部活の始めに烏養コーチが慌てた様子でこう言った。今さっき月島の意識が回復した、助かった、って。その瞬間、体育館の中の空気は一変して、その時の俺はホッとしたのか、その次の瞬間からの記憶がすっぽり抜け落ちているんだけど、気づいたときには病院の廊下に立っていた。後から聞いたら、誰か直接様子を見に行った方が良いんじゃないかって話になって、その代表に俺が選ばれたんだとか、そうじゃないとか。
 目の前には真っ白なスライド式の扉がひとつ。扉の脇にかけられた案内板にはツッキーの名前だけが書かれていて、この扉の向こうにはツッキーがいるんだろうな、ってぼんやりと思った。何故かすぐ開ける気にならなくて、俺の後ろを看護婦さんや他の患者さんが二、三人通り過ぎて行くのを感じてから、ようやく右手を銀色のレバーにかけた。
 カラカラと大きな車輪の回る音がして、よりいっそう濃い消毒薬のにおいが鼻をついた。白で埋め尽くされた風景の中に埋もれるように、小さなベッドが無造作に置かれていた。そんな小さいベッドじゃツッキーの足ははみ出してしまうんじゃないかな、ってどうでもいいことが気になって、俺はふらふらと、その足元に歩み寄った。ベッドの脇に置かれた点滴のビニルパックのあたりから、ぽたぽたと音にならない響きが部屋の空気を震わせて俺の耳に届いていた。
「ツッキー」
 俺は最小限の声で呼びかけた。白い掛布団はふくらんだまま、その中にいる誰かを俺から覆い隠しながら、ごそごそと音を立てた。もしかしたら寝ているのかもしれない、と俺はあわてて口を閉じたとき、ガサガサと固い布の感触を伝える音に合わせて掛布団がまくられて、中からツッキーが顔を出した。
 やっぱりついさっきまで眠っていたのか、ぼんやりとした視線で俺をとらえたツッキーは数秒黙って何かを考えたあと、ゆっくりと口を開けて、一言、
「誰」
 はっきりと、そう言った。
















 ツッキーが入院したのは高校二年の初夏のことだった。IH予選に向けて部活全体が活気に満ちているところに起きた事故で、その日ツッキーと明光君は社会人チームの練習に夜参加していた。帰りが遅くなったツッキーと明光君を迎えにいくついでに、どうせなら家族全員で夕飯を食べに行こうと、ツッキーのお父さんが運転する車にツッキーの家族がそろった、その帰り道のことだった。
 飲酒運転のドライバーの車に巻き込まれる形で、ツッキーの家族が乗った車はぐしゃりと潰れた。ツッキーの両親も、明光君も、帰らぬ人となった。
 ただ一人、運転席の後ろの座席に座っていたツッキーだけが意識不明の状態で病院に運ばれた。それだけでも奇跡だと医者は言った。不思議なことにツッキーは、擦り傷程度の怪我しかしていなかった。骨も筋肉も内臓も、なにひとつ傷ついてはいなかったという。
 けれども病院に運ばれたツッキーは、一週間、目を覚まさなかった。ようやく意識が戻った日、学校に連絡がきて、ようやく俺はツッキーと会うことが出来た。
 部活を休んで病室を訪れた俺を見て、ツッキーが言った。
「誰」
 そのたった一言で、俺は全てを知った。ツッキーの中にいたはずの俺は、どこにもいなくなっていた。
「やだなぁツッキー、忘れちゃったの?俺だよ、山口だよ」
 否定してほしい一心で口早に言った。ツッキーは俺の顔をもう一度じぃっと見つめ、困惑した表情で眉間にしわを寄せた。ズキリ、と胸の奥が痛むのが分かった。
「悪いけど、思い出そうとすると頭のこの辺が痛むんで、さっさと教えてもらっても良いですか。僕とどういった関係の人ですか」
 ツッキーはこめかみのあたりを指さし、つっけんどんに尋ねた。俺は、こ、と言いかけて、あわてて、
「友達、部活の」
 ツッキーはつまらなさそうに、ふぅん、とつぶやいた。
「覚えて……ない、んだね」
「そうみたい。さっき医者にも聞かれたけど、高校に入ってからのこととか、思い出そうとすると頭が割れそうに痛むから、もう勘弁してほしいくらいで、忘れたことすら忘れてる人間に聞いてもただの無駄だっていうのに」
 ぶつくさとぼやいてるツッキーを見ながら、俺の体の奥のやわらかい何かが、グサグサと鋭利なもので抉られていくイメージが頭の中に流れた。
「俺、ツッキーと小学校の頃から仲良かったと思ってたんだけど、」
 覚えてないかな、と最後まで言い切る勇気は出なかった。俺が言い終わる前にツッキーが大きく顔をしかめて頭をおさえて苦しみ始めたからだ。
「ツッキー、痛むの?」
 心配から伸ばした手は、すぐに振り払われた。
「その、"ツッキー"って、そんな間の抜けた呼び方されて許してたとか、全ッ然信じられないんだけど。ましてや小学校からってことは、下手すると五年以上?勝手にそっちが友達って思ってただけじゃないんですか?」
