むかしむかし、世界のすみっこで、いっぴきの悪魔が誕生しました。悪魔は三つの願いをかなえる不思議な力と、人間を惑わすための美しい容姿を与えられました。
 数十年、数百年、数千年の長い時の中で、悪魔はいろんな人間と出会い、いろんな人間の願いを叶えてきました。
 人間たちが告げたたくさんの願いの中でも、特に多かったのは権力を得ること、それに次いで多かったのはお金を得ることでした。ひとりの願いを三つ叶えると、その人間のいのちをもらう契約になっていました。良い人間もいれば、悪い人間もいて、三つの願いを叶えて満足する者もいれば、命乞いをする者も少なくありません。願いを二つまで告げたところで、それ以降いっさい願いを口にしなかった賢い者も何人かいましたが、長い年月のうちに数えるくらいで、大概の人間は、ひとつなら、ふたつまでなら、と誘惑に負けて結局さいごの願いを口にしてしまうのでした。
 そんなことを続けているうちに、悪魔はなんだか胸のあたりにぽっかりと穴が開いたような気持ちになりました。どんなに人間の願いを叶えても、叶えた人間の人生はすぐに破滅を迎えます。
 自分がしているのは何だろう、何で人間の願いを叶えることが決まっているのだろう。人間なんて醜くて、汚くて、自分勝手で、馬鹿げた生き物だって嫌というほど見てきたと言うのに、いつまでこんなことを続けなければならないんだろう。
 そう考えるようになったのは、悪魔が誕生してから千年後のことでした。
 千と百三十五年が過ぎた、ある晴れた日のこと。悪魔が昼寝をしようと公園の遊具のてっぺんに寝そべっていると、何やら騒がしい声がしました。
「おいブツブツ、今日からお前、カバン係な」
「うえ、またこいつ泣くぞ」
 見れば、何人かの子供が、ひとりを囲んでランドセルを押し付けています。悪魔は気まぐれに子供たちの後ろがわに近づいてみることにしました。
 囲まれたひとりの男の子が、目に涙をいっぱいためていじめっ子たちを見上げています。その冴えない顔を見た悪魔は、暇つぶしにはなるかと、自分の姿を現すことにしました。
「ふぅん、かっこ悪」
 話しかけた悪魔を見たいじめっ子たちは、おどろいて、そそくさとその場を逃げていきました。残された男の子は、隣に立つ悪魔を見上げて、固まっています。どうやら、驚きのあまり、走り出すタイミングを逃してしまったようです。
「誰?」
 なんとか口を開いた男の子の質問に、悪魔はつまらなさそうにため息をついて、いつものフレーズを口にしました。
「叶えたい願いを三つまでなら、何でも叶えてあげるけど、どうする?」
 どうせいじめっ子たちをこらしめてほしいだとか、学校の成績を上げてほしいとか、そんなところだろうと見当をつけていた悪魔に、男の子は、恐る恐る告げました。
「だったら、俺の友達になってよ」
 予想外の願いに悪魔は一瞬戸惑って、首を傾げました。
「もっとうまく願いを言えば良いのに、友達百人ほしい、とか、有名人の誰々と親友になりたい、とかさ」
「ううん、君が良い」
 はっきりと首を振った男の子の名前は、山口忠といいました。山口は悪魔に手を差しだすと、にっこりと笑いました。
「さっき、すっごくカッコ良かった。君みたいな友達が、ずっと欲しいって思ってたんだ」
 悪魔は顔をしかめながら、結局はその屈託のない笑顔に負けて、握手をしました。
 きゅっと指に力をいれて小さな手を握ると、悪魔の胸の中が、ちょっとだけムズムズしました。
「じゃあ、これがお前の一つ目の願いで良いんだな」
 山口は悪魔の手をしっかりと握りしめ、大きくうなづきました。
「あだ名とか良いなって思うんだけど、あだ名で呼んでも良い?」
 好きにすれば、とつっけんどんに告げた悪魔に、山口は「ツッキー」というあだ名をつけました。
 この日から山口とツッキーは、友だちになりました。
 山口は、それから長いことふたつめの願いを口にすることはありませんでした。悪魔のツッキーは山口のそばをふわふわとふわついては、時々姿を見せて山口と一緒に遊んだり、勉強をしたりしました。
