夕暮れから降り続いていた強い雨も、明け方を待たずに上がっていたようだった。何が理由で覚めたのか分からない眠りから目を開くと、部屋の中は夜明けを前に薄らぎ始めた暗闇の色に染められていた。喉の渇きを感じとり身体を起こせば、枕元のスマホに指先が触れ、ロック画面の時刻表示が視界に映りこんでくる。まだ朝と呼ぶには早すぎるその時刻に、まだ濁りのある思考が鈍く身をよじった。
 ベッドを抜け出して一歩、ベランダに続く大きな窓の向こうにのぞく白くぼんやりとした月の姿が目に飛び込んできた。朝を迎えようとする月の色は白くかすんで、その輪郭は透けるように曖昧になっている。綺麗だな、と足を止めた鼻先に、雨に濡れた下草の青臭い匂いが流れてきたような、そんな気がした。
 叩きつけるような強い雨の音が耳の奥の方へ舞い戻ってきて、そこで初めて、昨晩の夕立の存在を思い出した。そういえば降っていたな、くらいの気持ちで瞬きを、二度。ふ、と月から下ろした視線の先、部屋とベランダを遮る窓ガラスの向こう側に、すらりとした人の影があることにようやく気が付いた。淡い月の光の逆光の中に浮かぶその人影に、つい目をこらす。
 ああ、ツッキーだ。そう思うのが先か、一歩近づいたのが先か。気づけば俺はその窓ガラスを挟んでツッキーと向き合っていた。ツッキーは俺と目が合うなり、頬のあたりを柔らかくして微笑んでいた。ツッキーの指先が俺の肩のあたりの窓ガラスに伸ばされ、ぺったりと隙間なく押し付けられた。こちらから見えるその掌は、いつ見ても大きくて形の整った、ツッキーのものとしか思えない、俺にとってはあまりにも見慣れたものだった。自然と真っすぐに伸ばされたツッキーの指先に自らの指先を重ねるようにして、俺は自分の右手をガラス越しに重ね合わせていた。
 どうしてツッキーがここにいるんだろう。頭の中には確かに、うっすらではあったけれど、疑問を抱いている自分の存在があった。どうしてこんな時間にツッキーがいるんだろう。目の前のツッキーの顔を見上げながら、俺は胸に湧いてくる疑問を、自分でも何故なのか分からないまでも、今それをここで口にしたら、ひどく自分が後悔するような結末が待っているような気がして、意図的に、ぐっと飲み込んでいた。
 手を重ね合わせたまま、ツッキーの瞳が俺の目をのぞきこんでくる。重なり合った掌の間にある分厚いガラス板は、ツッキーの体温なのか自分の体温なのか分からないもので温みはじめていた。ツッキーの視線に吸い寄せられるように、俺は自然とガラスの板に額のあたりを押し付けていた。このツッキーは幻なのかもしれない。そう頭に浮かんだ頃には、ガラス板の向こうのツッキーも俺に合わせて頬を寄せていた。もしもこれが夢であるなら、絶対に目が覚めた時、現実世界の俺は涙をこぼしているだろう。脈絡もなく、唐突にそんな場面を想像する自分がいた。伏せたまぶたの先で自分の睫毛がガラス板の表面を撫ぜているのがわかった。きっとこのガラス窓を開け放ってしまえば、あっさりと夢は終わってしまうだろう。
 瞬きの度に窓の外の夜の色は少しずつ、でも明らかに刻一刻と薄まり続けていった。肌で触れている部分の温度に身を委ねるようにして、俺はずっと目を伏せていた。重なり合わせたままのガラスの向こうのツッキーの指先は、ぼんやりと霞むようになっていた。少しずつ、少しずつ、それこそ月が白んで色が褪せる速度に合わせるかのように、目の前にあるツッキーの輪郭は徐々に曖昧になっていき、まるで夜の空気へと溶けていくように思えて仕方がなかった。
 ああ、と俺は声に出さないまでも、全身で願っていた。頼むから、あと少しだけ。もう少しだけ。そう願いながら瞼を下ろせば、現実へと引き戻される感覚が頭の端の方から押し寄せてくる感覚がした。
 まだ、俺はこの夢を見ていたいだけなのに。そう願う自分の声ばかりが、ただひたすら騒がしく鳴りつづけていた。