 痛みのせいか、ツッキーはイライラしはじめていた。ツッキーが口にした言葉はトゲだらけで、いつもだったらやりすごすことができるはずのそのトゲトゲは、その時にかぎって全部残らず俺の胸へと突き刺さって、俺はそれ以上、何も言えなくなってしまった。
 そっと一歩、ベッドから離れた。唇をぎゅっと噛んで、真っ白な病院の床を見つめる。医者の口にした、奇跡、って言葉が頭をよぎって、ますます目頭が熱くなった。
 ツッキーはこの時、すでに大事な何かを、見えない遠くのどこかの世界へ置き忘れてきてしまっていた。
 握りしめた自分の掌が熱くなるのを感じて、ついこの前ツッキーと手を重ねた時の熱っぽさを思い出した。考えてみれば、それはひと月も経たないうちの出来事のはずだったのに、もう手の届かない、誰か別の人の思い出になってしまったような、そんな悲しい気持ちになった。
「ごめんね、ツッキー、また、来るね」
 俺は必死に笑顔をつくった。いつもの顔に戻せていたかどうかは、もう、ツッキーにも分からなかっただろうけど、出来るだけ柔らかく、何も考えない笑顔を浮かべたつもりだった。
 病室を出るために振り返った一瞬、ツッキーの顔が曇った気がした。それを自分の気のせいだと思い込みたくて、俺は逃げるように病室から出た。
 扉を閉め終わった後、そのまま扉の板に向かって頭を押しつけた。自分の足元を見つめて、ぼろりと涙が出た。俺を知るツッキーは、俺が今まで知っていたあのツッキーは、どこに行っちゃったというんだろう。答えのない問いがぐるぐると頭の中を飽和した。








 次の日、俺は小学校と中学校のアルバムを抱えて病室を訪れた。
 その日の部活も休みにしてもらった。誰も理由を深く聞くことはなかったけれど、誰もがツッキーのお見舞いに俺が行くんだと察していたみたいだった。結局、俺は昨日のツッキーとのやりとりを誰にも話すことは出来なかった。口にしようとすると決まって涙が溢れそうになって、何回も言葉を見失ってしまった。
 コンコン、とノックをしてから、病室の中に入った。昨日と違ってツッキーはもう目ざめていて、ベッドに腰かけたまま本を読んでいた。その顔色は悪くなさそうで、俺はちょっとだけホッとした。
「ツッキー、調子はどう?」
 ベッドの隣に小さな丸椅子が置かれているのを見つけ、俺はその足元に荷物を下ろした。背もたれのない金属で出来た椅子は年季が入っていて、俺が腰を下ろすと小さく軋む音がした。持ってきたアルバムの、薄い方を膝の上に載せる。
「昨日ツッキー覚えてないって言ったけど、写真とか見たら思い出すかなーって思って、引っ張り出してきたんだ。俺とツッキーが一緒に映ってる写真とかあるし、ほら、一回だけ一緒のクラスになった時の担任の先生の写真とか、ちょっとしたきっかけで思い出したりすることもあるっていうし、さすがにちょっと重たかったけど、ツッキーが思い出してくれるなら、俺、」
「あの、」
 ぺらぺらとページをめくりはじめていた俺に向かって、ツッキーが言った。その声に、俺の頭の中の奥の奥の方が、違和感を覚えて、俺は、ゆっくりと頭を上げて、ツッキーの顔を見た。目が合った。ツッキーの目には、困惑の色が浮かんでいた。もしかして。俺は浮かび上がった五文字を全力で忘れようとした。でも、
「はじめまして……じゃ、ないってこと?」
 息が止まるって、こういうことを言うんだ。そう、思った。
 ツッキーは、俺のことを覚えてはいなかった。
 そんなわけない、そんなことあるわけない。俺は必死に自分に言い聞かせて涙をこらえた。うつむいたままの視線が膝の上に開いたアルバムのページに落ちて、ぽたりと小さな滴が堪え切れずに写真の上にこぼれていった。そこには小学校運動会のリレーで勝った、俺とツッキーが写されていた。小学校五年のとき、ツッキーが急にアンカーの子と交替して走ることになった俺たちのチームは、ぶっちぎりで優勝した。普段は冷静なツッキーも嬉しそうに大きく笑って、カメラに向けて大きなピースサインをしていた、その時の一枚だ。写真の中の俺たちは肩を組んで、一等の赤い旗を掲げながら、大きく笑っていた。
「ほら、だって、」
 俺は重たいアルバムをツッキーの目の前に差し出した。
「小五の時、リレーで俺たち一緒に優勝したよね」
 大きなアルバムのページをめくる。
「キャンプも同じ班で、同じテントで寝たよね。俺、虫よけ忘れて刺されまくって、二日目に見かねたツッキーが虫除けスプレー貸してくれたりしたよね」
 もう二ページめくってみせる。
「卒業式だって、ほら、一緒に写ってる。ネクタイしめたツッキーはすごくオシャレで、この時から俺より背が高くって、」
 アルバムの最後のページを開く。
