うわ、と教室中に響き渡った叫び声に、誰もが息を合わせたように一瞬だけ声を潜めた。昼休み特有の騒がしさに満ちていた教室の空気を一変させたのは、ちょうど俺とツッキーが座っていた席の反対側の壁に当たる、教室の隅にいたグループの内の一人だった。
「今日これから雨かよ、俺今朝チャリで来ちゃったよ」
 スマホを片手に嘆いたその声に、なんだそんなことか、と目を向けてしまったクラスメイト全員がため息とともに視線を自分たちのグループの中心へと戻していく。気にして損した、と言いたげな空気があちこちから滲み出ていく中で、俺も知らぬ間に上げていた視線を元に戻していた。
「そっか、今日これから降るんだ」
 ぽつり、とつぶやきながら、空になった弁当箱を包みなおす。ぼんやりと記憶の中の映像とそれに伴う感覚を思い出しながら、バンダナの端を固く縛り直していると、ツッキーがじっとこちらを見ているような気がして、俺は少しドキリとしながら顔を上げた。もしや今の俺の頭の中を一ミリでも読み取られていたらどうしようか。そう不安になったものの、ツッキーは真っすぐこちらを見ながら、少しだけ気だるげな表情で、こう尋ねただけだった。
「置き傘も無いの?」
 無意識に待ち望んでいた問いかけに、俺の心臓は一瞬で騒がしくなったのだけれど、決してそれをツッキーに悟られてはいけないと、俺はなるべく自然な口調となるように意識しながら返事をした。
「うん、前に使ってから、そのまま」
 そう、とあいづちを打って、ツッキーは「仕方ない」と言いたげにため息をついた。
「置き傘、貸すから」
 ありがとう、と答えながら、俺は唇の端の筋肉に力をこめた。今の自分の表情が不自然に強張っていないか、反対に、にやついて緩んでしまっていないか、それだけが心配だった。頭の片隅では、あの日見た光景と、唇の上に感じた熱が蘇ってきていた。俺の心臓はその先の展開に期待を抱いてしまっているせいで、自分でもうるさいと思うほどに大げさに打ち鳴らされていた。耳の奥まで響き渡る心臓の音が、自分以外の誰にも聞こえていませんように。そう願いながら、俺はとっさに目を伏せた。
 あの日、あの時も、ツッキーはこう言って俺に傘を貸してくれた。そして、そのまま俺の家の前まで一緒に歩いて帰ってくれた。後日俺がツッキーに傘を返すためだけに乾いた傘を持ち歩く手間を省くために、わざわざ遠回りの帰り道をたどってまで。
「また、この前と同じでいいから」
 え、と俺が声を上げて我に返ったと同時に、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。ツッキーは次の授業の教科書を机の上に出しながら、唇の端を引き上げるようにして笑った。
「この前と同じ、山口の家で返してくれれば良いから」
 やっぱり俺の頭の中を読み取られているんじゃないか、そう心配になりながら、俺は必死に誤魔化すために「あ、うん」と力強くうなづき、「そうだよね」と続け、「ありがとう、ツッキー」と告げるなり、逃げるようにして自分の席へと戻っていった。弁当箱を鞄に押し込んで教科書を並べ終えて時計を見上げても、俺の心臓は始終馬鹿みたいに騒がしく鳴り響いていた。身体の奥から湧き出てくる熱に身をよじりながら、日直の号令に合わせて礼をする。席についても未だに騒がしい心臓の上に手を置いて深呼吸をしてみたけれど、効果は無かった。仕方なく目を閉じて深く息を吐いてはみたものの、閉じたまぶたの裏に、記憶の中のツッキーの表情が蘇ってきて、落ち着くどころかますます身体の奥の方が熱くなってきた。
 窓の外の校庭に視線を投げると、窓の近くの葉が風とは違う揺れ方をしたのが見えた。もう、雨は降りだしてきてしまったようだ。今日の雨は強くなるだろうか。俺は自然と頬についた手の指先で自分の唇の上をなぞっていた。
 雨の日だけは、ツッキーは俺がいつもより深いキスをしても、拒まずにいてくれる。
 それに気づいたのは、いつだっただろうか。俺とツッキーが付き合い出して、ちゅーするようになってから、少なくとも半年以上が経っている。普段のツッキーは、誰もいない二人っきりの部屋の中でしか俺にキスさせてくれない。それも大概は触れるだけの、ほんの短いものだけ。俺がそれ以上続けようとすると、必ずストップをかけられてしまう。でも、雨の日は別だ。特に、家の中にまで雨音が聞こえてくるような強い雨が降っている、そんな日だけは、ツッキーはいつもと違って俺を深く受け入れてくれた。それに気付いてから、雨の日に限って、俺は少しだけ強気になった。
