特定の誰かの何をどこまで知るようになれば、人は、相手のことを充分知りつくしていると自覚するようになるのだろう。
「あ、うそ、月島って初期設定のままの人なんだ!」
 ゼミの講義を受けようと教室の一番後ろの席に腰かけていた自分の背の方から、不意に大きな声を掛けられた。嫌な予感を抱きつつ顔を上げれば、そこには鞄を肩に掛けたままこちらを見下ろす、同じゼミの同学年の女子が立っていた。その右手の人さし指は真っすぐに僕のスマホのホーム画面を指さし、その表情はどう考えても、驚きや呆れや嘲りの気配に満ちているようにしか見えなかった。
「だから、何」
 突然声を掛けられた衝撃と、あまりにも不快なその態度に眉をひそめながら、あからさまに牽制の意を込めて告げた。今までろくに会話したことさえない相手のスマホを覗き込むだけでなく、こんな調子で声をかけてくる相手だ、一分一秒でも長く関わってはいけない、そう自分の本能は訴えていた。とはいっても、今の相手の言動がひどく迷惑なものであるという意思表示だけはハッキリとしておかなければいけない。後々面倒なことになる可能性だけは失くしておきたかった。だが相手の女子は妙に楽しげな調子のまま、話を続けるばかりだった。
「あのね、スマホの待ち受け画面を、初期設定のまま替えない人って、ものすごい面倒くさがりか、めちゃくちゃ人の目ばっかり気にしちゃうタイプの人なんだよ」
 得意げに語るその口ぶりに、そういえばこの女子がゼミの中でも占いや心理テストといった類のものを妙に好む人種であることを思い出していた。直接やりとりをしたことはなくとも、これまで何度か、この女子を中心に、ゼミの学生の何人かが講義の前後に心理テストや手相占いで盛り上がっているのを遠巻きに目にしたことがある。きっと今の解説も、どこかで仕入れた占いのひとつなのだろう。
「それが何? たかが占いでしょ」
 じっとこちらの顔を見た相手は、へぇ、と目を丸くしてから口角を上げた。
「ムキになる、ってことは当たってるってことかな? 月島って、意外と"良い格好しい"だったりする?」
「占いひとつで、相手のことを知ったような気になるのは、どうかと思うけど」
「そうかな? 意外と当たってる、って評判いいんだよ。ちなみに、恋人の写真にしてる人はヤンデレ依存症、ペットの写真の人は寂しがりや、風景とか綺麗な写真の人はナルシストらしいよ」
「そんなこと知ったところで、何になるの?」
 嬉々として語っていた相手が、これまでで一番の意外だという表情を浮かべて見せた。
「相手のことを知る、ってそれだけで嬉しくない?」
 投げかけられた言葉の意味がすぐには受け止められなかった。視線をそらし、一瞬考え込んでいる間に、始業のチャイムが鳴り響いた。いけない、と前を見た横顔が、一瞬、こちらの目を見て薄く微笑む。
「もしかして月島って、誰かについて知りたい、って思ったことすらないの?」
 その一言は妙に頭の奥の方にこびりつき、帰りの電車の中でさえもしつこく離れなくなっていた。電車の座席に腰かけると同時に取り出したスマホですら、その画面に表示された初期設定画像と目が合っただけで、深いため息を吐き出す結果となった。
 別段、占いや心理テストが好きなわけでも嫌いなわけでもない。ただ単に、興味がない。それだけのことだ。占いや心理テストといったものの信頼度はたかが知れていると思うし、そんなもので誰かの中身について知りたいとは思わない。それに、人間だれしも、長く関わっていくようになれば、特に何もしなくたって嫌というほど相手のことを知ることになる。実際、自分において、その典型的な例が山口との関係だった。