「寄せ書きだって、俺が『最後だから』ってお願いしたら、『また会えるのに』って呆れながらも書いてくれたよね」
 真っ白なスペースにぐしゃぐしゃと書かれたたくさんのメッセージの中で、その時ツッキーが書いた文字だけが俺の目には浮かんで見えた。
『忘れたくても忘れられるわけないでしょ』
 その時のツッキーは、「山口のうるささは」って口で付け足したけれど、それが照れ隠しなんだって、その時の俺でさえちゃんと分かっていた。
 それなのに。
 俺は恐る恐るツッキーの方を見た。ツッキーは俺の顔を見て、ただひたすら困っているようだった。
 白い部屋の中を、沈黙が包んだ。ツッキーは手にしていた文庫本を両手で閉じた。
「申し訳ないけど、ひとつも覚えてなくて、その……」
 俺の顔を見て言葉を濁す様子に、俺は仕方なく、
「山口。俺の名前、山口忠。ツッキーと友達」
 ツッキーは、少しホッとしたような表情を一瞬見せながら、すぐに申し訳なさそうに目を反らした。
「山口のことだけじゃなくて、自分の名前も、さっき医者に言われて初めて思い出したくらいで、中学までのことはなんとなくうっすら覚えてるけど、高校とか、その辺になると、ちょっと、」
 顔をしかめはじめたのを見て、俺はあわててツッキーを止めた。
「いいよ、無理に思い出さなくて。頭、痛くなるんだよね?」
 なんで知ってるんだ。俺を見たツッキーの顔には、そう書いてあった。
「あ、さっきお見舞いの手続きした時に看護婦さんに言われたんだ、ツッキーがもし頭が痛いって言ったら、それ以上無理はさせないでください、って」
 なるほど、とうなづいたツッキーの顔色は、ちょっとだけ良くなったみたいだった。
 俺は唇を噛んでアルバムのページを閉じた。俺とツッキーの六年間の思い出を詰め込んだ紙の束は、さっきとは比べようのないくらい重たくなっていた。大事なのは写真じゃなく、それを見て思い出すことの方なんだ、って、その時俺は初めて知った。
 俺とツッキーの七年間は、どこかに消えてしまっていた。
「ツッキー、俺……昨日、」
 昨日、って単語に顔をしかめ、俺をにらんだ。体の奥が、きゅうっとなった。そんなもの、自分の頭の中にはどこにも見あたらないんだけれど。そう語るツッキーの目線に、俺は必死に笑顔を作って、
「やっとツッキーに会えるって思って、嬉しかったんだ」
 それだけを告げた。
 ツッキーの中には、もう永遠に昨日も明日も存在しないんだ。俺は理屈じゃなくて、もっと深いところでそれを感じた。ツッキーの中に昨日の俺はいない。過去の俺もいない。それはつまり、未来の俺もいないってことだ。
 じわっと視界が滲んだ。あの事故の日から、俺の涙腺はおかしくなっていた。ズキズキと痛む胸を右手でおさえる。どくどく早く打ち鳴らされるその音が、涙を押し出すポンプのようだ。
 膝に感じる紙切れの束が重い。これを机の引き出しの奥から引きずり出した時、もし万が一ツッキーが写真でも俺のことを思い出せなかったらどうしようかと考えていたときのことをふりかえる。あの時俺は胸を痛めながら、それでもツッキーは生きているんだから、これから、今までの何倍もの思い出を作ればいい、もっともっとツッキーと一緒に長い時間を、いろんなことをしていけば良いんだ、って、そう思った。
 神様はいじわるだ。アルバムの上で握りしめた手の甲に、涙がこぼれおちた。
 俺の左肩にツッキーが手を乗せ、
「ごめん……」
 小さく謝り、申し訳なさそうに「山口」と添えた。その呼び方は俺の知ってるツッキーの声色とは全く違っていて、皮肉なことに、俺の頭の中にある、ツッキーのあの「山口」って俺を呼ぶ時のその声が蘇ってきた。頭の中でハッキリと比べられるその二つの差に、俺の胸は張り裂けそうになった。
 俺の知っているツッキーは、もうどこにもいない。戻ってくることも、またそうなることも、きっと、二度とない。
 俺が泣き止むまで、ツッキーの左手は俺の背中を撫でさすってくれた。それがまた、事故の前の日のツッキーだったらそんなことはしなかったんだろうなと思えて、さらに俺の涙を誘った。




 どうしてツッキーだったんだろう。
 俺は何でもいいから理由が欲しかった。くだらないものでも、小学生でも違うと否定できる安いものでも何でも良いから、どうしてこうなったのか誰か俺に説明してほしいと思った。
『昔、美しすぎる人は神隠しにあった』なんて言葉を授業で耳にしたときにも、それを信じてしまいそうになった。ツッキーは充分綺麗だった。かっこよかったし、頭も良かったし、何より優しかった。神様に選ばれたのだというと何だか綺麗に聞こえるけれど、だったら何で神様はツッキーを体ごと連れて行かなかったんだろうって思った。どうして俺とツッキーとの思い出ばかりを持って行ってしまったのか。どうして俺とツッキーの関係だけを壊していったのか。ただ、そんなことばかりを考えていたけれど、答えなんか見つかるわけがなかった。
