首筋をなでる冷たい風が気になって顔を上げた。壁に取りつけられているエアコンが唸りながら風を送り続けている。背を預けたベッドの上にはツッキーが寝転んでいて、うつ伏せで肘をつきながら雑誌を眺めている。その横顔からすりぬけた風が俺の顔に届き、眼の表面が乾くのが分かった。強く瞬きをすると、伸びきった顎の下がつりそうになる。
 ツッキーの部屋に入るのはもう何度目か分からないけれど、いつでも冷房はフル稼働していて、時々心配になる。ツッキーは暑がりの寒がりだって充分知ってるけど、さすがに風邪をひいてしまうんじゃないかってハラハラする。窓の外から聞こえるセミの声が夕暮れの近いことを告げている。きっと冷房を止めても窓を開ければ涼しい風が入ってくるだろう。その事実を口にしようとした時、ツッキーの頬を汗がつたった。
 やっぱりまだ暑いんだ。俺は口を閉ざして、ぼんやりとツッキーの横顔を見ていた。
伏し目がちになったまぶたに揃った睫毛が瞬きに合わせて揺れ、その奥にあるつるりとした瞳が見え隠れする。ページの上に視線をすべらせながら、何を考えているのかは俺にも分からない。すっと伸びた鼻筋から続く輪郭が唇を形取って、細くなめらかな顎と耳を一筆につないでいる。汗を浮かべる頬はソバカスだらけの俺とは比べようもないくらい、心の底から綺麗だと思う。ふわふわの髪が大きくも小さくもない薄い耳たぶの縁を、ほんの少し覆っている。きっとツッキーは俺とちがうもので出来ているんだと思う。もしもこの手で触れられたら、どんな感じがするんだろう。
「何」
 ハッと我に返ると、ツッキーが横目に俺を睨んでいた。その視線の先には知らぬ間に伸びていた俺の右手があって、あと5cmでツッキーの肩に触れそうな状態だった。あわてて手を引っ込めて頭を起こす。のばし続けていた首から胸にかけて一気に血が流れこむ。よりかかっていた体を起こし、その場に座りなおす。
「ごめんツッキー、俺べつにツッキーに触ろうとかしてないから!」
 エアコンの音に混じって、ツッキーの「何それ」と笑う様子が耳に届いた。恥ずかしさにふり向けず、乾ききった喉に生唾を押し流す。
「ツッキーは何で気づいたの」
 自分が何を口にしてるのか半ば分からないまま黙っていると、すぐに返事が返ってきた。
「だってお前が近づくと暑いから」
 え、と自分の両手を広げて見つめる。
「山口、平熱何度」
「36度6分」
 うわ、という呟きが耳に届く。俺は思わずふり返ってツッキーの顔を見た。ツッキーは目を細めて、口元を歪めて言った。
「絶対お前に触られたら暑い、だから触んな」
「えっ俺ツッキーに一生触れないの!?」
 俺の叫びに苦笑を浮かべ、ツッキーは再び雑誌の誌面へ顔を向けた。俺は汗のひいた自分の両手を見ながら、ため息をついた。自分の体温を恨む日が来るなんて。このままずっとツッキーと手もつなげずに時が経つなんて、考えたくない。せめて俺のこの平熱がツッキーと同じだったら良かったのに。体温を下げる方法ってネットとかで調べれば分かるだろうか。
「ねぇツッキー平熱いくつ?」
「35度8分」
 肩ごしに聞こえた数字に肩を落とす。今までツッキーのことなら、なんでも知ってる自信はあったけれど、まさか俺とツッキーの体温に0.8もの差があるなんて思ってもみなかった。
もう一度ため息をついた時、小さなため息が返ってきた。それは紛れもなくツッキーのもので、意外なことに驚いた俺は体ごとツッキーの方に向けた。さっきまでの光景とまるっきり同じツッキーの姿。よく見れば5分ほど前に俺が最後に見た雑誌のページが開かれたままだ。もしかして、俺がぐるぐる考えてる間、ツッキーの手を止めるような何かがあったということかもしれない。でも、それって何だろう。
「あのさ、このままずっと夏が続くわけじゃないから」
 ちら、とツッキーの目が俺を見た。発せられた言葉を何度もくり返して噛みくだく。
「じゃあ、寒くなったら触ってもいいってこと!?」
 瞬時に顔をしかめたツッキーの様子から、またうるさくしてしまったのだと反省する。それでも心の中で舞い上がる自分がいて、心臓が隙を見て騒ぎだそうと待ちかまえている。
返事を待つ俺と目が合って、ふいと視線が離れる。その横顔が返事の代わりとして言葉を続けた。
「触りさえしなければ、別に……好きにすれば」
「じゃ、じゃあ触る真似なら良い?」
 反射的に声に出した俺はベッドの上に手をつき、前のめりに体重をかけた。ツッキーが驚いたように身構え、壁に少し近づいた。その様子に、また自分が調子に乗ってしまったことに気づき、体を引く。
「ご、ごめん。さっき近づくだけでも暑いって言ってたの忘れてて……」
「触られるくらいなら、それくらい平気だけど」
 珍しくそらさずに俺をまっすぐに見るツッキーの目。色素の薄い瞳に俺の顔が映り込んでいる。その透明な色に、心が揺らいだ。