 山口と初めて会ったのは小学校の頃、そこから中学高校と十年以上も友達として、チームメイトとして、誰よりも深く関わってきた。それは自他共に認める事実であることは揺るがないだろう。ましてや、山口と自分は高校の半ばから友達ではなく恋人として交際を続けているし、大学に進学したのをきっかけに、ルームシェアという体裁ではじめた同棲生活も三年目を数えている。家族以外で、山口のことをここまで知り尽くしているのは自分以外、他に誰ひとりとしていないだろう。占いや心理テストのようなものを利用しなくとも、人は誰かのことを充分知ることは出来る。
 ぼんやりとそんなことを考えてから、あと何分で降りる駅にたどり着くのかと、表示された時刻とともに、指摘された自分のスマホのホーム画面の画像に目を向けた。
『ものすごい面倒くさがりか、めちゃくちゃ人の目ばっかり気にしちゃうタイプの人』
 耳の奥に蘇ってくる声に、うんざりしながら反論をした。深い意図はない。それが正直な自分の答えだった。気に入っている画像が他にあるわけでもない、何か操作をすれば隠れてしまうだけのホーム画面に意味をもたせる必要性を感じたことさえ無かった。それなのに、ここまで悩まされることになるとは、まったくもって、自分でも予想外のことだった。
『ペットの写真の人は、寂しがりや』
 これまで飼ったことのある生き物は兄が選んだ熱帯魚くらいで、その時の自分は、携帯電話というものを持ってすらいなかった。
『恋人の写真にしてる人は、ヤンデレ依存症』
 記憶の中の声に対し、気づけば返事の代わりに、鼻で笑っていた。公言できるような恋人がいるならば、それはひどく自然なことだろう。対外的なアピールにもなりえるし、自分にとっても相手がいることを自覚する戒めとして活用できるはずだ。ただ、それは一般論でしかなく、もし自分が山口との写真をホーム画面に表示設定させていたとしたら、とんでもなく面倒なことにしかならないだろう。
 自分で思い浮かべた仮想の状況に、思わずゾッと背筋が冷たくなった。それと同時に、もしや、と新たな別の状況を想定しては、大きく身震いをしていた。
 もし、山口が自分との写真をスマホのホーム画面に選択していたとしたら……?
 ハッと息を飲むと同時に、否定したいがために首を振った。山口もそこまで馬鹿ではないはずだ。そう頭では願っていても、心は確信を得られずにいた。なぜなら、自分は、山口がスマホのホーム画面にどんな画像を設定しているのかさえ知らずにいるからだ。
 ほんの少し前まで抱いていた自信が揺らぐ感覚がした。自分は山口のことを知り尽くしていると思っていたのは錯覚でしかないのかもしれない。
 電車を降りて十五分、二人で選んだマンションの三階の一番奥の角部屋に向け、いつもより急ぎ足で家路をたどった。帰り着いた部屋の玄関を潜り抜けると、中には先に帰宅していた山口がリビングでくつろいでいた。二人掛けのソファのいつもの場所に腰を下ろし、こちらの不安など知るわけもない同居人は、両手で支えたスマホの画面を熱心に見入っていた。ドアの閉まる音に反応したのか、部屋の入り口に立っている僕の顔を目で確認した山口は、いつもの調子で口を開いた。
「おかえり」
 やわらかく微笑んだ数秒後に視線を戻したスマホの持ち方から、山口が最近始めたというアプリゲームをプレイしているのだと気が付いた。どうすればホーム画面を見ることが出来るのか。ほんのわずかな時間でも、自分の視線がその指先を追っていることに気づかされた時、自分が他人にされて最も不快に思う行為を今まさに自分自身がしようとしていたのだと知り、思わず絶句した。
「ツッキー、どうしたの……? 何かあった?」
 立ち尽くしたままの僕を心配そうに見上げてきた山口に対し、どう応えようか数秒迷ってしまう自分がいた。けれどもいくら考えたところで上手い言葉などみつかるわけもなく、息苦しさの中で必死に吐き出したのは、自分でも情けないと感じるほどの弱々しい声だった。