 だから、あの日の俺は、いつもに比べて少しだけ……、いや、冷静に振り返ると、いつもの何倍も強気になっていたんだと思う。
 あの日、俺の家の玄関までついてきてくれたツッキーが「じゃあ」と手を振って背を向けたと同時に、俺は思わずその手をつかんでツッキーの身体を引き寄せていた。というのも、俺の家までついてきてくれるツッキーの優しさを噛みしめながら、帰り道をたどっている間、ずっと一秒でも長くぎゅっとしたいと思い続けていたからだった。振り返った瞬間、俺と視線がぶつかったのを合図に、ツッキーが目を伏せたから、俺はそのままキスをした。外はどしゃ降りの雨で、俺の耳には大きく打ち付けている心臓の音よりも雨の滴る音の方が強く響いていた。家の中には俺とツッキーしかいなかった。だから、俺は調子に乗って、そのままツッキーの舌先に吸い付いた。雨が降っていなければ、いつもはそこでツッキーの手が俺の胸を押し返そうとするのだけれど、その時のツッキーの手は俺の背に回っていた。それが嬉しくて、俺は角度を変えて何度もキスをした。そろそろ止めないとさすがにツッキーが怒るかもしれない、と思ったところで、でも、離れるのが惜しい気持ちも芽生えだしていて、気づいたら、ツッキーの唇に歯を立てていた。その直後、ツッキーの身体が俺から一瞬で離れた。 俺も自分のしたことに気付いて慌ててツッキーの身体から手を離していた。
 じゃ、と顔をそらしたままのツッキーは、そのまま自分の家へと帰っていった。
 次の日から、ツッキーも俺も、まるであの時のことは夢だったかのように、それまでどおりのやりとりを交わし、二日と開けずに触れるだけのいつもどおりのキスをして、あの日の出来事はうやむやになっていった。
 指先で唇に触れたまま、授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いていた。まるまる一時間ぼんやりしてしまったことに驚きながら、真っ白なノートを見下ろしてため息を吐いた。
 板書を取り逃した言い訳は何とでも用意できるとは思うけれど、雨が降る度にこんなことを繰り返していたら、さすがにそろそろツッキーに気づかれてしまわないだろうか。そう思いながらも、俺は仕方なくツッキーにノートを貸してもらえないか、お願いする覚悟を決めていた。





「ごめん、さっきの授業、ほとんど寝ちゃって……ノート借りても良いかな」
 予想通り、申し訳なさそうに手を合わせて頭を下げた山口の申し出に、しまったばかりのノートを机の中から取り出した。受け取ったノートを見て山口があからさまにホッとするのを見て、一瞬だけ胸をよぎった心配に知らぬふりをした。
「ありがとう、もうすぐテストだから助かるよ」
 にへら、と笑って自分の席に戻った山口の横顔を見過ごしながら、視界に映りこんだ窓がはっきりとした雨垂れで濡れているのを確認した。それと同時に、知らぬ間に自らの左手の指先が唇の上をなぞっていることに気づかされていた。さっきの授業の間にも、少なくとも三回は繰り返した、気づきだった。
 目を閉じながら、山口に手渡したノートの紙面を思い出す。板書に漏れはなかったはずだ。そう願うように胸の内で囁いていた。授業中、何度も我に返っては、それまで別の考えに自分の頭が満たされていたことに気付かされてしまった。それと同時に、無意識に自分が己の唇に軽く歯を立ててしまっていることにも。
 あの日、山口から与えられた感触は、未だ鮮明にそこに残っていた。
 教室の扉が開けられて、廊下を伝って雨のにおいが教室の空気を染めていく。そのにおいに、わずかにでも体温を上げている自分の身体が憎らしかった。
 自分の席に戻り、必死にノートを書き写している山口の姿を振り返って盗み見る。今日、山口の家まで送って行ったら、また山口はあの日のように触れてくるのだろうか。
 また自然と唇を噛んでいた自分に苛立ちを覚え、山口から顔を逸らす。あの日、山口の家を跡にしてからずっと抱いている本心を告げたら、山口はどんな反応を見せるのだろうか。
 そう思いながら、また同じように唇に歯を立てている自分を見つけ、思わず舌打ちをしていた。これじゃまるで、あの日の山口からの感触が消えないように上書きし続けているみたいだ。そう思いつつも、あの日以来、山口が長傘以外を持ってこなくなった事実に何かしら期待している自分がいることも否定できずにいた。山口は分かっているんだろうか、僕がいつでも傘を山口の分まで用意して待っていることの意味を。




Twitterの『山月12ヵ月の物語』6月のお題「雨」を元に執筆したもの。 企画主催アカウント様⇒山月12ヵ月の物語