 生唾を飲みこみ、ベッドの上に上がる。すぐにそっぽを向いてしまったけれど、ツッキーは逃げる気配もなくベッドの上に体を起こした。あまり近づいてはいけない気がして、指が届くかどうかのところで動きを止める。さっきまで乾いていた手のひらが、手汗でびっしょりぬれている実感を持ちながら、右手を上げた。視界まで持ち上がった指先が緊張で、見た目にもぶるぶる震えているのが、自分でも情けないと思う。とっさにTシャツの裾で両手の汗を拭った。どんなに拭いてもぬめる気がして、必死にこすっていると、ツッキーがじっとこっちを見て無言の訴えをしてくるから、さらに汗が噴き出るようだった。
 呼吸と暴れる心音をなんとか抑えこんで、両手をのばした。ツッキーの頬まで2cm足りないその場所で、俺はツッキーの顔の形をなぞり始めた。白くてふっくらとした頬は、すべすべでなめらかで気持ちが良いに決まっている。肌の下の頬骨の存在感は、黒縁の眼鏡と同じくらい。眼鏡の黒とは正反対の白い肌は、きっと冷たくて、ずっと触っていたくなる。皮膚の薄い顎から首にかけて、血管から伝わる脈がこの掌に伝わって感動するに違いないし、鎖骨から広がる肩は、見た目に対してどれくらいの厚みがあるんだろう。肩と同じくらい、この胸の厚みも気になる。
 一部一部、じっくりと頭の中で描くように、一定の距離を保ちながら手を動かしていく。ツッキーは息をひそめて、微動だにもしない。肋骨の数をたどって肩に戻り、肘までたどりついた時、ツッキーがそっぽを向いたまま咳ばらいをした。びくりと肩に力をこめて手を止める。しつこかったかなと手を少しだけ遠ざける。平気だとツッキーは言っていたけれど、本当はかなりガマンしてくれているのかもしれない。冷静なその顔の下で、奥歯を噛みしめているとしたら。
 突然申し訳ない気持ちが膨れ上がってきて、沸騰しそうだった頭から血の気がひき始めた。
嫌われてしまうかもしれない。俺は差し出していた手を引っこめようとした。すると
「もっと近づけばいいのに」
 俺の目を見たツッキーが、不満そうに呟いた。
 一瞬何を言われたのか理解できず、頭の中が真っ白になる。じれったそうに眉間にシワを寄せたツッキーの顔が、俺を見る。
「中途半端にやるなら、これくらい近づけって」
 のびたツッキーの右手が俺の左手首をつかむ。その力の強さに驚いている間もなく引き寄せられ、その勢いで体勢が崩れる。あわてて空いている右手をベッドの上につき、体を支える。
左の掌が圧迫される感覚に目を向けたら、そこにはツッキーの顔があった。右頬の上に俺の左手があって、さらにその上からツッキーの手がのせられている。ぐっとおしつけられた感触に思考がぐちゃぐちゃになりながらも、その頬が意外に温かいことを知った。
 目と鼻の先にツッキーの顔があって、こんな距離を体験するのは夢の中以外で初めてだった。体全部が心臓になってしまったみたいにドキドキして、口の中はもうカラカラに乾いている。俺の顔を見たツッキーが、笑いながら言った。
「山口、目泳ぎすぎ」
「だ、だって、俺ツッキーに触っ」
 言っている間に掌に汗が滲み出てきて、ツッキーの頬にへばりつくこの手が、実は気持ち悪いと思われてるんじゃないかと考えたら、死んでしまいたくなる。息を吐き出すのと同時に、何度もごめんと繰り返す。ツッキーは目を閉じて、うるさいと短く言った。俺は唇を強くかみしめた後も、心の中で何回もその三文字を唱え続けた。浅く吐いた息に混じって、ツッキーが「暑い」とこぼす。ごめん、と無意識に答える。離してほしいと言うべきだと思ったけれど、勇気が出なかった。
 時間が経つにつれて、だんだん触れている部分の熱が上がってきている気がした。でも、それが俺の手のせいなのか、押しつけられている力の強さで分からなくなって、いつの間にかその境界すらも曖昧になっていくような錯覚を抱き始めた。その温度差は0.8もあるはずなのに、今にも溶けていってしまいそうだ。
「ツッキーって意外とあったかいね」
 ふとこぼした言葉に、血管が透けるほど白いまぶたが、ほんの少し持ち上げられる。薄く開いた二つの目の印象がやわらかくなった気がして、息が止まった。密着した部分の熱が一気に上がる。口角を上げた唇が、言葉を紡ぐ。
「今、体温上がってるから」
 その声は普段より一層落ちついていて、普段のやりとりでは有りえないほど優しい口調だった。俺は調子に乗ってしまう自分に目をつぶって、体を近づけた。負荷のなくなった右手を持ち上げ、おそるおそる、その肩に触れる。拒絶の色は全く表れなかった。
布ごしに伝わる温度に、触れた手がふるえた。いつも目にしているはずだけど、その肩は思ったより骨ばっていて、しっかりしている。肩から背中に手を回す間、ツッキーは何も言わず、どこも動かさずにいた。さらに体を近づければ肩甲骨に指が届いた。縁をなぞっては、その体がいかに薄く頼りないかが伝わってくる。その感触を噛みしめていると、目の奥がじんと熱くなるのが分かった。
 唇を噛んでいる俺を見て、何泣いてんのとツッキーが笑った。
 だって、夢みたいで。奇跡って、こういうことなんだなぁと思って。
 頬を伝った雫を長い指で拭いながら、ツッキーは呆れた口調で言った。
「お前って本当にバカだよな」
 でもその優しさを俺は知っているから、嬉しさに思わず笑ってしまって、ツッキーはもう一度俺に向かって、バカと囁いた。