一目惚れのようなものだと、山口は言った。それは自分が投げかけた問いの答えとしては、ひどく不十分で的を得ているとは言い難い返事の仕方だった。僕はこう尋ねたのだ、山口は僕のどこを好きになったのか、と。
「んー……えっと、ちょっと考えさせて、」
 聞いた瞬間、山口はそう僕を制して数分考える仕草を示しながら何度も首を傾げては唸り続けた。その様子はさながら曖昧な答えをどう言葉で表現していいものか悩んでいるかのようにも見え、それはつまり、悩まないと僕の投げた問いに対する答えは見つからないほど難しい内容であるということなのか、と突っかかりたくもなる反応であったから、とうとうしびれを切らして前言を撤回しようとしかけたその時、
「……全部!」
「は?」
 目を見開いた山口の顔がこちらをまじまじと見据え、その真剣すぎる二つの眼に僕の影が映りこんでいるのが見えたと同時に、
「ツッキーの好きなところは、全部!だよ!」
と、若干こちらの質問の意図とはズレてしまっている答えをハッキリと口にしたのだった。
「何それ」
 真意を測ろうと目の奥を覗き込もうとするこちらの意図を汲みとってか、それとも避けてのことか、山口は糸のように細めた目でへにゃりと笑った。
「ツッキーをいつから好きかとか、どこが好きかなんて、俺にもハッキリとはもう分からなくて、一目惚れみたいに、ツッキーだから俺は好きになったんだ、って思うから、ツッキーの好きなところはどこか、って聞かれたら、それは、全部、って答えになるかな、って」
 数分前に自分から告白してきた、正に本人のはずなのに、山口から出た答えは、結局そんなふわっとしたものでしかなかった。だからお返しにと、こちらも曖昧なニュアンスで承諾の意図を山口に返答したのだが、あれから結局山口と僕の関係は何ひとつ変わってはいない。付き合ってくれ、と言われ、何が変わるのかと少し興味をそそられて試してみたいと思ってのことだったのに、自分と山口の距離は、そのやりとりを交わすまでの友人間のそれと全くと言っていいほど同じままだった。
「課題の本、探してくるから」
 うん、とうなづくなり、山口は窓際の閲覧机の足元に荷物を下ろすと、図書室特有の重い木の椅子に深く腰かけた。ふぁ、と大きな欠伸をひとつ、鞄の中から倫理の教科書とノートを出し、右隣の座席にあたるスペースに広げだす。幸い、図書室の中はテスト期間中だというのに空席の方が目立つくらいの利用状況だった。
 閲覧机に背を向けて本棚に向かう。出された課題は、著名な哲学者の著作からの抜き書きを完成せよ、というプリント二枚分の簡単なものだった。もちろんインターネットの検索で事足りる内容だと説明もされていたが、その手段での解答を阻止するためなのか、引用元の本のタイトルと本のページも合わせて記入しろ、という条件がつけられており、仕方なく図書室での作業を余儀なくされた、という現状だった。
 1類の棚をたどっていると、課題の本の近くに並んだ、こんなタイトルの本が目に飛び込んできた。
『一目惚れの科学』
 どうやら心理学の分野の本のようだった。思わず手に取って開いていた。頭の片隅では、あの時の山口の声と表情が鮮明に蘇ってきていた。
『一目惚れの原因は特有のホルモンの分泌が深く関係していると言われている』
『人間の五感の内、もっとも情報の収受に長けているのは視覚である、ということは言うまでもない』
『恋愛感情の内、広く一般的に、相手に対して交換を抱くきっかけは外見、つまり容姿による視覚情報が最たるものであろう』
 さらさらとページをめくりながら眺めていく文面の中で目に飛び込んでくる、そんな文字列に鼻先で笑いながら、次の一文には何故か手を止め、一瞬では汲み取り切れなかったその意味を、数秒考えこんでしまっていた。
『盲人において、一目惚れというものは起こりうるのだろうか?』
 続く文面において、その問いに対する答えは、正となっていた。
 本を棚に戻す前に、ふと気になって、その巻末に印字された奥付の日付を確認していた。予想通り、三十年以上前に出版された本で、奥付の隣には、これまた古い貸し出しの記録簿の紙が数枚貼りつけられていた。どうやら頻繁に貸し出されていた本らしく、返却予定日とされている日付は、いくつもの欄内を埋めていた。一目惚れというものへの興味は、誰しも持っているらしい。かくいう自分もその一人だったのか、と棚に押し込んだ本の背表紙から指を離した瞬間、苦々しい笑みが鼻先からこぼれ落ちた。
 閲覧机に戻ると、待っているはずの山口は待ちくたびれたのか、腰かけたまま両腕を枕にして伏せって眠りこんでいた。昨日は寝るのが遅くなった、と話していた昼休みの中でのやりとりを思い出す。間の抜けた顔で口を半開きにしたまま、右耳を下にした角度で気持ち良さそうに眠っている。
 一歩、二歩。その背中に回るように歩み寄る。山口は唇をムニュムニュ動かしたが、目を開ける気配は一向になかった。
 先ほど目にした本の文言を思い出す。目の見えない人間における一目惚れの要因は、視覚以外に何が考えられるのか。
 課題の本を脇に抱え、山口の顔を覗き込む。両目は固く閉ざされたままだ。
『一目惚れとは、遺伝子が脳へと訴えるほどのこの上ない生物学上の相性を持った一個体を逃さないための本能の成す奇跡なのかもしれない』
 その両耳に、そっと手で触れる。視覚も聴覚も閉ざされた中で、それは判別がつくのだろうか。この間の抜けた寝顔をした男の遺伝子は、まだ自分をそうだと選び出すというのだろうか。そんなことを考えながら、耳を塞がずとも聞こえないかもしれない、そんな些細な音で囁いてみた。
 だーれだ?