 だって神様なんてはじめから、この世界にはどこにも存在してなかったんだから。




 ツッキーの記憶は目覚めた日から、一日ごとに上書き保存されているようだった。眠りにつくと自動的にリセットされるのか、自分の名前も入院している状況も全て目が覚めた時には綺麗さっぱりなくなっていた。ただ、病院の医者や看護婦さんが名前を教えてあげると、それにつられて、ある程度の記憶は思い出せるみたいだった。でもそれは中学までの記憶に限ったことで、高校に入学した日からその先、特に部活やバレーのことになると、ひどく頭が痛むのか苦しそうな様子を見せた。
 それは事故の原因と深く絡んでいるせいだろう、と医者は言った。だから小学校からあるはずの俺の記憶も同時に蓋をしてしまって、思い出すことが出来ないのだろう、とも。
 俺は医者の推察にただうなだれた。それはつまり、一緒に強くなろう、一緒にバレーの試合に出ようって俺が言った、あの日の約束がツッキーの中に根強く残っていたということだ。
 それと同時に、高校に入ってからツッキーにとってバレーっていうものの存在が大きな意味を持ったことの証明なんだ、と俺は思った。ツッキーは小学校でも中学でもバレーをしていた。それでも小中の出来事なら思い出せるのは、小学校や中学の思い出にバレーが強く絡むことは無かったからなんじゃないか。高校に入って、ツッキーが初めてバレーに本気になれたからこその結果なんじゃないかと思ったら、あまりの皮肉さに息が詰まった。
 病室の前まで来て、俺は深呼吸をひとつした。扉についた小さな窓ガラスに映る自分の顔に向かって笑顔をつくってみせる。
 大丈夫、笑えてる。
 俺は銀色のレバーに指をかけながら、もしかしたら、と淡い期待を否定できずにいた。もしかしたら、今日こそ本当の、二度目の奇跡が起きるかもしれない。この扉を開けて目が合った瞬間、ツッキーが俺に向かって「山口」って言ってくれるかもしれない。
 カラリ、と一息に開ける。
「おはよう、ツッキー」
 そんな俺の期待は、決まって裏切られた。それでもこの白い大きな扉を開けるとき、俺の心の中にはどうしようもない希望がキラリと光るのだった。
 だけれどそんな俺の小さな希望も、ひと月が経つ頃にはもうすっかり消えてなくなってしまっていた。それからようやく、俺は部活の仲間にツッキーの現状を話すことが出来た。それは二度とツッキーが元には戻らないんだと、そう思ったうえでの俺の降伏宣言みたいなものとなった。




 病室の扉のガラスに向かって笑顔の練習。これがいつしか日課になっていた。
 滑らせるように開けたスライドの扉を通って閉める。ゆっくりしていたらあっという間に帰る時間になってしまうから、まずやるべきことを先にやる。ベッドの隣の棚に置かれた洗濯物を回収して新しく持ってきたものと交換する。ツッキーが時間をつぶすための文庫本は、サイドテーブルの上に置いてみる。本は昨日ツッキーに買ってきてほしいと言われて、昨日帰りに本屋で買ってきたものだった。事故に合う前からツッキーはこの本のシリーズが好きで、きっと今でも楽しんで読むに違いないと思った。
 ちらっとベッドの中に目を向けると、枕に頭をのせたままの姿勢でツッキーが俺のことを見上げていた。まだ半分ねぼけているのか、ぼんやりとしたその目線に俺は、そっと微笑んだ。
「おはよう」
 ツッキーは重たそうな瞼を手でこすった。今日は不思議そうな顔をする日らしく、俺は慣れた調子でこう言った。
「お見舞いに来ました、月島くんと友達だった山口です」
 このフレーズを口にしても胸が痛まなくなったのは、一週間前。ツッキーが入院して、ひと月と一週間が経った頃のことだった。
「クラスの皆で順番に担当してお見舞いに来ることになってて、今日は俺の番なんだ。どう、頭とか痛かったりしないかな?」
 むくりとベッドの上に起き上がったツッキーは、大きなあくびをひとつした。
 ということは、今日の機嫌は上々ってことだ。病院でのツッキーの機嫌メーターの測り方を、俺はいつしか習得していた。基準が変わっただけで、ツッキーの様子からその機嫌が良いのか悪いのか読み取るのは、学校にいた時と何も変わらない。
 着替えを畳みなおして戸棚に入れる俺を見ながら、ツッキーがポツリと言った。
「すごい慣れてるように見えるけど」
 どきっとして、俺は一瞬肩に力をこめた。クラスの担当なんて嘘だとツッキーにばれたのかもしれない、と冷や汗が出た。
「家で手伝いとかしてるから、かな」
