名は体を表す、なんて、誰しも一度は耳にしたことがあると思う。ことわざだったか慣用句だったか故事成語だったかは記憶に曖昧だけど、自分の名前はともかくとして、俺はその言葉を案外信じているような気がする。少なくとも、俺の大好きなツッキーの場合は、すごく当てはまっているんじゃないか。小学生の頃、ツッキーの名前を表すその漢字の意味が知りたくて辞書を広げたその時から、俺はずっとそう思っていた。
 だからこそ、その予感は自分でも無自覚なうちに、頭の隅のどこか奥の方でうっすらと抱いてしまっていたのかもしれない。





 学校からの帰り道、突然暗くなった空から大粒の雨が降り注いできた。お互いに傘を持っていなかった俺とツッキーは、急いで道の脇にあったバス停めがけて駆け込んだ。そこは、簡単な木の骨組みに青いトタン屋根をかぶせただけの簡素な場所だったけれど、今の俺たちにとっては充分すぎる場所だった。近所の誰かが作って持ってきたんだろうな、と想像できる程度の手作りの木製ベンチに腰かけながら、俺とツッキーは濡れた鞄と制服をそれぞれ持っていたタオルで軽く拭いた。幸い、すぐに屋根の下にたどり着けたおかげで、制服も鞄もそれほど湿ってはいなかった。
「もう夕立の季節なんだね」
 頭の上で鳴り響いている、雨粒が屋根を叩く音の強さに俺は思わず声を漏らした。ツッキーはくたびれた表情でため息をひとつ吐く。
「まだ早いでしょ、梅雨も明けてないのに」
 ツッキーの指摘にそっか、とつぶやいて、俺は屋根越しに真っ暗な空を見上げた。今年の梅雨は空梅雨と呼べるくらい、例年に比べて雨がびっくりするほど降っていない。そのせいで、すっかり忘れてしまっていたけれど、梅雨入り宣言をされて二週間の今は、まだ梅雨の真っただ中と呼べるはずだった。いつもの梅雨の季節なら、いつ雨が降り出しても大丈夫なように鞄の中に必ず折りたたみの傘を持ち歩いていたはずなのに、すっかり俺もツッキーも油断していたのか、二人とも学校へ置いたままにしてしまった。
 トタン屋根を伝って滴り落ちていく雨水の勢いを目で追いながら、なんて運が悪いんだろう、と息を吐く。濡れたタオルを鞄に押し込みながら、スマホを取り出して、立ち上げた天気アプリの雨雲レーダーを確認してみる。
「あと十分くらいで止むみたい」
 隣のベンチに座るツッキーにスマホの画面を差し出しながら声を掛けた。ツッキーはちら、と画面に一瞬だけ目を向けるだけだった。その横顔は気だるさに溢れていて、ペットボトルを手にした腕はだらんと力なく下がっていた。俺はこれ以上話しかけない方が良いのかもしれない、と判断して、ツッキーの方へ傾けていた体を真っすぐに戻した。スマホに顔を向けつつ、ツッキーには分からないように横目に何度か見たけれど、ツッキーはじっとうつむくだけで、何も言ってはこなかった。
 ツッキーがこうしてぼんやりしているのは、今の今、今日に限ったことでは決してなかった。俺の記憶が確かなら、一週間くらい前から、少しずつ、こうして誰の言葉にも曖昧に返事をするだけの状態になってしまうことが増えていた。こうなってしまっている間のツッキーは、何を言っても表情すら変わらず、むしろどこか虚ろに見える視線に顔色も悪く感じられるのだけれど、それをツッキーに指摘すると信じられないほどムキになって否定し続けるのだった。何か心配なことや気掛かりなことがあるのか、それとも急に暑くなり始めた気温や例年とは違った気候にまいってしまっているんじゃないかと心配になったけれど、ツッキーはその話になると絶対に固く口を閉ざしてしまって、それ以来俺は、何も聞けなくなってしまっていた。
 誰かに相談しようにも、部活はテスト期間に入っていて、俺の感じているツッキーの変化が俺の気のせいなのかそうじゃないのかさえも確認することは難しかった。ただ、こんな状態で練習を続けたら、ツッキーがいつか大きな怪我をするんじゃないか、なんて心配も同時にあったことを考えれば、不幸中の幸いみたいなものかもしれなかった。
