夏が長すぎる。いつまでこのバカみたいな夏の日差しを降り注ごうというのか、今ですらギラギラとその輝きを放っている太陽を捕まえて問い詰めてやりたいくらいの気分なのだが、とりあえず今はそんな気力すらも残っていない。
 九月も終わりだというのに、連日の残暑は厳しく、倒れこんだ木陰から見上げた頭上からは生い茂った葉の隙間から差すような光がこぼれ落ちている。目を開けることすら億劫に思えて、抱えた膝の間に顔を伏せた頃、ようやく両手にドリンクのボトルを抱えてきた山口が帰ってきた。
「ツッキー大丈夫? まだクラクラする? 座ってるより横になった方が楽かな? ほら、俺のジャージ下に敷くから、良かったら」
 こちらが参っているというのに、相変わらずこんな時の山口は早口でいろんなことをまくしたてる。それを手で制し、力なく首を振ったところで、心配そうに膝を折った山口がこちらの顔を覗き込んできた。目が合うなりドリンクボトルを差し出され、仕方なく受け取ったものの、口をつけられる気はしなかった。
 グラウンドの奥からこちらに向かって一筋風が吹きつけてきたが、熱せられた空気のかたまりが押し寄せてくるばかりで、むしろ息苦しく感じるほどだった。さっきまで作業のために座りこんでいた場所とは違い、直接陽に当たらないだけこの木陰の方がマシだとは思えるが、『涼しい』とは嘘でも口には出来そうにない。隣に座りこんだ山口が眉根を寄せたまま膝を抱えて首だけをこちらに向けている。そんなにじっと見られていては気が休まるにも邪魔になると思うのに、山口にはそんな理屈は通用しない。ため息にも似た深い息をようやく吐き出した時、全身の筋肉から力が抜けていくのが分かった。生唾を飲み込もうとして、喉がカラカラに乾ききっていることを痛感した。
 手にしたままのボトルに口をつける。一口飲み下してから、それが山口のボトルであることに気が付いた。自分のドリンクはとっくに飲み干してしまっていたことを思い出す。
 校舎の裏手に当たる中庭から、かすかにだが変人コンビの張り合う声がする。
「俺の方が多い!!」
「おれの方が大物たくさん取ってる!!」
 隣に居た山口の耳にもそれは届いたのか、自分と同じタイミングで苦笑するのが見受けられた。
「ほんと、体力バカすぎてウンザリする」
「だね」
 ははは、と笑う山口の向こうで、声は聞こえないものの、飛び跳ねる二年の先輩達の姿が遠くに見え、ますます前身から力が抜けていくような錯覚を覚えた。この部活には体力底なしのモンスターが多すぎる。
「たかがアイス一個のために」
 苦々しいぼやきに、山口は困った顔をするばかり。
「まぁ、いつものじゃなくて、今日はハーゲンダッツでも良いって特別ルールだから」
 そうは言っても数百円の差だろう、と思ってしまうのだが、体力モンスターの頭の中ではそういう理屈ではなくなるのだろう。こんな残暑厳しい九月の炎天下のグラウンドで奉仕作業という名の草むしりをさせられているというのに、コーチの言い放った「一番働いたヤツにアイスを奢る」との、たった一言で顔色を変えてしまうのは単純すぎやしないかと自分は思ってしまうのだが。
「でも日向、影山の二人はアイスがどうとか関係なく、どっちが多く草をむしれるかって勝手に張り合い始めるに違いないけど」
 二年の先輩達の遠くの影を見やりながら、山口が冗談半分と言った調子で呟く。
「……言えてる」
 自分で認めておきながら、頭の中でその際の変人コンビの様子を頭の中に描いて、さらにどっと身体のダメージを感じた。隣で座りこんだままの山口の横顔を見ていると、山口はいつまでここにいるつもりなのかと、頭を過ぎった。
「お前は良いの?」
「何が?」
「ハーゲンダッツ」
 俺は良いよ、と笑った顔はあっけらかんとしていた。
「それに、頑張ったところで、俺が勝てるわけないし。ここだけの話、坂の下って俺の好きな味ほとんどないから」
「何味ならあるの」
「抹茶とラムレーズンとチョコレート」
 それなら自分もそそられないな、と思いつつ、その取り合わせは店主の好みなんじゃないだろうか、と無駄なことを想像した。
 午後三時をとっくに過ぎていると思われるのに、グラウンドの気温は下がるどころか上がっていくばかりのように思えた。また遠くの方から吹き付けてきた風は、先ほどよりも熱をはらんで押し寄せてきた。ぐらりと視界が揺れ、ぼんやりとした頭で項垂れた。
