高校を卒業し、山口と久しぶりに顔を合わせたのはGWのことだった。県外に進学し一人で暮らすようになった山口が、連休に合わせて実家に帰るというので、そのうちの一日、こちらの家にも遊びに来ることになった。
 約ひと月ぶりに見た山口の顔は、自分が想像していたものよりも元気そうに見えた。
「そっちの大学はどう? 変な教授とか、いる?」
 近況報告のついでにと話を促せば、待ってましたと言わんばかりに、前のめりになった山口が語りだした。その明るい表情に、それまで自分の抱いていたものが余計な心配であったと、こっそり、胸を撫で下ろしていた。
「いるいる、学食でお昼食べてる人の中で、自分の講義を受けてる学生だと分かった瞬間、隣に座ってきて、その直前の講義の感想を必ず聞いてくる教授とか」
「で、お前は何て答えたの?」
「まだ俺はロックオンされたことはないけれど」
「それ、ロックオンって言うの?」
 あ、と少し驚いたような表情で、山口が僕の目を見る。
「えっと……うん、そう。友達が皆そう言うから、無意識に」
 最後まで言い切らない山口の言葉の続きは、きっと、『普段がそうだから』みたいなものだろう。その言葉の響きに、また少し、胸の奥に溜まっていたものを息とともに吐きだす。今の山口には、そういうふざけたことすら話し合える誰かが複数いる。その事実に気持ちが和らぐと同時に、反対に胸の奥で何かがチクリと刺さった感じがした。
「それで、先輩から聞いた話だと、何年も前らしいけど、本心から『つまらなかったです』って断言した学生が、その教授から一度も単位もらえなくなっちゃって、卒業するまですごい苦労したんだとか……本当か嘘か、正直、誰にも分からないけどね」
 口角を上げて話す山口の様子を横目に見ながら、余計なことを言わないよう、「そう、」とだけ声に出した。




 山口の次にシャワーを浴びて部屋に戻ると、疲れ切った顔つきの山口が、床に広げた布団の上で伸びていた。
「もう寝てるの?」
 足元に転がっている山口の顔を覗き込む。まだ起きてる、と蚊の鳴くような声が耳に届き、そのあまりの弱々しさに、思わず笑っていた。
「邪魔だから、寝るなら布団の中に納まってくれない?」
「まだ寝ない」
 もう半分眠りの中に沈みこんでいるだろうに、山口は頑固に言い張って譲らない。冬ではないから、このまま朝になっても風邪をひくことはない……とはいえ、せっかく持ってきた掛布団が中途半端に仕事をしないのは、何だか癪に障って仕方がない。
「電気消すよ」
 ん、と短い返事を聞くことなく、暗くなった部屋のベッドに身体を潜り込ませる。壁に向かって体を横たえると、暗い部屋の中で山口の呼吸だけが静かに繰り返されていた。山口がこの部屋に泊まりに来るのは、もう何カ月ぶりになるだろう。少なくとも三年のインターハイの後にはなるべく受験に専念すべきだと、そうお互いの同意を得た記憶があるのだから、半年は経っている。それまで毎月一度、必ず山口はこの部屋に泊まりに来ていたのだから、その間、山口はどのように思っていたのだろうか。
 話しかけようかと顔を上げたところで、山口がさっき既に寝入ってしまっていることを思い出した。明日、また気が向いたら聞いてみればいいか。そう思った、その時だった。
 布団から山口が這い出す気配がし、てっきりトイレにでも向かうのかと様子をうかがっていたら、何故かこちらの掛布団の端を持ち上げ、中へと迷いなく潜り込んでくる感触がした。何がしたいのかと振り返ってたずねようとしたところ、するりと山口の腕が背中から脇の方へと回され、胸のあたりで軽く結ばれた。
 ぎゅっと背中に押し付けられるものが山口の頭であると想像するのは難しくはなかった。背中に感じる山口の身体が小刻みに震えていることに、僕は息を潜めていた。その両腕から伝わってくる感覚に目を細めていく。山口が泣いていることは、明らかだった。さっきまで穏やかだった山口の呼吸は不安定に乱れ、それはどこか、いつかの試合直後の山口の涙を彷彿とさせた。
 この涙の意味を、山口が言いたくないならこちらは別に構いやしないし、こうしなければ泣けないというのなら、僕の背中くらい、いくらでも貸してあげたっていい。胸の内に湧いた言葉を、確かに、ぐっと飲み込んだ。きっと今は、このまま寝たふりをし続けるのが一番なのだろう。でも、もし山口が一度でも確かにしゃくりあげたとしたら、一秒も待たずに引きはがさなければいけない。布団の中で鼻水をつけられるのだけは御免だった。でも、まぁ、それ以外のことであるなら、これくらいのこと、いくらでも見逃してあげよう。それくらいの心の広さを持ち合わせている自負くらい、僕にだってあるのだから。
 背中に貼りついた山口の呼吸と体温に瞼を伏せたところを最後に、知らないうちに眠りに落ちていた。朝、目が覚めると、山口はしっかり来客用の敷布団の中に納まっていて、あれは自分の夢だったのかと、一瞬そう勘違いしそうになったけれど、背中に残っている山口の吐く息の熱い感触に、そうではないと唇を噛んでいた。
 まだ、俺はこの夢を見ていたいだけなのに。そう願う自分の声ばかりが、ただひたすら騒がしく鳴りつづけていた。


Twitterのハッシュタグ「#イラストを投げたら文字書きが引用RTでSSを勝手に添える」
相互フォロワーういろうさんの(@uirou0214)さんのイラストからインスピレーションを受けて書いたもの