 ははは、と笑うと、ツッキーは興味なさそうに窓の外を見た。
 いつだったか俺がツッキーに適当な話をしているとき、不意にツッキーが、
「もしかして昨日も来たりした?」
 と尋ねたことがあった。その時も俺は胸をつかれて、一瞬返事に困ったのだけれど、
「いや、妙にコッチの事情を知ってるっぽいから」
 俺の態度からの推理だと知った時、安堵と残念な気持ちが胸の中に満ちていった。
「さっきお医者さんからいろいろ聞いたから」
 笑って答えた俺の言葉に、その時のツッキーは納得したみたいだった。俺ひとりが見舞いに来ているんだと知ったら、きっとツッキーはそこから、家族はどうしたのかとか、何で見舞いが俺なのかとか、そんなことを考えてしまうんじゃないかと不安になった。そうしたらまたツッキーは思い出したくないことを思い出そうとして、苦しんでしまうかもしれない。
 ツッキーは勘が良い。頭が良いから、俺のちょっとした言動でいろんなことを読み取って推理する。だからこそ俺はツッキーの負担にならないよう、気をつけていかなきゃいけない。これ以上ツッキーが苦しむ姿なんて、見たくない。
 ツッキーの記憶が一日しかもたないのなら、その二十四時間を平穏に過ごしてほしい。病室の外にある現実はツッキーにとってつらいものでしかないから、せめてこの部屋の中にいる間だけは傷つくことがないように。
「お腹空いてたりしない?夏ミカン、持ってきたんだけど、食べる?」
 ベッドの脇の丸椅子に腰かける。ツッキーは俺の手にある夏ミカンを見て小さくうなづいた。
 俺は分厚い皮を剥いて、中の房をとりあえず二つのかたまりへと分けた。半分になったうちのひとつの房を手に取って薄皮を剥く。
 一年前、おんなじようにツッキーと食べようと思ったら全然上手く剥けなくてツッキーに怒られたっけ。ツッキーのために猛特訓して綺麗に剥けるようになって、もう一年が経つ。なんだかそれが信じられなくて、くすぐったい気持ちになる。
 俺はつるりと現れた黄色い果肉のかたまりを、ツッキーに向けて差し出した。
「はい」
 じっと俺の手を見て、ツッキーは眉をひそめた。
「別に……自分の食べる分くらい、自分で剥くから」
 迷惑なんだけど、とツッキーの顔には、困惑の色が表れていた。俺は自分のしたことに今さら気がついて、スッと背筋を冷たいものが走っていった。
「ごめん、余計なお節介、だよね……」
 誤魔化すために頑張って笑おうとしたけれど、どうしても顔がこわばって上手く笑えている気がしなかった。
 ツッキーと俺がそういう距離感になったのは、高校に入ってからのことだった。居間のツッキーがそれを覚えているはずもないし、思い出せるわけもない。そんなことは嫌というほど、このひと月で思い知らされたはずなのに、まだ俺の中には自分の頭の中にある思い出を追いかけようとしている部分があるみたいだ。
 ごめん、ツッキー。
 俺は心の中で何度も、そうくりかえした。手の中にあった夏ミカンの房は綺麗に剥けていたはずなのに、口に含んだ瞬間、指先がベタベタと汚れて、妙に酸っぱく感じられた。
 去年ツッキーと食べた、あの甘い夏ミカンの味は、もう二度と食べられないんだ。
 そう思ったら鼻の奥がツンとして、部屋の中を満たしていた夏ミカンの香りが分からなくなってしまった。
 食べ終えた皮をまとめ、ツッキーにウェットティッシュを手渡す。ツッキーが指先を拭っている間に持ってきたビニル袋にごみをまとめて、最後にウェットティッシュのごみも回収してから袋の口をぎゅっと結んだ。この病院では、持ち込んで出来た生ごみは基本持ち帰らないといけないことになっている。もし見つかったら看護婦さんに怒られて持ち込み禁止になることもあるっていう噂だった。
「じゃあ、俺、そろそろ帰るね」
 時計の長針はもうすぐ、俺が来た時刻から半周を過ぎたところにさしかかっていた。そろそろ部活に戻らないと間に合わない。
 ひと月前、ツッキーが入院して間もないころに、俺は顧問の武田先生と烏養コーチに相談した上で、お見舞いのために部活を抜ける許可をもらっていた。その日の部活はじめの時刻からきっかり一時間、絶対に部活はサボらずに学校に戻ること。学校と病院を往復しないといけない約束は大変だったけれど、部活が終わってからでは、病院の面会時間には間に合わないと分かっていた。ひと月が経って、毎日の繰り返しに俺の体は、すっかり慣れてしまった。何より、俺はツッキーと過ごすこの時間のためだったら、なんだって出来る気がして、つらいだとか面倒だなんてことは一切思わなかった。
 ツッキーは帰ろうとする俺を見て、不思議そうにちらっと時計を見た。それがなんだか俺も気になって、どうしたの、と聞いてみた。一瞬ツッキーは俺の声にハッとしたみたいだったけど、俺の顔を見るなり、別に、とつぶやいて、俺に応えるように右手を振った。