「ツッキー大丈夫? やっぱり横になった方が良いよ、ここなら芝の上でそんなに汚れないし」
 伸びてきた山口の手を振り払う気も起きず、促されるままに上体を倒す。見上げた先に山口の顔があり、半分閉じたまぶたを通して、強い木漏れ日が目の前をちらついた。さっきまでそれほど気にならなかったはずの蝉の声が、はるか高い木の上の方から鳴り響いている。今は何月だ、と心の底から憎らしく思う。自分が子供の頃、こんなに夏の暑さが辛かった記憶はないと思うのに、ここ数年の異常気象はもう手遅れなんじゃないかとさえ思う。見上げた山口の影がこぼれ落ちてくる細かい光に浮かび上がり、肌に染みこむような蝉の鳴き声に、ふと、いつかの夏に同じ角度で山口を見上げたことがあったな、と瞬きをした。
 あれは小学四年か五年くらいの夏休みのことのはずだ。山口に蝉取りに誘われて、同じように学校のグラウンドで走り回った後で、暑さから逃れるように木陰に二人で寝転がった。その時は自分より山口の方が疲れ切っていて、僕は自分の被っていた帽子を山口の頭に載せて軽く叱った。
「ほら、やっぱり帽子は被って来ないといけなかったんだよ」
 というのも、その日蝉取りをする中で、自分だけが麦わら帽子を被ってきていたために、いざ捕まえようと振りかぶった網の柄が帽子に引っかかり、大物を取り逃がしていたことで山口がむくれていた瞬間があったからだった。僕は出かけに母さんに言われて被らされた麦わら帽子が無駄ではなかったことを遠まわしに山口に訴えたにすぎなかった。山口は僕に載せられた麦わら帽子を片手に、申し訳なさそうに謝った。
「次からはおれも被ってくる」
 帽子を胸に抱えて起き上がった山口を見上げたその時と、今見上げている山口の横顔が重なり、自然と顔がほころんだ。目の前にある高校一年になった山口の横顔は、あの頃とは全くの別物だ。もちろん、背はこんなに大きくなかったし、肩幅だって手の大きさだって、何もかもが変わってしまっている。
 笑っている自分を見つけて、山口がこちらを向いた。首をかしげ、何に笑っているのかと目で尋ねてくる。いや、と否定の言葉をつぶやきながら、見上げた先にある山口の喉元に指を伸ばしていた。昔はなかったその隆起に指を沿わせると、驚いた様子で山口が目を見開いた。
「何?」
 くすぐったそうに笑いつつも戸惑いを隠せない山口の声に合わせて、滑らかに上下したそれの形を指で確かめてみる。見た目より固い感触に、いつの間にこんな風になったのだろうかと記憶をたどっていく。だが、いつも隣にいただけに、具体的な分岐点を見つけられはしなかった。記憶の中で自分の麦わら帽子を胸に抱いていた山口の姿と比べては、段違いだと噛みしめるように思う。山口が緊張した面持ちで生唾を飲んだ。また上下に揺れたそれの動きを指先と視覚で感じとり、妙な満足感を覚えた。
「お前の男らしいところ、悪くないな、って、そう思っただけ」
 思わずこぼれた笑みに、山口が照れくさそうに笑った。
「ツッキーにだって、あるくせに」
 そう言うなり伸びてきた山口の指先が、自分の喉元に触れる。その微かな熱に、全身の肌が揺らぐ心地がした。それはまるで、いつも山口が唇を寄せて触れてくるときのその熱に似た色を含んでいるように思えて、つい無意識に身体の理屈ではない奥の方が反応してしまったらしかった。そうだ、と軽く息を吐く。あの時は、山口がこんな風に成長することを想像できなかったのはもちろん、山口と自分がここまでの関係になるとは予想さえ出来るはずも無かった。あの頃は自分よりはるかに身体が小さく、弱々しく背中を丸めてこちらの顔色をうかがってばかりだったコイツが、今では時に自分のことを熱をはらんで覆いかぶさり、我慢しきれない欲情をさらけ出して肌を寄せてさえくるのだから、なんて不思議なことだろう。
 胸の中を満たしていくざわざわとした感覚に目を閉じて浸っていると、触れられている山口の指先が肌の上を軽く撫ぜた。
「俺のより、ツッキーの喉仏の方が尖ってる気がするけど、気のせいかな?」
 へへ、と笑う声の無邪気さに腹立たしさを覚えながら、じわりと上がった体温に奥歯を噛んだ。夏の暑さに浮かされるくらいなら、百万歩譲ってコイツの熱に浮かされる方がよっぽどマシだ。そう思えてしまった自分に舌打ちをし、山口に触れていた指先をようやく下ろすと、やっと涼しい風が吹いてきて、こちらの頬をかすめていった。





こちらのワードパレット13番『クレークル』(喉/帽子/木漏れ日)より