卒業した小学校の特別棟の取り壊しが決まったのは、今年の三月のことだった。特別棟というのは当時の俺たちが使っていた愛称で、学校創立の頃に建てられて唯一残されていた木造の旧校舎を、音楽室だったり家庭科室だったりと、全学年共通の特別教室として利用していたせいか、皆「旧校舎」ではなく「特別棟」と勝手に呼んでいた。
 その特別棟が、小学校の夏休みに入ったらすぐに解体されるという噂は瞬く間に広がって、普段はやりとりをしない小学校の時のクラスメイトから何通も発信元を変えて連絡がやってきた。ツッキーも俺と同じように小学校のクラスメイトからたくさんのメッセージを受け取ったらしく、部活のウォーミングアップ中に解体工事の話と合わせて、卒業式の日に埋めたタイムカプセルを覚えているかと俺に話しかけてきた。
「もちろん、覚えてるよ」
 思い出そうとしなくても、俺の頭の中にはたくさんの蕾をつけた桜の木が蘇ってきていた。
「音楽室から見える、あの桜の木の下に一緒に埋めたよね」
 小学校の卒業式の朝、俺とツッキーはクッキー缶を改造して作ったタイムカプセルをその木の根元に確かに埋めた。解体工事された後では掘り返して見つけるのは困難だろうと言われ、自然と、じゃあ今度の日曜の部活終わりに一緒に掘り起こしてみよう、という話になった。
 小さなスコップを鞄に忍ばせ、計画どおりに俺とツッキーは小学校の門を乗り越えた。日曜の五時過ぎでは小学生どころか校舎の中に人の気配すら感じられなかった。門は閉じてはいたけれど、脇のフェンスに足をかけて越えれば難は無かった。
「なんかドキドキするね」
 泥棒になった気分だ、と告げると、ツッキーが「見つかったら面倒だから早く」と俺を急かした。数年ぶりに訪れた小学校は、記憶の中の映像よりも小さく見えて何だか不思議な感覚がした。飼育係として毎日見ていたウサギ小屋には見慣れない模様のウサギが寝そべっているし、ポプラの木があったと覚えている場所には、大きな切り株が鎮座していた。
 それもそうか、もう卒業して三年以上経っているんだもんな。そんなことを思っていたら、ツッキーは知らない間にどんどん特別棟の方へと歩いていってしまった。
 待ってよ、と声をかける前にツッキーの歩みが止まったかと思えば、次の瞬間、目の前に霞のようなピンク色が視界を埋めつくした。季節はすっかり初夏だというのに、他の葉桜に囲まれながら、目当ての桜の木は満開に染まっていた。
「不思議だね」
 ツッキーの隣に立って俺がこぼすと、
「狂い咲きにも程があるでしょ」
 と呆れたようにツッキーが返したけれど、その声はどこか柔らかい何かに包まれていて、俺の唇は思わず緩んでしまった。まるで俺とツッキーが今日ここに戻ってくるのを知っていたみたいだ。そうツッキーに言ったら、きっとさらに呆れられるんだろうな。そんなことを思いながら、俺はツッキーと一緒にスコップを手にして木の根元を掘り返し始めた。
 タイムカプセルはなかなか姿を現してはくれなかった。三十分近く俺たちは粘り続けて掘ってはみたけれど、もしかしたら根っこの反対側に埋めたんじゃないかとか、もう形を失くして土に紛れてしまったんじゃないか、なんて予想もお互いに口にするようになって、次第に日も暮れてきてしまって、結局諦めるしかないという結論を出した。残念で悔しい気持ちはもちろんあったけれど、かといって後日改めて探しに来ても見つかる可能性はほぼゼロに等しいだろうという予想も出来て、納得の結論ではあった。
「ところで、中身に何を入れたか、山口は覚えてる?」
 掘り出して山になった土を元に戻しながら、ツッキーが突然そう尋ねてきた。
「うーん……、何だったかな。ツッキーは覚えてる?」
 聞き返すと同時に顔を上げたら、パッとお互い目が合った。
「正直、覚えてない」
 ニヤッと笑ったツッキーにつられて、俺も「だよね」と笑った。多分手紙か何かを入れたことは覚えてはいるんだけど、その文面までは一向に思い出せそうにない。そもそも、どうしてタイムカプセルを埋めようなんて話になったのか、俺とツッキーのどちらが先に提案した事なのかさえ思い出せそうにないのだから、当然のことかもしれなかった。