 ずっとこうしてこのままツッキーは、永遠に"今日"を生き続けていくんだろう。
 その日の帰り道、俺はそんなことを思いながら、学校へと向かう路線バスに揺られて赤く染まりだした西の空を眺めていた。


 それは、そんな日の、次の日に起こったことだった。


 次の日、俺はいつもどおり病室の扉のガラスに笑いかけてから中へと入った。ツッキーは、昨日俺が置いていった文庫本を開いて静かに読書をしていた。
 すぅっと顔を上げたツッキーは、俺の顔を見て小さく首を傾げた。
「お見舞いに来ました。同じクラスの、友達の山口です」
 おおげさに笑顔をつくりながらベッドへ歩み寄る。もう使い慣れた丸椅子の足元に荷物を置く。昨日から始まったテスト勉強のせいで膨らんだ鞄を下ろすと、肩に解放感がやってくる。
「クラスで順番に月島君のお見舞いをしようってなってて、今日は俺なんだ」
 いつもの説明を口にしながら、戸棚の中を確認する。洗濯物は少なそうだから、予定通り明日持って帰れば良さそうだ。俺はホッと息を吐き出して、戸棚を閉めた。
 ツッキーは相変わらず小説の文面に夢中な様子だった。やっぱり好きなものは変わらないんだと思うと、俺はツッキーに分からないようにちょっとだけニヤッとした。買ってきて正解だったと、胸の中がほっこりする。
 椅子に座ろうとすると、手元のサイドテーブルの上に、昨日は無かったはずのビニル袋が置いてあることに気がついた。なんだろう、と首を傾げて手に取ると、ふわりと甘酸っぱい香りが鼻につく。半透明のビニルから透ける中身を見て、俺は昨日の夏ミカンを思い出した。もしかして、昨日持ってきたうちのいくつかを、ここに置き忘れていったのかもしれない。
「これ、ツッキーが食べたの?」
 文庫本から目を離すことなく、ツッキーがうなづいた。
「そこにあったから、ついさっき」
 そっか、と俺はごみの入ったビニル袋を荷物の中に押し込もうとして、ふと、ある疑問を抱いた。
「つい、さっき?」
 ツッキーは文庫本からようやく顔を離して、俺を見た。それの何が悪いんだ、と言いたげな顔で。
「午前中に医者に聞いて、良いって言われたんだけど」
「ごみについては?」
 ごみ?と顔をしかめたツッキーを見て、俺は自分の手が震えているのが分かった。
「ベッドの隣にごみ箱があるのに、どうしてビニルに分けて入れてあったの?」
「それは、別に……なんとなく」
「誰かに説明とか、された?」
 質問しかしない俺に不安そうな顔を見せながらも、ツッキーは、「特には、されてないけど」と、ハッキリ口にした。
 俺は興奮しそうな自分を必死に抑えながら、ツッキーを困らせないように、とりあえず深呼吸をした。まだ分からない。まだそうだって、決まったわけじゃない。そんな言葉で自分を落ち着かせる。
「それが何だっていうわけ?」
 ツッキーは俺の顔を見ながら、眉間にしわを寄せた。
「いや、何でもないんだ。ごめん、読書の邪魔して」
 呆れたようにため息をついたツッキーは、手元の文庫本に視線を落とした。三百ページは超えている分厚い文庫本のラスト五十ページ当たりをツッキーは読み進めているところだった。
 そんなツッキーを見て、俺は新たな疑問を抱いた。
「ツッキーこの本、今日、何時から読んでる?」
 黙ると言ったばかりなのに話しかけた俺を、横目に睨みつけながらツッキーが答える。
「一時間前からだけど、それが何?」
「この本、ツッキーが好きなシリーズの最新刊だよね?」
「それが?」
「今日、もしかして、途中から読み始めたりした?」
 はぁ?と俺を見てツッキーが呆れた時に発するその声を出した。
「当たり前でしょ、一時間でこんなに読み進められるわけないし、しおりが挟まってたところから読み始めて何が悪いわけ?」
 わけがわからない、と顔をしかめるツッキーに対し、俺は、奇跡だと思った。その本は昨日俺が初めて持ってきた、一昨日発売したばかりの最新刊に間違いなくて、そこにしおりが挟まっていたということは、昨日ツッキーがそれを読んだということ、そして、そのしおりが挟まっていたページから今日のツッキーが何の疑問も持たずに読み進めていたということは、つまり、昨日読んだ本の内容を、今日のツッキーが覚えていたということになる。その、意味するところは。
 頭の中に結論が出た途端、俺の目に涙があふれ出た。ツッキーの記憶は、もしかしたら、いつかどこかで戻るのかもしれない。そう思った時には、こぼれる涙が止まらなくなっていた。