「ツッキーでしょ?」
 息を飲んだ瞬間、手をひっこめていた。脇に挟んでいた本が次々と足元に崩れ落ちる音がした。山口の目が開いている。目が合う。にこり、と細められて、それがあの日と同じ微笑みであることに数秒経ってから気が付いた。
「どうしたの? 課題の本、全部見つかった?」
 起き上がった山口が僕の足元に飛び散った本を目で追った。何が起きたのかと不思議そうな顔で、こちらを見返してくる。何もなかったかのように大げさな欠伸をひとつ、吐き出す。息を乱しているこちらのことなど分かりもしない、という様子で首を傾げ、僕の次の言葉を待ち構えている。
「起きてたの?」
「ちょっと寝てたよ」
「……聞こえてた?」
「何が?」
 本気なのかふざけているのかいつも以上に分からない素振りでいる山口に、騒がしい心臓は落ち着く気配すら見せない。それだけでなく、自分がとったバカみたいな行動について振り返るだけで、頭の中がぐらぐらと煮え立つような気さえし始めていた。
「だから、その、聞こえて無かったなら別にいいけど、」
「あー、えっと、聞こえてたよ」
 心臓が跳ね上がる気がした。でも山口の続けた言葉は、予想とは異なるものだった。
「ツッキーの足音なら、ちゃんと夢の中で」
「夢?」
「うん、こう……ツッキーが後ろから近づいてくる足音がして、振り返ろうとしたら、そこで目が覚めた」
 足元に落ちた本を一冊ずつ拾い上げながら語る山口の口調はふわふわとして、嘘をついているとは決して思えない調子だった。だから呼びかけたんだよ、と続ける山口の声はひどく柔らかで、ようやく事の顛末を理解し始めていた頭と心臓へと、妙によく染み渡っていった。
「足音で分かった……ってこと?」
 尋ねながら、山口の右隣に座る。挟んだプリントを取り出すためにノートを広げながら、山口は、うん、とうなづいた。そして、こちらの耳元に顔を近づけてきて、
「ツッキーのことなら、何でも分かるようになりたいから」
 そう、囁いた。その声色に覚えのない手触りを感じ、思わず山口の目を見返していた。山口はこちらの目を覗き込みながら、意地の悪そうな顔で笑ってみせた。
「だって、俺、ツッキーの全部が好きだから」
 そして机のかげにあったこちらの手に触れながら、こうも言ってみせたのだった。
「いつかはツッキーのこと、掌の感触だけでも分かるようになりたい、って思ってるんだ。目や耳が見えなくなったり聞こえなくなっても、ツッキーだ、って分かるように」
 その瞬間、胸の奥の底の方から目には見えない大きな何かが湧き上がってくるのが、手に取るようにあからさまに分かってしまった。そして、それを感じたと同時に、目の前にいる山口という人間に何が起こっているのかも分かってしまうような気がした。もしも一目惚れというものが今の自分の中に湧き上がってきた、こんな感情であるというのなら、山口はよくもまあこんな大それたものを認めて素直に受け入れ、自分の感情のひとつとして飲み込むことが出来たのだろう。強い疑問の感情に飲まれながら、頭の中はチカチカと星が瞬くような錯覚に襲われ、倒錯にも似た混乱さえ感じていた。何故なら、その感情を引き起こす何かを山口に与えたのは紛れもない、自分自身であるというのだから。とんでもないことを引き起こしてしまったのではないか、という気持ちに襲われながらも、目に映る全てがチカチカと瞬きだすような錯覚を覚えつつ、熱い山口の掌で触れられた左手で、僕は強くその手を握り返すことしか出来ずにいた。
 本の中では言及されていなかったに違いないが、今自分は大きな発見にめぐり逢ってしまったのかもしれない。良く知りえた相手に対しても、一目惚れというものは引き起こされる、という事実があることに。





こちらのワードパレット4番『アコルダール』(足音/耳/一目惚れ)より