 そんな日々が過ぎていくうち、悪魔は他に契約していた人間のことをすっかり忘れてしまいました。呼び出そうとする声に応えるのも面倒くさくなっていってしまったのです。それだけでなく、ふとしたときに、自分が悪魔であることを忘れてしまうことさえ、だんだんと増えていきました。生まれた時にもらった名前や姿をつかう代わりに、山口に会った時の姿、山口からもらったあだ名を自然とつかうようになりました。それまでいろんな名前、いろんな姿、いろんな声を使い分けていた悪魔は、山口と同じ年くらいの見た目の、ちょっと冷めた目をした"ツッキー"になりはじめていました。
 このままずっと願いを口にしないまま、ツッキーは山口の友達のままかと思われた、冬のこと。もうちょっとで山口が高校生になるかという時、ようやく山口は二つ目の願いを口にしました。
「俺と付き合ってほしいんだ」
 それは願いというより告白でした。人を惑わすための容姿を備えた悪魔に惚れてしまう契約者は、過去にも何千人といました。もちろん、男も女も関係ありません。人間が願えば、その人間の前では異性にも同性にもなることが出来るのですから。
 ツッキーは山口の願いに驚くどころか、自分の胸の奥で何かがチクッとしたことに疑問を抱きました。
「それが二つ目の願いで良いわけ?」
「え、あ……うん……」
 煮え切らない返事をしながらも、山口は右手を差し出しました。悪魔は、しぶしぶ自分の右手でその手を握り返しました。出会ったあの日とは違って大きく骨ばった男の手に、悪魔はもやもやとした何かを胸に抱きました。
 次の日から、山口とツッキーは恋人同士になりました。それというのも、同じクラスに所属する恋人になるという条件付きでしたので、ツッキーはその春から山口と一緒に烏野高校に通い始めるようになりました。数年の付き合いのうちで、山口も少しはずる賢さを身に着けたのでしょう。同じ制服を着て、同じ部活に入り、二人は他人から見れば、普通の友達どうしに見えました。
 楽しい高校生活を過ごしながら、ツッキーは、いつ山口が三つめの願いを告げるだろうかと考えていました。三つめの願いを叶えた人間から魂を奪うことは絶対的なきまりです。もし相手の魂を取り損ねれば、自分の存在が代わりになくなってしまいます。
 いつもは何とも思わないそのきまりに、ツッキーは何故か強い疑問を抱きました。
 そんなツッキーの思いを知ってか知らずか、ある日、山口がこんなことを聞きました。
「三つめの願いを叶えた人間の魂を奪った後って、どうするんだっけ?」
 山口とつないだ手に思わず力をこめたツッキーは、淡々と告げました。
「原型が分からなくなる程ちりぢりにちぎって、あぶって、溶かしてから、飲み込んで、そして、」
 静かに自分のお腹を指さしました。山口は、そっか、と短く告げて、ゆっくりと微笑みました。
「ツッキーのからだの一部になるなら、俺は幸せかもしれないなぁ」
 悪魔は、五百と三十五年ぶりに驚きました。そんなことを言う人間は初めてだったからです。皆おびえたり、怒ったり、怖くなったりして、聞いたことを後悔するのが当たり前だったというのに、山口だけは、嬉しそうに笑ったのでした。
「何言ってんの、存在そのものがなくなって、生きてた証も、関わった人間の記憶も、全部なくなるっていうのに、どうして幸せだと思えるわけ」
 問い詰められた山口は、照れくさそうに笑いながら、こう答えました。
「だって、それって、ツッキーとずぅっと一緒に居られるってことだよね?」
 悪魔は返す言葉を失いました。
「本当はね、ずっと前から、三つめの願いはこれ、って決めてるんだ」
 山口は、ふいにそう告げました。悪魔は少し寂しそうな顔をして、それは何か、と聞き返しました。
「口にしたら願ったことになるんだよね?」
「別に、まだ叶えなければ大丈夫だけど」
 少しホッとした表情を浮かべた山口は、そっと口にしました。