「スマホの、待ち受け、……何っ?」
 ぽかん、と口を半開きにした山口が、数秒間を置いてから、大きく首をかしげた。
「待ち、受け……?」
 予想していた答えと全く異なる類のものだったせいか、ひどく戸惑った表情を浮かべ、こちらの目をじっとのぞきこんでくる。大げさな瞬きを何度か繰り返したのち、いぶかしげな表情のまま、自分の手の中にあるスマホを掲げて見せてきた。
「この……待ち受け?」
 そう、と答える代わりに、ゆっくりと首をたてに振った。山口は何度もスマホと僕の顔を交互に見た後で、一瞬で顔を真っ赤に染めた。
「えっ……、見せなきゃ、ダメ、かな!?」
 明らかに上ずった声を発した山口の様子に、まさか、と背中を冷たいものが走った。頭の中には、考えうる限りの最悪の答えが一瞬で浮かび上がっていた。
「そんな、人に見られちゃ困る画像でも設定してるわけ?」
「ちっ、違うよ、そういうわけじゃないけど、でも、あのね、」
「じゃあ今すぐ見せてくれても構わないでしょ」
「そ、そうだけど……でも、」
「見せられるのか見せられないのか、どっちなの?」
「見せる、見せられるよ、ちょっと待って、」
 ごにょごにょと口ごもった山口が慌ててホームボタンを押し、スマホの画面をこちらに向けた。差し出された画面を良く見ようと、一歩山口の座るソファへと近づいた。
「何、これ……?」
 何回、目を細めたり見開いたりしてみても、どんなに近づいて目をこらしてみたとしても、山口のスマホ画面に表示されている画像が何なのか、一ミリも分からなかった。画面いっぱいに並べられたアイコンの隙間に見える画像はひたすら白っぽく、全体的にぼんやりとしていた。隅の方に、うっすらと影のようなものがあるようにも見えなくはなかったが、それでも何の画像なのかは全くと言っていいほど分からなかった。
「これ、写真……? それとも、何かのイラスト画像……?」
「写真だよ」
「山口が撮った写真?」
「そう」
「いつ撮った写真?」
 苦笑いを浮かべている山口から、三年前の春の日付が告げられた。それが山口と一緒に暮らし始めた最初の日である、と思い到るまで、ほんの少し時間はかかったけれども、でも、たしかにその日、山口が引っ越し記念とか、同棲生活スタートの記念だとか言って、相も変わらず、熱心にスマホで写真を撮っていたことを思い出していた。まだ荷解きの終えていない、段ボール箱が積み上がっただけの殺風景な部屋の中で悪戦苦闘していた山口の姿なら、昨日のことのように覚えている。ただ、自分の記憶が確かなら、その時二人肩を並べて撮った写真も数えきれないほどあるはずだった。
「その日撮った写真なら、他にもたくさんあるんじゃないの?」
 目を合わせた山口は、申し訳なさそうに目を逸らすと、ぽつぽつと話し始めた。
「そう、だったんだけど……俺、スマホの機種変する時に、うっかりデータ移そうとして、間違えて何枚か写真だけデータ消しちゃってさ……それで、引っ越ししてきた日の写真は結局、ピンボケのこの一枚しか、今はもう、残ってなくて、その……」
「じゃあ、なおさら、他に写真なんていくらでも選びようあったでしょ、それこそ、去年行った北海道の写真とか、花火とか」
 これまで山口と一緒に過ごす中で、頻繁に写真を撮っている山口の姿は間近に目にしていた。山口という男は、記念とか想い出とか、そういった響きのするものが好きなのか、行く先々で何かと写真を撮ろうとする。今まで自分が知る限り、百や二百は軽く超えているに違いない。それなのに、どうしてこんな写真をわざわざ選んだというのか。