 雨の勢いが少し弱まってきたように感じた頃、隣で顔を上げたツッキーが、手にしていたペットボトルの蓋を開けて口元に傾けた。それは学校の自販機で買った桃の香りのついたフレーバーウォーターで、中途半端な甘みのついたその飲み物をツッキーは勢いよく飲み込んだ。飲み口を離した口元に飛んだ滴を指で拭うと、ツッキーはその濡れた指先を唇に当てて軽く吸った。俺はその一連の仕草を目に映しながら、胸の奥がざわつく感覚をはっきりと抱いていた。
 ツッキーがペットボトルを持ち歩くようになったのも、例のぼんやりがはじまったのと同じくらいの時期のことだった。中身は決まって果物の香りと甘みのついたフレーバーウォーターで、ツッキーはそれを休み時間の度に口にするようになった。俺はその姿を目にした日から、ツッキーがおかしい、と感じるようになった。そもそもツッキーは人工的な甘さしか入っていない、その手の飲み物を好んではいなかったし、何より、俺はその日を境に、ツッキーが何かしらの食べ物を口にしているところを、一切、目にしなくなっていた。ぼんやりよりもペットボトルよりも、俺にとって一番の心配はそこにあった。
 今まで毎日、何か都合が悪くない限り俺とツッキーは教室で一緒にお昼ご飯を食べていた。ぼんやりが始まってすぐの頃から、ツッキーは突然俺の誘いを断るようになった。ツッキーは昼休みになると決まって教室をふらりと出て行き、午後の授業が始まる数分前になると何もなかったかのような表情でふらりと戻ってくるようになった。ひとり、学校のどこで過ごしているのか気になって捜してみたこともあるけれど、何度捜してみても、見つけることはできなかった。初めて断られた日の昼休みこそ、何か自分が怒らせるようなことをしてしまったのかもしれない、と心配になったものの、何ひとつ思い当たる節は無かったし、思い切って直接ツッキーに尋ねてみた時でも、何度も同じ否定の言葉をくり返されるばかりだった。ただ純粋に、どこか人目につかない静かなところで一人で食べたいだけなのかもしれない……そんな風に自分に言い聞かせ始めた頃、突然授業中にツッキーが倒れた。 椅子に座ったまま意識を失ったのか、大きな音を立てて床の上に滑り落ちた。それはこの一週間で一度だけでなく、三度も繰り返され、そしてようやく俺は、ツッキーが前よりもずいぶんと痩せてしまったことに
気が付いたのだった。元から細身の身体ではあったけれど、明らかに筋肉が落ち、半袖のシャツから覗く腕も、骨の形が目立つようになっていた。その時記憶のなかの光景を振り返って、ある違和感に気がついた。教室から出ていくツッキーの手には、見慣れたお弁当の包みも財布も握られていない代わりに、この透明な飲み物の入ったペットボトルが必ず決まって握られている……ツッキーはこの透明な液体以外のものを、俺の知らないところでちゃんと口にしているのだろうか。そんな危機感を覚えて、俺はしつこくツッキーを問い詰めた。けれど、そんな時は決まってツッキーは例のぼんやりを起こし、何も答えてはくれなかった。もしかしたらツッキーは、
「山口」
 声をかけられて我に返った。見れば雨はすっかり止んでいて、鞄を肩に掛けたツッキーが俺の前に立っていた。
「雨、止んだけど」
 見上げた空は雲が途切れ、奥に続く遠くの空は赤く染まり始めていた。ほんとだ、とつぶやいて、俺はその場に立った。夕焼けに見とれている俺の視線をなぞって、ツッキーも同じ方角へ目をやった。その横顔を確認して、俺はホッと胸をなで下ろした。どうやらさっきまでのぼんやりは、今はもう無くなったみたいだ。その証拠に、こちらの目をのぞきこんで、こう尋ねてきた。
「寝てた?」
「ううん、ちょっと考え事してた」
 ごめん、と口にしながら、一歩、屋根の外へと出た。息が詰まるほどの蒸し暑い空気があたりを覆いつくしていた。学校を出た時には吹いていた弱い風も、雨雲と一緒に途切れてしまったのか、すっかり止んでしまっていた。雨上がりの湿気を含んだ夏の空気に、むせるように軽く咳をした。頭の中はさっきの続きがぐるぐると渦を巻いていた。