 隣で泣く俺を見かねたのか、ツッキーがそっと右手を背中に当ててくれた。左肩の近く、長い指さきがゆっくりと左右に撫でた。その撫で方は、いつだったか俺がミスをした試合の後、俺を慰めてくれた時のツッキーの仕草とまるっきり同じだった。
 やっぱりツッキーは、ツッキーのままなんだ。醜い嗚咽を漏らしたら、困ったツッキーの乾いた笑い声が短く聞こえた。


 毎日変わらないような、そんな日々の中で、こんな一日もあった。


 俺がいつものように病室を訪れて、
「お見舞いに来たよ、俺、学校の同じクラスの山口」
 こんないつもの説明から始めようと思ったところ、ツッキーが大きな声で笑い出した。その声は廊下にも響くんじゃないかってくらい高らかで、俺は出鼻をくじかれた。何が起きたのかと目を白黒させていたら、俺の目を見たツッキーが苦み走った顔つきでこう言った。
「全部知ってる。僕と友達の山口でしょ?毎日毎日ここに見舞いに来てる」
 はじめは何を言われているのか分からなかった。数秒の時間をつかって俺の脳みそは、その意味を汲みとった。
「ツッキー、俺のこと、分かるの?」
 自分の唇が震えているのが分かった。きっとツッキーのいう、間の抜けた顔ってやつを今の俺はしているだろう。それでもいい。だって、ツッキーはその顔が嫌いじゃないって、いつだったか言ってくれたから。
「思い出してくれたんだね?」
 泣き笑いの俺を見つめながら、ツッキーはにっこりと笑った。でもその笑顔に、俺の頭を嫌な予感がよぎっていって、
「いや、さっき看護師が話してたのを、たまたま聞いた」
 次の瞬間、それは的中した。
 さっきそこの廊下で新入りの看護師に古株の看護師が僕のこと説明してたみたいで。親類失くしてひとりぼっちになったのを同情してか、毎日友達の男の子が見舞いに来てるって。寝たら記憶がなくなるからって毎日同じ嘘ついてるから可哀想になる、って、そんなことをぺらぺら廊下で話してるから嫌でも聞こえたんだよ。
 ツッキーは俺に対して、そんな風な言葉で説明したうえで、最後に、冷たく言い放った。
「勝手に可哀想だって思ってるなら、明日からは来なくていいんだけど」
 俺はそれに何一つ答えられないまま、その日は体調不良の連絡をして部活にも戻らず、すぐに家へと帰って泣いた。
 次の日、ツッキーは何一つ覚えていなくて、いつもと変わらないツッキーに、俺はホッとした。そんな自分を、俺は土に埋めてしまいたいと思った。二度と、そう思わないことを心に誓った。


 そんな日がある反面、こんな日も一日だけあった。


 いつもの挨拶をし終えた俺を、ツッキーがまじまじと見つめて、不思議そうに首をかしげた。
「それ、昨日も聞いたと思うんだけど……何?なんかの罰ゲーム?」
 一度目のことを思い出し、また病院の中にいた誰かから俺のことを聞いたのかもしれない、と俺は喜びそうになる自分をおさえこんだ。今まで何回期待して、何度絶望して、どれだけ泣いてきたのか。この数か月のうちにあった山ほどの痛みを思い出しながら、俺は慎重にこう返した。
「違うよ」
「じゃあ何で昨日とまるっきり同じこと言う必要があるの?僕のこと、からかってるわけ?お前は僕の友達、だっけ?山口忠、僕と小学校からの付き合いのやつなんでしょ?昨日、一緒にハーゲンダッツ食べながら、聞いても無いのに話してたこと、忘れてると思ったわけ?昨日の今日で?」
 馬鹿にした調子で俺を見て笑うさまは、俺の知っていた、懐かしいツッキーに限りなく近かった。それでも俺は確信が持てなくて、
「じゃあ昨日、ツッキーが食べてたのは何味?」
「……クッキークリーム」
「俺が食べてたのは?」
「抹茶」
 奥歯をぐっと噛みしめて、俺は「正解」とささやいた。
「何かのテストのつもり?記憶力チェックして何がしたいの?」
 人をからかう時のツッキーの口ぶりがあまりにも懐かしくて俺は、つい、にやっと笑ってしまった。笑ったはずなのに下がった目じりから水滴がこぼれ落ちて、あぁやっぱり俺の涙腺まで馬鹿になったんだなぁ、なんて思った。
「昨日、山口言ってたでしょ、今日、山口の誕生日だって」
 俺はぐしゃぐしゃの笑顔で、そうだよ、と答えた。ツッキーは、病院だから何も用意できなかったけれど、と照れくさそうに言いながら、小さくハッピーバースデーの歌を歌ってくれた。
 ツッキーの記憶が二日以上続いたのは、後にも先にも、その日が最後だった。その瞬間だけ俺は、神様は本当にいるのかもしれないと思ったのだけれど、三日目にツッキーが元通りになっていたとき、やっぱり神様なんてこの世界にはいないんだと痛感した。
 ツッキーの記憶は常に不安定だった。自分からバレーのことを思い出して部活の話を聞きたがる日もあれば、俺が明光君とツッキーと小学生の頃に三人で遊んだ時のことを話しただけで、例の頭の痛みに苦しみだしてしまう日もあった。記憶が半日しか続かない日もちらほらあったし、小学校のことすら思い出せない日さえあった。それでも、調子の良い時は前の日の記憶の断片が意識の中に残っているのか、俺の話を先読みする機会もいくつかあった。