 スマホの画面が消えたことに気付いた山口が、自らの視線の先に引き戻し、もう一度ホーム画面を表示させた。画面に映し出された白っぽいだけの画像を見下ろし、口角の上がった横顔が、そっと告げてきた。
「俺、ツッキーと一緒に暮らすんだ、って、この部屋に初めて来たとき、ものすごく嬉しくて、本当に、心の底から嬉しすぎて、……とにかく嬉しいって気持ちしかなくて、それをずっと忘れないようにしよう、って思ったんだ。だから、毎日絶対何度も目にする待ち受けにしたら、あの日の気持ちを忘れずにいられるかな、って……もちろん、去年の旅行だって花火大会だって、ツッキーと一緒にいた時間は全部楽しくて幸せで、写真を見返す度に、こんなことあったな、あの時こうだったな、って思い出して幸せな気持ちになるんだけど、でも、この日の写真だけは、やっぱり、特別だなぁって、思ってるんだ」
「ピンボケの写真でも……?」
 もちろん、と顔を上げた山口が満面の笑みを浮かべて応えた。
「だって、この写真を見ると、あの日のことを俺はちゃんと思い出せるから。窓際のフローリングの暖かさとか、やわらかい春の匂いとか、ツッキーの表情まで、全部」
 その言葉で、山口が何故写真を撮りたがるのか、その理由が初めて分かるような気がした。ちょっと見せて、と声をかけ、差し出されたスマホのホーム画面の画像を改めて目に映してみる。確かにそう言われてみれば、白くぼやけた光は、あの春の日の日差しであるように思えてきた。山口と二人並んで写真を撮った時の、背中に感じた暖かさが蘇ってくるようで、何故かじんわりと首のあたりが熱くなってきたような、そんな錯覚さえも芽生えようとしていた。
 気づけば口角を引き上げていた自分に対し、それに、と山口が付け足しとして口を開いてきた。
「前は、ツッキーとの写真を待ち受けにしようかなって考えたこともあったんだけど、もし誰かにうっかり見られたりしたとして、俺、その時に上手く誤魔化したり出来そうにないなぁ、って。そう思ったら、この写真が一番いいかな、って」
 どうやら自分の抱いた心配は全くの杞憂だったようだ。ホッとした僕の隣で、反対に山口は心配そうにこちらの手の中にある自分のスマホの画面を覗き込んできた。
「でも、やっぱり、何も知らない人から見ると変に思うかな、こんなピンボケで白いだけの写真を待ち受けにしてるなんて、特別な理由があるんじゃないかって気づかれたりしないかな、ねぇ、ツッキーどう思う?」
「別に、いいんじゃないの」
 首をひねっては唸っている山口にスマホを返しながら、半分無意識のなかで自分は、その一言を発していた。
「この写真、データ送って」
「えっ、何で、もっと他にあるよ、綺麗な写真とか、ツッキーが良く撮れてる写真とか、」
「いいから、早く」
 えええ、と濁った声を発しつつも、山口のスマホからLINEの画面に画像データが放り込まれた。表示されたサムネイルを長押しし、無事にスマホの画像フォルダへと保存されたことを確認した。初めての操作手順を経て自らのホーム画面に表示された画像を目に映し、満足感から笑みを浮かべていた。
「こっちも、待ち受け、これにしたから」
 差し出したスマホのホーム画面に表示された画像を目にし、山口が驚いた様子で息を飲むのがわかった。見開いた目でこちらを見上げる山口に対し、妙な優越感を感じて目を細めた。
「お前だけに独り占めさせるわけにはいかないでしょ」
 すっかり蘇ってきた、あの春の日の感触に自分の感覚が満たされていくのを感じながら、こうやって山口のことを知るのは嫌いじゃないな、と、そんなことを思っていた。





2020年5月5日開催エア山月プチ内における企画『山月千夜一夜物語・2』に参加した作品です。
「陽だまりをうつした写真」がタイトルとなるSS執筆という企画でした。