「どうせ未来の自分か、未来の山口に向けて書いた手紙とかでしょ」
「うん、俺もそんな気がしてたとこ。未来のツッキーに向けて、あの時の自分が伝えたかったことを書いた気がする」
「だとしたら、ちょっとだけ気になるけどね」
 そうだね、と俺が返したところで、必死になって掘った穴はすっかり元通りになっていた。きっとあの時の俺がツッキーに向けて手紙を書いていたら、今とあんまり変わらない感謝の気持ちを綴っていたに違いない。それか、大きくなってもツッキーと一緒に居たいって書いていたのかもしれない。ただ、その意味は今と違って、友達としての気持ちだったと思うけれど。
「あ」
「何?」
 帰ろうと立ち上がった時、目の前の校舎の窓の鍵がかけられていないことに気が付いた。もしかして、と思うより早く指をかけたら、カラカラと乾いた音を立てて窓ガラスのアルミサッシが滑らかに開いた。
「入ってみようよ」
 怒られるかと思ったのに、意外にもツッキーも乗り気だったらしく、俺たちはこそこそと校舎の中へ飛び込んでしまった。校舎の中は思い出の中よりもはるかに埃っぽくて、大きなひびが壁中にいくつも走っていた。確かにこれは取り壊されても仕方がないな、と思いながら、かつては音楽室だった空っぽの教室を、天井から壁から、ぐるりと見回してみた。
「懐かしいね」
「リコーダーのテスト、山口だけ合格できなくて、居残りさせられてた」
「でもツッキーが特訓してくれて、次の日、先生も褒めてくれた」
「合唱祭の練習で朝から集めさせられて」
「その分、六年生のクラス賞を皆でとれた」
「山口に一緒に帰ろうって初めて言われたのも、ココだった」
「うん、一緒に教室に戻ろうって言ってくれたツッキーに、勇気出して言ったあの日のこと、あの時の気持ちはまだハッキリと覚えてる」
 すう、と息を吸いこんで、胸の中を満たす何かに顔をしかめる。
「どうして音楽室って、他の教室とは違う匂いがするんだろう」
「……もう、音楽室でもないけどね」
 告げられたツッキーの声色に自分の胸を満たすそれが共鳴しあって膨らんでいくのが分かる。ツッキーも同じ気持ちになっているのかもしれない、と思ったら我慢できなくなって、俺は唇を強く引き結んだ。
「でも、俺にとってここは、やっぱり音楽室だよ」
 自然と視線が合ったツッキーは、俺の目を見て少し驚いた様子を見せてから、ほんの少しだけ嬉しそうに顔を緩めた。
「何その屁理屈」
「俺が覚えているかぎりここは音楽室だし、ここで俺とツッキーがしたことはずっと無くならないから、だから……」
 自分でも何が言いたいのか分からなくなってきて、俺は仕方なく口を閉ざした。そしてその時、ふと気が付いた。あぁ、そうか、俺が今感じてるこの感じ、それは「さみしい」ってことなんだ。身体の奥の方でぽっかり穴が空いてしまったような、そんな心もとなさに奥歯を噛んでいたら、ふいにツッキーが俺のことをぎゅっと抱きしめてきた。
「タイムカプセル一個見つからないだけで、凹みすぎでしょ」
「ごめん」
 ツッキーは本当に何でもお見通しなんだな。そう感じて、俺は言葉にするのを諦めた。抱き締めかえしたツッキーの肩に鼻先を押し当てて胸いっぱいに息を吸う。身体の中を満たしていた匂いがツッキーの匂いに入れ替わっていって、ようやく俺は苦しかった息が随分と楽になった。
「ツッキーと一緒で良かった」
 ぽつりこぼした言葉に、ツッキーが耳元でクスっと笑った。何が可笑しかったんだろうと首を傾げて顔をのぞきこんだら、
「いや、手紙の中身なんて読まなくても想像できると思って。どうせ山口のことだから、今みたいなことが書いてあるんだろうと思ったら、何か笑えた、ってだけ。別に手紙じゃなくたって、こうして言い合えるんだし、それで充分でしょ」
「……うん、そうだね、こうしてすぐ目の前に、ツッキーと一緒にいるんだもんね」
 ぎゅう、と気持ちを目一杯込めるように力を込めたら、ツッキーが「痛い」と困ったように、でもすごく優しい口調で告げてきた。俺はそれでも確かに感じるツッキーの体温と息遣いを味わうように、強く強く、長い間抱きしめ続けていた。