 そのまま特に何も話しかけることもしないで、お互い、うつむきながら帰り道をたどっていった。隣で歩くツッキーの手にあるペットボトルの中身が立てる、ちゃぽちゃぽという水音がやけに耳について仕方がない。少し歩いては思い出したかのように蓋を開けて口をつけるツッキーの姿に、どこか俺の身体の奥の方が澱んで濁っていくような気がしてならなかった。ツッキーはどうしてこうなってしまったんだろう。何かひとつでも元に戻ったりしないんだろうか。そんなことをつらつらと考えながら歩きつづけると、ふいに、
「あ」
 いつも通る橋のたもとで、ツッキーが足を止めていた。気づけば辺りはすっかり日が暮れて薄暗くなっていて、その暗がりに目を向けているツッキーの視線が、つ、と右から左に泳いでいった。小さな光が一つ、暗い空間を漂っていく。
「ホタルだ」
 気づいた俺も思わず声を上げていた。ペットボトルを手にしたままのツッキーの左手が肩のあたりまで上げられて、そっとその人差し指が伸ばされた。ふわり、と漂っていた光がその指の先で止まった。
 すげぇ、と声を殺してつぶやく。ツッキーはぼんやりとその光と、その光を発する身体に視線を落とす。かと思うと、ふっと手を下ろしていた。驚いたホタルがツッキーの周りを再び漂いはじめる。ツッキーはその動きを気にすることもなく、手にしているペットボトルのフタを開けると、もう片方の掌を天に向けたまま、その中身を少し手のくぼみの上に数滴、落とした。漂っていた光の点が、今度はツッキーの掌の上へと留まった。
 その光景につられて、俺の頭の中にはある歌が流れだし、自然と口先で歌い出していた。
「ほー、ほー、ほーたる、こい」
 うつむいていたツッキーの顔がほんの少しこちらを向いて、その口元を緩めた。俺は一歩ツッキーに近づきながら、その光の点滅を見つめてその続きを口にする。
「あっちの水は、苦いぞ、こっちの水は、甘いぞ」
 その間に、ひとつ、またひとつと漂ってきた光がツッキーの手の周りに集まってきた。気づけば川の堤防のあちこちで、数えきれないほどの淡い光の粒が点滅しているのが見えはじめていた。
「すごいね、ここ、こんなにいたんだ」
 俺の声に驚いたのか、ツッキーの手に留まった光があっという間に散り散りに飛び立って行ってしまった。残念に思いながらぐるりと辺りを見渡す。人工の光とはまた違った手触りのする光の集合に、ついじっと見入ってしまいそうになる。橋の欄干へ近づいて眺めると、その光の中でも強いものと弱いものが実際に混じっていることが分かる。
「ツッキー知ってた? ホタルって、オスの方が強く光るんだって」
 隣へ立ったツッキーに話しかけると、ツッキーはじっと川を彩る光のいくつかに目を凝らしているみたいだった。
「光の点滅の仕方で、メッセージを送るんだって」
「へぇ、」
「俺、一回ホタルについてある程度調べたことがあって、その時、いろいろ知ったんだ」
「いろいろ?」
「そ、ホタルは幼虫の頃から水の中で光るんだって。成虫に比べれば、ぼんやりしてるらしいけど」
「ふぅん」
「ホタルの幼虫って結構見た目グロいから初めて見た時はびっくりしたな。しかも、生きてる貝を溶かして食べるって知った時は、たまらず、ぞぞぞ、ってしたの、覚えてる」
「そう」
「でも成虫になったらホタルが、水しか飲まなくなるってことも逆にびっくりしたよ。そのせいで成虫になったら一週間しか生きられない、ってのも、なんか、知った時はショックだったな」
「そんなこと、分かり切っていることなのに?」
 え、と視線を上げた先にあるツッキーの顔は、平然としていた。その冷静さがどこか異質で、冷たささえ感じることに、俺は口をつぐんでいた。感傷的過ぎると言われればそれまでのことかもしれない。でも今のツッキーの声には、それを上回る何かが含まれていたような気がして、俺はツッキーの顔から視線を逸らせずにいた。
 ツッキーは俺のことなど何一つ気にしない素振りで、また、手の中にあるペットボトルを傾け、喉を大きくふるわせて、その透明な液体を飲み下した。人工的に香りと甘みをたされた、甘いだけの水を。
 頭の中で歌が蘇ってくる。
『ほー、ほー、ほーたるこい』
 さっき自分の口が発した言葉が脳裏をよぎる。
『成虫になったらホタルが、水しか飲まなくなる』
