな店に入っただけでなく、そこでこんなものを買って来たという事実に、俺は唖然としていた。
「ツッキーが、これ、買ったの……?」
 つん、と唇を尖らせつつも、否定しない様子に、俺はますます目を丸くした。
「母さんが、似てるから、って教えてくれて」
 独り言みたいに口にしながら、それでもそっぽを向いたままのツッキーが、横目にチラッと俺を見た。その視線に違和感を覚え、俺はまたタヌキを見つめて瞬きを二回。そのうちに、ツッキーの言おうとしていることの半分くらいが予想できたような気がして、思わず声に出していた。
「もしかして、似てる、って……まさか、俺と?」
 こくり、とうなづいて、ツッキーが初めて反応を示した。手の中にあるタヌキの顔をまじまじと見返し、俺は腑に落ちない気持ち悪さから、首を傾げた。
「そんなに、似てる、かなぁ……?」
「似てると思ったから、買ったんだけど」
 むくれた調子の声がして、俺はぐっと言葉を飲み込んだ。ツッキーのお母さんにも、ツッキーにも、俺はこんな間の抜けた顔だと思われているらしい。目の前のタヌキの顔つきを睨みながら、俺はその事実にため息をついた。
「気に入らないなら、返してくれていいけど」
 立ち上がって手を伸ばそうとしたツッキーに、俺は慌てて体を退けた。そういえばツッキーはさっき、俺にもらってほしい、って言っていたような気がする。つまり、ツッキーは俺にこれをプレゼントしようと思って買ってきてくれたんじゃないのか。そうとっさに考えた上で、俺はタヌキをしっかりと抱きかかえていた。
「ううん、だってツッキー、これ、俺のためにわざわざ買ってきてくれたってことだよね? それなら、ちゃんと有難く俺は受け取らせてもらうに決まってる! だってツッキーからのプレゼントなんだから! ……あれ、でも俺、今日、誕生日でもなんでもないけど、何で……?」
 口に出しながら芽生えてきた疑問に、ふと動きを止めた。ツッキーを見ると、そんな俺の疑問に答えづらいと思っているのか、またそっぽを向いて口を尖らせていた。
「何でもない時にプレゼントされたら、困る、っていうこと?」
 相変わらず独り言みたいに小さな声で文句を口にするツッキーに、俺は満面の笑顔を浮かべて返事をしていた。
「ううん、ありがとう、ツッキーが俺のこと考えてくれてたって分かって、俺、すっごく嬉しいよ!」
 ちらっとこっちを見たツッキーが俺の顔をみて、つられたように頬を緩めるのがわかった。
「別に、こっちが勝手に渡したくて買った、だけだから……」
 照れくさそうにしているツッキーの横顔を見て、俺はやっと素直な気持ちでタヌキの顔を見ることが出来た。さっきまで間が抜けて情けないように見えたその表情も、今ではすっかり親近感とともに可愛く思えてきた。
「でも、くれるんだったら、面と向かって手渡しで渡してくれれば良かったのに……」
 汗でべたつくシャツの感触にため息を吐きながらこぼした独り言は、ちゃんとツッキーの耳には届いていたようだ。気まずそうにうつむいたツッキーが、その場に立ったかと思うと、すれ違いざまにボソッとつぶやいていった。
「次からは、そうするから、もう何も言わず追いかけてこないでよね」
 そっちこそ、何も言わず逃げないでよ、と言いかけた言葉を、俺はぐっと飲み込み、その背中に手を振った。
「本当にありがとう、ツッキー、また明日」
「また明日、……学校で」
 はにかんで手を振ったツッキーは、もういつもの顔つきに戻っていた。俺はニヤニヤしながら、受け取ったぬいぐるみを抱きかかえたまま家に戻った。
 ツッキーから受け取ったタヌキのぬいぐるみは、その晩から、俺の勉強机の見張り番となった。そして、俺はその日から不思議と、ツッキーを見送ったあとに戻った部屋の空気を、前ほど重たいものだとは感じなくなっていた。それは、誰もいなくなった部屋で、ちゃんと勉強机の上から見上げてくるタヌキが俺を待っていてくれるようになったから、なのかもしれない。タヌキのぬいぐるみと目を合わせると俺は必ず、また明日もツッキーと会えるんだ、と思うようになった。
 今度は俺が、ツッキーに似たぬいぐるみを見つけて贈ってあげなきゃいけないな……いつしか俺は、そう考えるようになっていた。それと合わせて、そのぬいぐるみをツッキーに贈る時は、同じように、ツッキーの部屋のどこかに、こっそり置いててこなくちゃいけないな、なんてことまでも。さて、ツッキーはどんな反応をしてくれるんだろう。そんなことを想像しては、俺は決まって、タヌキと合わせた目を細めるようになっていた。





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お題はこちらから選定した「(山月の)どちらかの部屋」「忘れ物」でした。