 " ツッキーの願いが叶えられますように "

 悪魔はまたもや驚かされました。そんなことを願う人間も、これまた初めてだったのです。
「だって、ツッキーは他の人の願いを叶えることが出来るけど、じゃあツッキー自身の願いは、誰が叶えてあげるのかなって、そう思って。俺は今まで、ふたつもお願いを叶えてもらったから、一個くらいツッキーにわけてあげられたら良いなって、そうも思ったんだ」
 恥ずかしそうに笑う山口の様子に、嘘の気配は一ミリもありませんでした。
「何それ、全然嬉しくない、大きなお世話なんだけど……そんなの、気持ち悪いだけなんだけど」
 むずむずしてたまらない胸を押さえながら、ツッキーは大きく顔をしかめました。そのほっぺは、りんごのように真っ赤になっていました。本当は嬉しくて、嬉しさのあまり涙が出そうになっていたのですが、生まれてから一度も優しくされたことのなかったツッキーには、今の自分の気持ちを何て呼んでいいのか、どんなふうに応えたら良いのか、少しも分からないでいました。ただ、ひどく居心地が悪くて、心臓が騒がしく打ち鳴らされていることが、すごくすごく一大事のように思えて、目の前にいる山口という人間が、今まで見てきた人間とは、全く異なる生き物のような気がしてなりませんでした。
「気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、お前なんかもう居なくなれば良い。さっさと別の三つ目の願いを言ってよ、そうしたらあっという間に存在がなくなって、ただの魂になるだけなんだから」
 山口は少し考える素振りをしましたが、数分も経たずに、こんな結論を出しました。
「ごめん、ツッキー。もう俺、他に願い事思いつかないや。だから、俺の三つめのお願いは、」
「待った、まだ言うなよ、そんな願い、こっちは叶えたくなんかない」
 首をふるツッキーの手をとり、山口は強く握りしめました。その手は温かいと言うより少し汗ばんで、きっと数年前の自分では気持ち悪いと感じていた温度でした。きゅっと包まれた手から、見えない何かが流れ込んできて、ツッキーの胸を熱くさせました。
「"ツッキーの願いが叶えられますように"」
 自分の手を握りしめる山口の手の柔らかさに胸をつかれたツッキーは、ささやかすぎる抵抗を見せたのち、ゆるゆると指を折り、山口の手を握り返しました。
 山口の三つめの願いは、この時、叶えられました。














        ******


 数十年後のある日、ツッキーは日本の病院の一室にいました。ツッキーの隣には一人の年取った老爺が、ベッドの中に横たわっていました。
 老爺はツッキーを見上げると、嬉しそうに微笑みました。
「もうすぐなんだね、ツッキー」
 ツッキーは、ゆっくりとうなづきました。そしてちらりと時計の文字盤を見やると、何十年も使うことのなかった悪魔の爪を露わにしました。
 時計の針が進み、その時がやってくると、ツッキーは静かに手を振り下ろしました。
 手の中におさめられたひとつの魂を、ツッキーはとても大切なものを扱うときのその仕草で胸にかかえると、そっと一人、病院の外の夜空へと舞い上がっていきました。
 夜空の星と同じくらい遠くへと昇って行ったツッキーは、目を閉じ、静かにその魂に唇を寄せました。
 かつて山口が願った三つめの願いは、こうして完全に叶えられることが出来ました。
 あの瞬間、山口の三つめの願いによって叶えられたツッキーの願いとは、 "ずっと山口と一緒にいること "だったのです。
 宇宙のすみっこで自分の体が少しずつ消えていくのを見ながら、悪魔は初めて涙を流しました。その涙はキラリと夜空に光り、とびきりきれいな流れ星として、たくさんの人の記憶に残りました。




おしまい。