 ツッキーの手元に光が集まってくる。甘い水に誘われるみたいに、ひとつ、またひとつと。
『あっちの水は、苦いぞ』
 ツッキーの手に残った柔らかいペットボトルが、その指先で潰される。ボトルの底に残っていた滴が、掌に飛んでいく。
『こっちの水は、甘いぞ』
 濡れた掌を口元へ運び、その滴を唇で吸っていく。そう、まるで、ホタルのように。暗闇の中でぼんやりと光が灯る。あれだけ漂っていた空中にではなく、目の前のツッキーの手元だけを覆っていく。
『成虫になったら一週間しか生きられない』
 耳の奥に残っていた自分の言葉に、背筋を撫でられた気がして、俺は小さく身震いをした。見上げれば、さっきまで数えきれないほど点滅していた光の主が今はもうどこにもいなくなっている。それなのに、川の水音が響く中に何かがたしかに暗闇でぼんやりと光っていて、それが紛れもなくツッキーの手元にあり、でも、その掌には一匹もホタルの姿はない。何度まばたきを繰り返しても、変わらず同じテンポを保ったまま、ツッキーの右の掌が点滅を繰り返していた。そこにはホタルなど一匹さえも見あたらないというのに。
「ツッキー……?」
 光る掌を見つめていたツッキーの顔が俺に向けられる。その顔は今にも涙をこぼしてしまいそうなほど歪んでいて、俺は、もうそれ以上何の言葉を投げかけて良いのか分からなくなってしまった。
 俺を見つめるツッキーの唇が歪む。ゆっくりと開いたその隙間から、か細く、
「お前はどうしていつまでたっても応えてくれないの……?」
 笑うみたいに、それでも泣いているみたいに目を閉じたツッキーの頬を、一筋の滴がしたたり落ちていった。
「僕はこんなにもお前に向けて合図しているのに」
 胸を突かれた気がして、俺はとっさにツッキーの肩に手を伸ばした。右手の指の先がツッキーの肩に届いた瞬間、手元だけにあった光がツッキーの全身を覆い、飛び立つように弾けていった。弾けた光は暗闇に散らばって、そのまま、空中へと数えきれないほどの光となって漂い始めた。
 立ったままのツッキーの身体は光を失うと同時に、がくりと膝から崩れるようによろめいた。その体を必死に抱き留めながらも、俺は踏ん張り切れずにその場にしりもちをついた。見上げた夜空に小さく浮かぶ月が見え、それを飾るように小さな光の粒が四方を飛び交った。何の変哲もない普通のホタルが戻ってきたように見えた。
「ツッキー、大丈夫……?」
 ツッキーの肩をつかみ、身体を起こそうとすると、気を失っていたツッキーが目を開けた。俺の手を制して力なくその場に座りこみ、顔を上げた。
「……か、……た」
「え?」
 俺の顔を見上げ、ツッキーが同じ唇の動きを今度はハッキリとくり返した。
「お腹、空いた……」
 俺はあわてて鞄の中を探り、ポケットの中にあったチョコレート菓子を引っ張り出した。ドキドキしながらツッキーの目の前へと差し出すと、ツッキーの目がこちらを向いた。
「これで良かったら、食べる……?」
 ぼんやりとした目でチョコレートの包みを確認したツッキーは、弱々しい動きで上げた右手でそれを受け取ると、素早くその中身を口の中へと放りこんだ。一回、二回、三回噛んで飲み込んだその口元に、俺はようやく生きた心地がして、大きく息を吐き出した。
「良かった」
 思わず声に出していた言葉に、自分自身が疑問を抱きそうになったが、深くは考えないことにした。ただ心の底から、こう思っていた。ツッキーが元に戻った、と。





 それ以来、その時のことを尋ねても、ツッキーは何も覚えていないみたいだった。自分がしていたことも、自分に起きていたことも、何ひとつ思い出せない様子だった。
 あれは、あの光は、何だったんだろう。いくら俺が考えても、分かるはずもないことだった。
 ただ、俺はあの時のことを思い出す度、合わせてこんな言葉を思い浮かべるのだった。
『名は体を表す』
 そして、その言葉に対して、今は別の疑問を抱くようになっていた。
 人につけられた名前によって、その人の中身が変わってしまうなんてことは有り得るのだろうか、と。





こちらのワードパレット7番『カロケリ』(夕焼け/蛍/水)より