 けれども心の状態は日によってまちまちで、俺がお見舞いに行ったときに柔らかい笑顔で迎え入れる日もあれば、来て早々に帰れと追い返される日もあった。友達だと言って信じてくれる日と、そうじゃない日はランダムで訪れたし、話を聞いてさえくれない日も何回かあった。
 でも、一番俺自身が困ったのは、ツッキーが俺に向かってこんなことを尋ねた時だった。
「山口、ひとつ頼み事があるんだけど」
 秋の木枯らしの吹く、妙に寒い日のことだった。ツッキーは厚手の上着を肩に羽織りながら、眠気を誘われたのか、うとうとしていたところだった。
「何?」
 俺は温かいウーロン茶を飲みながら返事をした。ツッキーが困った様子で目を反らしながら、俺の手元に自らの右手を差し出した。
「それ、ここ置いて」
 持っていたカップをとられる。ツッキーはカップをサイドテーブルに置くと、俺の左腕をとって、強く引いた。引き寄せられた俺はバランスを崩してツッキーの首元に顔を埋めた。背中に温かい感触がして、数秒経ってからやっと、ツッキーに抱きしめられたんだと分かった。何が起きたのかさっぱり状況を読めない俺の耳元で、声がした。
「いつか、ずっと前、こうした覚えがあるんだけど、山口は覚えてたりするの」
 どう返事をするべきか悩みすぎた俺は、気づいたら言葉の代わりにツッキーの体に腕を伸ばして応えることを選んでいた。ぎゅうっとしがみついた体は入院している間に痩せたのか、もともと細かったせいもあってか、俺より大きかったはずなのに、今では自分より小さいように思えて仕方なかった。
 やっぱり、ツッキーだ。俺はホッと息を吐き出しながら、そう思った。空気のなくなった胸は、ぎゅうっと締めつけられて痛くなった。
「自分でも変だと分かってる、だけど、」
 俺の肩に頭を寄せて、ツッキーが言った。
「何でかこれか妙にしっくりきて、懐かしく感じる」
 深く吐き出したツッキーの息が俺の肩に染みこんだ。その幸せそうな吐息に俺は、ひと月ぶりにツッキーの側で涙を流した。
 ツッキーの頭の中に俺がいなくても、俺とツッキーが恋人として過ごしていた時間は決してなくならないんだと、そうツッキーに教えてもらったような気がして、俺は胸が熱くなった。
 その熱を決して忘れずにいよう。ツッキーの代わりに何十倍も多くのことを覚えていこう。そう、心に誓った。
 いつまでも出来る限り一緒にいよう、とも。































 目が覚めたら見覚えのない天井が視界に映り込んだ。窓越しに聞こえる鳥の鳴き声がうるさい。横になった体にかけられた布団ごと、その場に起き上がる。自分がもう一人いても困らないだろう大きめのベッドに寝ていたのだと気がつく。
 部屋をぐるりと見回してあくびをひとつ。とりあえず喉が渇いた。水を飲むには、どうしたらいいんだろうか。
 ベッドを降りて、部屋のドアの前に進む。ドアノブを握って押し開ければ、白い壁に囲まれたリビングに続いていた。どこからか甘い匂いが漂ってきて、誘われるようにリビングを横切っていく。
 リビングの壁を挟んだ向こうはキッチンになっていて、そこにはエプロンをつけた男が一人。「あ」とこちらに気がついて目が合った。手にしている皿の上には焼きたてのフレンチトーストが半分にカットされて載せられていた。
「おはよう、ツッキー。ご飯、出来てるよ」
 男は僕の顔を見つめて、何故か嬉しそうに目を細めて笑った。
「俺はツッキーとルームシェアしている、山口です」
 そして照れくさそうにニヤけながら、こうつけたした。
「ツッキーは覚えてないかもだけど、れっきとしたツッキーの恋人です」
 自分の置かれた事情がいまひとつよくわからないが、みぞおちのあたりから空腹を知らせる音が聞こえてきたくらいだから、まずはその僕の分まで用意されている食事とやらを済ませてからでも遅くはないだろう。
「今日の仕事はもう終わらせたし、一日ずっとゆっくりできるよ」
 トーストをかじりながら、さっき山口と名乗った男が笑いかけてきた。よくは分からないけど、毒は入って無いようだし、とりあえず味も悪くはない。
 何故だかいろいろなことが抜け落ちてしまっている気がしてならないのだけれど、へらへらと笑っている山口の顔を見ていたらこちらの気も自然と抜けて、流れに身を任せてみようといつしか考えていた。
 朝食を終えたら、ひとまずここから質問してみよう。
 "ツッキー"なんていうネーミングセンスは、いかがなものか、と。